フランスの政治家。パリ生まれ。七月革命後に官界に入り、1848年末の大統領選挙ではルイ・ナポレオンのために活躍。この功績によってバール、ヨンヌ、ジロンドの各県知事を歴任、1853年にはセーヌ県知事に任命され、17年間この地位にとどまった。この間の彼の最大の仕事は、人口急増に由来する極度の不衛生、絶えざる暴動とバリケードの都パリの大改造であった。リボリ通り、セバストポル、サン・ジェルマン大通りなどの道路網、上下水道の整備、多数の公園などは彼の手に成るものである。近代都市パリは彼の作品であった。しかし、これらの事業の費用調達のために彼がとった方策は巨額の財政赤字をもたらしたために、非難の的になり、1869年に知事を解任された。
[阪上 孝]
『河野健二編『フランス・ブルジョア社会の成立』(1977・岩波書店)』
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1809~91
フランスの行政官。ナポレオン3世によりセーヌ県知事(在任1853~70)に起用され,パリの改造に尽力。民衆蜂起と疫病の温床とみられた貧民街の一掃を図り,市内道路交通網の整備,街路照明の拡充,上下水道の再編などを進めて,首都に近代都市としての美観をもたらした。この大事業はのちに「オスマン化」と呼ばれ,他のヨーロッパ諸国の都市計画にも影響を与えた。
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…貴族として元老院議員や裁判官をつとめる一方,ルネサンス精神にあふれた詩を次々と発表。古典的神話を主題にしたり,反宗教改革的な宗教詩を創作したあと,愛国的な田園詩《ドゥブラブカ》(1628),ホチム(ホーチン)戦役でトルコ軍に大勝したポーランド人をたたえた叙事詩の傑作《オスマン》(未完)を書く。【田中 一生】。…
… 一方,パリでも1808年ころには20km以上の下水きょが整備されていたが,これらはすべて開きょ式で河川に直接放流するものであった。ここでも31年のコレラ大流行が契機となり,G.E.オスマンによる50年代からの大規模なパリ市街地の都市改造の一環として,水道本管とともに延長400kmに及ぶ下水道が建設された。パリの下水道は,汚水と雨水,それに道路上のごみも洗浄により排除する方式で,これは今日でも特徴となっている。…
…17~18世紀になると中央集権的な機構を備えた近代国家が成立し,都市を堡塁とする考えは薄れ,城壁は取りこわされ,モニュメンタルな広場を結ぶ広幅員の直線道路と威風堂々たる街並みの形成,いわゆるバロック風の都市計画が主流となった。1666年大火後に行われたC.レンによるロンドン改造計画,ランファンPierre Charles L’Enfant(1754‐1825)のワシントン建設計画,また19世紀になって行われたG.E.オスマンのパリ改造計画などは,いずれもバロック風都市計画の例である。
【都市計画思潮】
いつの時代にあっても,現実の矛盾や苦難からのがれ,よりよい未来の都市をつくりたいという願望がある。…
…こうしてこの界隈は,新しい産業と技術の開花を象徴することとなった。
[オスマンのパリ改造]
この産業化の上げ潮のなかでパリの改造に着手したのが,ナポレオン3世とセーヌ県知事G.E.オスマンである。まずシテ島内部の貧民街を一掃し,パリの中心を東西および南北に貫通する大通りを建設するとともに,中心部を迂回する大通り,鉄道駅から中心部に向かう交通路,それに西のエトアール広場,東のナシヨン広場を中心として放射状に道路を配置するなど,いくつもの街区を貫通する大通りの建設に力を注いだ。…
※「オスマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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