日本大百科全書(ニッポニカ) 「コサック」の意味・わかりやすい解説
コサック
こさっく
Казак/Kazak ロシア語
Cossacks 英語
コザック、カザークともいう。もとの意味は「向こう見ず」とか「自由な人」を意味するチュルク語からきている。最初のコサックは、トルコ人やタタール人の山賊や戦士であったが、ドミトリー・ドンスコイの時代からモスクワ大公に仕える者も現れてきた。その後15世紀から16世紀にかけて、モスクワ公国やポーランド王国の支配の強化を嫌って、辺境のステップ地帯に逃亡する農民の集団をさすようになり、さらに18世紀から20世紀初頭においては、軍役奉仕を義務とする特別の社会層をさすようになった。
ロシアにおける農奴制の強化、飢饉(ききん)、イワン4世(在位1533~1584)の圧政から、モスクワ公国の農民の一部はドン川流域に逃亡し、そこに、税を免れて自由な軍事的共同体をつくった。「ドン・コサック」とよばれるようになるこれらのグループは、動乱時代(スムータ、1606~1613)とくに大きな政治勢力となり、1613年ミハイル・ロマノフが即位するころには「ドンの大軍団」と称されるまでになった。一方ドニエプル川の流域に逃れたコサックは、早瀬の中の島に本拠を置いたところから、「ザポロジエ(早瀬の向こうの意)のコサック」とよばれた。彼らはアタマンとよばれる頭目を選挙で選び、すべて重要事項はラーダという全員集会で決めた。
コサックの生業は狩猟、漁業、養蜂(ようほう)業、牧畜などが主で、ときに略奪をも働いた。農業は、コサックの村に住むイノゴロードニィとよばれる非コサックの農民が主として行った。ポーランドのザポロージエ・コサックに対する圧迫はボグダン・フメリニツキーの乱(1648)を、ロシア政府のドン・コサックに対する支配の強化はステンカ・ラージンの乱(1670~1671)を生んだ。ロシア政府に対するコサックの最後の大規模な反乱はプガチョフの乱(1773~1775)であった。これ以後、コサックは中央政府の管理下に置かれ、1827年には皇太子をもって全コサック軍団のアタマンとするという法令も出た。
コサックは東方にも進出し、16世紀から17世紀にかけてイェルマークやアトラーソフВладимир Васильевич Атласов/Vladimir Vasil'evich Atlasov(?―1711)などのアタマンに率いられて、シベリアから極東まで遠征した。また、18世紀のなかばから19世紀の末までに、ロシア帝国の南部国境沿いに新しいいくつかのコサック軍管区がつくられ、1916年には13軍管区、443万(うち軍人28万5000)の人口を数えるまでになった。彼らは土地を与えられるかわりに軍役奉仕(18歳以上の男子で20年間)を義務づけられた。ロシア政府はこれらのコサックを帝政の支柱として、革命運動や労働運動を弾圧するのに用いた。コサックの生活を描いた文学作品に、ゴーゴリの『タラス・ブーリバ』、L・トルストイの『コサック』、ショーロホフの『静かなドン』などがある。
[外川継男]