ラージンの乱(読み)ラージンのらん

改訂新版 世界大百科事典 「ラージンの乱」の意味・わかりやすい解説

ラージンの乱 (ラージンのらん)

1670-71年に起きたロシアの農民反乱。ドン川流域のコサック(約2万人)は,モスクワ国家の南部辺境への異民族の侵攻を防ぐ代りに,軍事物資,穀物を供与され,なかば自治的な状態にあった。黒海,カスピ海沿岸での彼らの略奪行為は黙認され,ドンからは都市や農村からの逃亡民も送還されなかった。だが17世紀半ばの農奴制の確立とポーランドスウェーデンとの戦争(1654-67)のなかで,ドンへの逃亡民は急増した。チェルカッスクに住む特権的で富裕なコサックとドン川上流や支流域の新来の下層コサックとの溝は深まり,1666年にはウスVasilii Rodinovich Usとその仲間(約500人)が,ロシア政府に反抗する構えを示した。こうした状況のもと,67年春から69年末にかけて,下層のコサックによるカスピ海への大規模な略奪の遠征が行われた。これを指揮したのが当時40歳のラージンStepan Timofeevich Razin(1630-71。通称ステンカ・ラージン)であった。

 上層のコサックで,ロシアの国内事情にも通じていたラージンは,70年春,再び数千人の仲間とドンを出発した。ボルガ川を渡り,ツァリーツィン(現,ボルゴグラード),さらにアストラハンを攻め落としたラージンの陣営は,ここにコサック体制をしき,遠征は反農奴制的傾向を強めていった。ボルガ中・下流域の諸都市は,抵抗もなく陥落し,ラージンは周辺地域に《魅惑の書Prelestnoe pis'mo》を送り,貴族や地方長官の打倒を呼びかけた。多くの農民貢租の支払をやめ,領主に制裁を加えて,ラージン軍に合流した。モルドバチュバシ,マリの少数諸民族もこれに加わった。こうして反乱は70年秋には頂点に達した。反乱の鎮圧のために南東部の要衝シンビルスクに派遣されたドルゴルーキー公の指揮するロシア政府の大軍は,10月初めラージン軍に大きな打撃を与えた。反乱はボルガのみならず各地に広がっていたが,シンビルスクの敗北以降,明らかに下火となった。負傷して,軍勢を立て直すためドンに帰ったラージンは,71年4月に政府軍に捕らえられ,6月に弟フロールとともにモスクワで処刑された。反乱は多大の犠牲をともなったが,その後ながく民衆の間で語り伝えられ,ロシア民謡あるいはグラズノフ作曲の交響詩《ステンカ・ラージン》などにも歌われた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android