ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の首都。ミリャツカ川両岸,標高550mの盆地にあるオリエント色豊かな美しい町。人口43万(2004)。住民はボスニア人と呼ばれることもあるが,ボスニア民族というものは存在せず,古くから東方正教徒のセルビア人,カトリックのクロアチア人,イスラム教徒のムスリム人などが混在している。
古くから森と水の豊かな土地で,近郊から先史時代の住居跡が発見されており,西方のサラエボ平原は2~3世紀には第3アウグストゥス・ローマ軍団の駐屯地であった。この地へ南スラブ人,おもにセルビア人とクロアチア人が定住したのは7世紀に入ってからであるが,サラエボが文献に現れるのは1415年で,ブルフボスナといった。オスマン・トルコは,1430年ころボスニア陥落前にこの地を占拠し,征服地ボスニアの州都とした。16世紀初頭から宮殿を意味するペルシア語セライ,サライまたはボスナ(ボスニアの原音)・セライと呼ばれたが,その後形容詞形のサラエボが現在にいたる呼称となった。16世紀ボスニア最初の州知事イサク・ベグは左岸にツァーレバ(皇帝)・モスクなど多くの公共建造物で町づくりを始め,ガジ・フスレフ・ベグは対岸のバーザールのかたわらに国内最大の美しいフスレフ・ベグ・モスクを加えた。
中世ボスニアの発展は,東西いずれの教会からも異端とされたボゴミルの教えを採用し,ボスニア教会を組織することで達成されたといえる。この頃,彼らは為政者となったトルコ人のイスラムへ改宗することで,特権の延命をはかった。ボスニアの住民は,同じスラブ人ながら,長きにわたって中東風の習慣や思考法に馴れ親しみ,民族性まで一変するにいたった。それゆえ,今では自らムスリム人と称して独自な民族集団を主張し,承認されている。
16世紀後半にはドゥブロブニクから商人が,スペインからはユダヤ教徒が移住してきた。16世紀末から19世紀中葉まで州都はバニャ・ルカやトラブニクへ移動したが,町の発展はつづき,17世紀にはトルコ貨幣の鋳造も行われた。17~18世紀にはしばしばペストやコレラ,火災,地震,飢餓に見舞われている。1826年,オスマン帝国の改革によって解散させられたイエニチェリ軍団が大反乱を起こした。キリスト教徒農民(ラーヤ,レアーヤ)から重税をとりたてるトルコ人地主の勢力を排除し,中央集権を強めようとするこうした改革に対し,あくまでも特権の維持を計る保守的なボスニアやヘルツェゴビナのイスラム教徒土着支配層の抵抗は,51年オメル・パシャ・ラタスOmer Paşa Latas(1806-71)が鎮圧した。彼は州都をサラエボに戻すと,政庁所在地にふさわしく町並みを整備する。かなりの自由も享受できるようになり,印刷所,図書館,セルビア語を用いる中学校,トルコ語を用いる高等学校がつくられ,新聞も現れた。
1878-1918年のオーストリア・ハンガリー二重帝国の占領下で町は拡大され,それまでトルコ風の建造物で満たされたサラエボも,中心地や官庁街はしだいにヨーロッパ風の色彩を帯びてゆく。鉄道によって海と中部ヨーロッパに結びつき,外国人が多数移り住むようになり,外国資本も流入してさまざまな企業が設立された。元来トルコ人が撤退した後は当然セルビアに帰属すべきものと考えていたセルビア人は,オーストリア・ハンガリーの占領を不満とし,1908年の合併には激怒した。彼らが1912-13年のバルカン戦争に勝利すると,両者の緊張は極限に達する。そうした中で14年6月28日サラエボ郊外の大演習が行われ,観兵式の帰り,オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻がミリャツカ河畔で暗殺された。第1次世界大戦の発端となったこのサラエボ事件の現場には,ピストルを構えた暗殺者ガブリロ・プリンツィプの足跡が残されている。死の直前に大公夫妻が訪れた市庁舎は,ミリャツカ川に影を落とすイスラム様式とビザンティン様式が混交した美しい建物(1892-96)で,現在はボスニア・ヘルツェゴビナ科学芸術アカデミーと国立図書館となっている。後方のバシュ・チャルシアは町の顔ともいうべき広場で,小さなトルコ風の銀細工屋,土産物店,飲食店が軒をつらねている。それが周囲に林立するモスクの尖塔や背景の山塊とともに,独特の雰囲気をかもし出し,〈ヨーロッパのオリエント〉の名に恥じない。さらに近くの市博物館,マドラサ(イスラムの高等教育機関),市中の東方正教教会,ネオ・ゴシック式カトリック教会,国立劇場,対岸のシナゴーグ,駅近くの国立博物館と見るべきものが多い。大学は第2次世界大戦後につくられた。
古くからじゅうたんなどの手工業はあったが,1918年ユーゴスラビアに属してから産業も活況を呈し,特に第2次世界大戦後は金属工業が発達した。ほかにモーター,繊維,食品,化学,皮革,ビール,タバコなどの工場がある。西端にはベッドタウンの新サラエボ市が生まれ,84年冬季オリンピックの開催地となるなど,近代都市に生まれ変わった。92年から95年までの内戦で町は大きく破壊された。路面電車で行ける保養地のイリジャ,養鱒場のある山裾のブレロ・ボスナなどが市民の行楽地で,冬はトレベビッチ,ヤホリナなど標高2000m級のスキー場がにぎわう。
執筆者:田中 一生
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…この二つの出来事は日露戦争と1905年の〈血の日曜日〉に始まる第一革命の痛手からまだ十分に回復していなかったロシアにとって,パン・ゲルマン主義の挑戦であり,さらに周辺の独立国セルビアにとっても重大な脅威であった。サラエボ事件の伏線はここにあった。 1914年6月28日に突発したボスニアの首都サラエボでのセルビアの一青年によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺事件は国際間に極度に緊張を高め,ドイツの全面的支援を確信したオーストリアが7月28日にセルビアに対して宣戦を布告すると,この局地戦争は直ちに連鎖反応を引き起こした。…
※「サラエボ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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