ワンゼー会議(読み)ワンゼーかいぎ(英語表記)Wannsee Conference

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ワンゼー会議」の意味・わかりやすい解説

ワンゼー会議
ワンゼーかいぎ
Wannsee Conference

1942年1月20日,ドイツのベルリン郊外ワンゼーで開かれたナチス高官の会議。ナチスのユダヤ人に対する政策の転換点となり,ユダヤ人問題の「最終的解決」が計画された。ラインハルト・ハイドリヒを筆頭に,国家保安本部ユダヤ人課のアドルフ・アイヒマンを含む高官 15人が出席した。当初あった,ヨーロッパのすべてのユダヤ人をマダガスカル島に追放する計画は,戦時では実行困難として中止された。代案として出されたのは,東部へ移送して労働集団として組織化するというものだった。労働と生活の条件を厳しくして「自然減少」をはかり,生き残った者は「それなりに扱う」とされた。会議の出席者は国家のエリート層で,大半がドイツの大学での博士号取得者だった。司法省,外務省,秘密国家警察(ゲシュタポ),親衛隊 SS人種・移住本部,ユダヤ人資産の分配を管掌する機関,占領政府であるポーランド総督府などが代表者を送った。会議の最終的な決定のなかでユダヤ人の絶滅は明言されなかったが,会議終了から数ヵ月のうちに,ナチスはのちに「絶滅収容所」として知られることになる最初の毒ガス室をポーランドに設置した(→アウシュウィッツ収容所)。この計画の職責はハインリヒ・ヒムラーとその指揮下にある SS,ゲシュタポが負うものとされた。(→ホロコースト

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世界大百科事典(旧版)内のワンゼー会議の言及

【ユダヤ人】より

…シオニスト団体はこの間SSと協力してドイツおよびハンガリーなどの諸国からの〈ユダヤ人〉のパレスティナへの移住の組織にあたった。第2次世界大戦中42年1月ワンゼー会議で決定された〈最終解決〉に基づき,ナチス・ドイツ軍占領下のヨーロッパ諸地域,とくにポーランド,ソ連邦で〈ユダヤ人〉に対して行われた大量虐殺が,いっさいの目的合理性を欠いた狂気の自己運動であったのか,あるいは侵略戦争遂行の上で一定の政治的・経済的・軍事的役割を担った政策の結果であったのか,これを見きわめることは今なお困難である。ただ大量のユダヤ人囚人を使い捨ての安あがりの労働力として文字通り死ぬまで酷使し,しかもその死体までも利用し尽くし,これらをすべて経営上の収支決算として計算していたIG(イーゲー)ファルベンなどの独占資本があったことは指摘しておかなければならない。…

※「ワンゼー会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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