日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドゥブロブニク」の意味・わかりやすい解説
ドゥブロブニク
どぅぶろぶにく
Dubrovnik
クロアチア共和国南部の都市。ダルマチア地方最南部に位置する。同国最大の観光都市で、港がある。人口4万3770(2001)。背後には300~1000メートルの石灰岩の山地が迫り、町は海に突き出た岬の表面を覆うように位置している。南東の湿風シロッコや北風ボラの影響をほとんど受けない。城塞(じょうさい)都市で、中世の町の姿をほぼ完全に残しており、「アドリア海の真珠」と称され、1979年には世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された(1994年に再登録)。16世紀のスポンザ宮、総督宮、市庁舎、市壁、バロック様式の大聖堂、ロマネスク様式のフランチェスコ派教会などがあるが、1667年の大地震ののち一部改修した建物も多い。食品加工、化学工業もあるが、産業の主力は観光である。毎年夏に水準の高い芸術祭が開催される。
[漆原和子]
歴史
7世紀にビザンティン帝国の都市として建設され、ラグーザRagusaとよばれたが、10世紀ごろにはすでに南スラブ人(主としてクロアチア人)の都市になる。13世紀初めまでビザンティン帝国の支配下に置かれ、1358年まではベネチア、その後はハンガリーの領土に組み込まれたが、海運業が栄え、商業活動で富を蓄えた。オスマン帝国の進出に際し、租税を払うことによって独立を獲得した。ドゥブロブニク共和国として、バルカン内陸部と地中海地域との交易で栄え、「リベルタス(自由)」の標語を掲げた。1667年大地震に襲われ、壊滅的な打撃を受けるが復興。1806年にナポレオンが占領し、「イリリア諸州」として統治した。ナポレオン敗退後オーストリア領となり、第一次世界大戦後ユーゴスラビア王国領となった。1991年、クロアチアは旧ユーゴスラビアから独立した。クロアチア内戦(1991~1995)当初、町の一部が爆撃をうけたが、内戦終結後に修復と復旧がなされた。
[柴 宜弘]