ドゥブロブニク(英語表記)Dubrovnik

デジタル大辞泉 「ドゥブロブニク」の意味・読み・例文・類語

ドゥブロブニク(Dubrovnik)

クロアチア最南部のアドリア海に面した都市。13世紀に自治都市となり、15~16世紀に最盛期を迎えた。堅固な城壁に囲まれた旧市街には、後期ゴシックルネサンスの両様式を取り入れた歴史的建造物が多く残されており、「アドリア海の真珠」と称えられる。内戦で多くの文化財が破壊されたが、市民の手によって忠実に復元された。総督邸や大聖堂のある旧市街は、1979年に世界遺産文化遺産)に登録された。ドブロブニク

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改訂新版 世界大百科事典 「ドゥブロブニク」の意味・わかりやすい解説

ドゥブロブニク
Dubrovnik

クロアチア南部,ダルマツィア海岸にある都市で,同国最大の観光地。イタリア名ラグーザRagusa。人口3万0436(2001)。

 町の起源は,7世紀初頭にスラブ人によって破壊された近郊のローマ都市からの逃亡者が,現在市を二分するストラドゥン大通りの南部(当時は小島)へ定着し,ラグシウムRagusiumと名づけたことにさかのぼる。対岸の大陸部に住みついたスラブ人はオーク(ドゥブ)林にちなんで自領を〈ドゥブロブニク〉と称したらしい。町はやがて〈ラグーザ〉と改名され,1272年ドゥブロブニクを併合,両者を分ける小運河を埋め立ててストラドゥン大通りとした。10世紀には司教座をもち,初めはビザンティン帝国,次いでベネチア(1204-1359),ハンガリー(1359-1526),やがてオスマン・トルコの庇護下にあって,中世ドゥブロブニクは大いに繁栄した。これは当時,成年の貴族が大会議を選び,これが元老院(45~61人)を選び,小会議(12人)を選び,その一人が1ヵ月交替で首長を務める共和国の形をとって,彼らの優れた商才を十分に発揮したからである。初期は漁業や小舟を駆って近隣と交易を行っていたが,12世紀からイタリアの諸都市と契約してバルカン・イタリア通商の代理業をつとめた。イタリアからは工業製品を,バルカンからは原料を運んだ。13世紀からは大型船が登場し,15世紀には300隻を超える大型商船をもっていたといわれる。活動範囲もアドリア海から地中海,さらに黒海や大西洋沿岸にまで及んだ。陸上交易は,それまで全体の4分の1とさして大きくなかったが,15世紀後半バルカン全体がオスマン・トルコの支配下に入り,その地域でドゥブロブニクが特許を得てからにわかに活気を呈し,サラエボスコピエソフィアなどに居留地を置くほどだった。

 一方,新大陸が発見されてアフリカ経由のインド航路が確立すると,レバント貿易の重要度は衰えていった。さらにドゥブロブニクは,16世紀カール5世のチュニス,アルジェリア遠征に加わって損害を被り,17世紀の英蘭戦争に巻き込まれて200隻の船を失った。1667年の大地震で市は壊滅的打撃を受け,残る商船を売却,陸上交易もオスマン・トルコの勢威が下降し始めると縮小していった。しかし文化,なかでも文学は17世紀に最盛期を迎えた。貴族層がイタリア語,ラテン語を常用していたこともあって,同時代のイタリア文学から圧倒的な影響を受けていた。やがて平民ドルジッチMarin Držić(1508-67)はクロアチア語で喜劇《マロエ叔父さん》(1551初演)を書き,独自の文学を生み,貴族グンドゥリッチはスラブ人の対オスマン・トルコ戦争を叙事詩《オスマン》(未完)に再現した。18世紀はそれでも海上貿易が復興の兆しを見せた。しかし,1808年ナポレオンによって元老院が解散させられ,共和国は消滅した。14年にはオーストリア領,1918年からユーゴスラビア領となった。

 ドゥブロブニクは1月の平均気温が8.7℃という温暖な気候に恵まれ,イトスギ,リュウゼツランサボテン,ブーゲンビレアなどに彩られた生ける博物館である。ここではすでに1318年薬局が誕生し,1432年ヨーロツパ初の孤児院がつくられ,1784年ジェンナーより12年も先駆けて全住民に種痘が行われたといわれる。頂上を一周できる城壁と二つの市門,三つの修道院ローランの塔などのほか,ゴシック様式とルネサンス様式のスポンザ宮殿(16世紀。かつての税関で現在は古文書館)や大会議,元老院,知事執務室のあったクネズ宮殿(15世紀)はとくに興味深い。例年夏季フェスティバルが開かれ,諸外国の名演奏家が客演する。
執筆者:

町は城壁とともに15~16世紀の外見をよく保ち,1667年の地震による破壊以降,大聖堂や聖ブラホ教会はバロック様式で建て直された。絵画はおもにベネチアの影響下にあり,1500年前後には,クリベリに学んだボジダロビッチNikola Božidarović(1460ころ-1517),マンテーニャに学んだハムジッチMihajlo Hamzić(生没年不詳)を代表とするクロアチア人の画家が輩出し,祭壇画制作に従事した(この一群の画家を〈ドゥブロブニク派〉と呼ぶ)。その後,建築,絵画ともイタリア人にゆだねられることとなり,地元の画家はおもに,後背地の正教教会のためのイコンを描いた。イコン美術館にはそれらの作品とともに,近代クロアチアの国民画家ブコバツの描く肖像画が数多く所蔵されている。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドゥブロブニク」の意味・わかりやすい解説

ドゥブロブニク
どぅぶろぶにく
Dubrovnik

クロアチア共和国南部の都市。ダルマチア地方最南部に位置する。同国最大の観光都市で、港がある。人口4万3770(2001)。背後には300~1000メートルの石灰岩の山地が迫り、町は海に突き出た岬の表面を覆うように位置している。南東の湿風シロッコや北風ボラの影響をほとんど受けない。城塞(じょうさい)都市で、中世の町の姿をほぼ完全に残しており、「アドリア海の真珠」と称され、1979年には世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された(1994年に再登録)。16世紀のスポンザ宮、総督宮、市庁舎、市壁、バロック様式の大聖堂、ロマネスク様式のフランチェスコ派教会などがあるが、1667年の大地震ののち一部改修した建物も多い。食品加工、化学工業もあるが、産業の主力は観光である。毎年夏に水準の高い芸術祭が開催される。

[漆原和子]

歴史

7世紀にビザンティン帝国の都市として建設され、ラグーザRagusaとよばれたが、10世紀ごろにはすでに南スラブ人(主としてクロアチア人)の都市になる。13世紀初めまでビザンティン帝国の支配下に置かれ、1358年まではベネチア、その後はハンガリーの領土に組み込まれたが、海運業が栄え、商業活動で富を蓄えた。オスマン帝国の進出に際し、租税を払うことによって独立を獲得した。ドゥブロブニク共和国として、バルカン内陸部と地中海地域との交易で栄え、「リベルタス(自由)」の標語を掲げた。1667年大地震に襲われ、壊滅的な打撃を受けるが復興。1806年にナポレオンが占領し、「イリリア諸州」として統治した。ナポレオン敗退後オーストリア領となり、第一次世界大戦後ユーゴスラビア王国領となった。1991年、クロアチアは旧ユーゴスラビアから独立した。クロアチア内戦(1991~1995)当初、町の一部が爆撃をうけたが、内戦終結後に修復と復旧がなされた。

[柴 宜弘]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドゥブロブニク」の意味・わかりやすい解説

ドゥブロブニク
Dubrovnik

クロアチア南部,アドリア海に臨む都市。イタリア語ではラグーザ Ragusa。ダルマチア地方の観光中心地。ローマ時代から交易港として繁栄。9世紀に独立し,1205~1358年にはベネチアに従属したが,その間もその後も常に実質的な独立を保ち,地中海屈指の商港として栄えた。 16世紀にはアメリカ大陸,インドとも交易。 15~17世紀にはイタリア・ルネサンスの影響のもと独自の文芸が興隆し,「南スラブのアテネ」と呼ばれた。短期間のフランスの支配 (1808~15) ののち,オーストリア支配を経て,1918~91年旧ユーゴスラビア領。歴史的建造物の多いルネサンス後期の美しい町並みが城壁 (14~16世紀) に囲まれて残る旧市街は,1979年世界遺産の文化遺産に登録。沖合いのロクルム島はオレンジの森と美しい庭園で知られる。ワイン,オリーブ油などを産する。人口7万 676 (1991推計) 。

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百科事典マイペディア 「ドゥブロブニク」の意味・わかりやすい解説

ドゥブロブニク

クロアチア共和国南部,アドリア海岸の港市。イタリア名ラグーザRagusa。ブドウ酒,オリーブ油などの食品工業が行われる。7世紀初めギリシア人の植民が行われ,中世には都市共和国として商業で繁栄。ベネチア,トルコ影響下の歴史的建造物も多く,風光明媚な地として著名だが,1991年以降セルビア・クロアチア内戦で相当破壊された。旧市街は1979年と1994年,世界文化遺産に登録。1991年〈危機にさらされている世界遺産〉に登録。3万2000人(2001)。

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世界大百科事典(旧版)内のドゥブロブニクの言及

【ユーゴスラビア】より

…ワインは,スロベニアの白ワイン(ラシュキ・リズリングLaški rizling,レンスキ・リズリングLenski rizling),ダルマツィアの赤ワイン(ディンガチdingač)が北方ではおすすめ品。ドゥブロブニクでは中世以来の名品,黄金色のマルアジヤmalvazija(malvasija)を試してみたい。モスタルのジラフカžilavka,モンテネグロのブラナッツvranacと,南方では赤がおいしい。…

※「ドゥブロブニク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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