改訂新版 世界大百科事典 「オットー美術」の意味・わかりやすい解説
オットー美術 (オットーびじゅつ)
10世紀半ばから11世紀半ばにかけての約100年間に興隆したドイツ中世初期の美術。時代は,カロリング王朝分裂後にドイツの政治的統一を完成したザクセン朝(919-1024)にほぼ重なるが,同朝の3人のオットー帝(1~3世)治下で美術が著しい発展を見せたため,こう呼ばれる。この美術は次のザリエル朝の創始者および2代皇帝の時代にも継承された。オットー美術の源泉としては次の三つが挙げられる。(1)先行するカロリング朝美術(とりわけ写本画),(2)古代末期と初期キリスト教美術,(3)同時代のビザンティン美術(972年,オットー2世とビザンティン皇妃テオファノとの結婚などによる)。これらの伝統を消化しつつ民族色の強い表現が形成されてドイツ・ロマネスク美術の発端をなし,その影響は国外にも及んだ。とくに見るべきは写本画芸術で,カロリング朝の遺産を受け継ぎ大きな発展をとげた。前代同様,皇帝や宮廷,高位聖職者が美術品の重要なパトロンであったが,前代のような宮廷工房は存在せず,ライヘナウやエヒテルナハなどの大修道院の写本所(スクリプトリウム)で,国内各地の教会への贈物として注文された豪華な大写本類が制作された。このほか,ケルン,トリール,レーゲンスブルクなどにそれぞれの特徴をもつ画派が生まれた。とくにライヘナウ修道院は,この時期の写本画芸術の頂点をなす《オットー3世の福音書》《ハインリヒ2世の聖書抄本》などを生み,これらの図像は緊張感と明晰さにあふれ,太い輪郭線,大きく見開かれた目などに特色を示す。建築においては,西構え(ウェストウェルクWestwerk)と二重内陣形式(東西に内陣をもつ)などカロリング建築の伝統を継承した。ゲルンローデGernrodeのザンクト・ツィリアクス女子修道院教会,ヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエル修道院教会がザクセン朝治下の代表的建築。後者は東西に袖廊(トランセプト)をもつ多塔形式をとり,とくに交差部の正方形がプランの基準となる明確な構成はオットー建築の典型をなし,ドイツ・ロマネスク建築へ受け継がれていく。マクデブルク大聖堂(1028焼失)のように教会堂内部が一連の壁画で飾られることはまれではなかったが,大部分は失われ,オーバーツェルOberzell(ライヘナウ)のザンクト・ゲオルク聖堂(とくにキリスト奇跡を表す大画面)にわずかに遺例が見られるのみである。工芸では,象牙細工は前代ほど重要でなくなり,金工がめざましい発展をとげ(《バーゼルの祭壇前飾》など),同時代ヨーロッパで最も高い水準に達した。ヒルデスハイム大聖堂の《ベルンワルトの扉》と青銅柱は,生き生きとした説話図像に満ちた青銅浮彫の傑作である。また木彫の《ゲロの磔刑像》(ケルン大聖堂)は,中世ヨーロッパの大彫刻の最も早い作例の一つとして,ひろく知られる。
執筆者:越 宏一
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