コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

フィラレート Filaret

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フィラレート
Filaret

[生]1554/1555
[没]1633.10.22. モスクワ
ロシアのモスクワ総主教。俗名 Fëdor Nikitich Romanov。ロマノフ朝初代ツァーリとなったミハイル・ロマノフの父。軍人,外交官として台頭。ボリス・ゴドゥノフと帝位を争って敗れ,修道士となった。 1605年ロストフ大主教,08年にせドミトリー2世によって総主教に任じられたが,正式のものとは認められなかった。 10年同盟を求める使節としてポーランドに派遣されたが,決裂して 11年から捕囚となった。 13年息子が即位し,19年帰国,モスクワ総主教。以後,「大君」としてミハイルに代って実質的に権力を行使し,租税体系の整備,農奴の土地への固定化などを推進した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

フィラレート【Filaret】

1555ころ‐1633
ロシアの政治家,聖職者リューリク朝最後の皇帝フョードル1世の従弟にあたり,ミハイル・ロマノフ帝の父。俗名フョードル・ロマノフFyodor Nikitich Romanov。ボリス・ゴドゥノフ帝に強制されて出家した。動乱時代の1611‐19年,ポーランドに抑留されたが,帰国後正式にモスクワ総主教となり,〈大君〉の称号を得て政務を独裁。税制改革,軍備充実に努め,失地回復のためポーランドと戦争を始めたが,その間に死去した。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

世界大百科事典内のフィラレートの言及

【ミハイル・ロマノフ】より

…一方,重税と農奴制の強化による内政の再建に着手し,シベリアの開発を推進した。しかしミハイルは生来病弱で,意志も弱く,統治能力を欠き,父フィラレート(フョードル1世のいとこ)が抑留地ポーランドから帰国した1619年以降33年まで,政治の実権は父の手に握られた。32年ポーランドに挑んだ戦いは,もろくも失敗に終わったが,これもフィラレートの意志によるものであった。…

【モスクワ・ロシア】より

…しかし教会の権威は高く,君主もその支持を必要としたので,イワン4世なども教会会議(1551‐80)から自粛決議や一部所領と特権の自発的放棄以上のものは引き出せなかった。スムータ後も総主教フィラレートの時代には教会の力が強かったが,〈会議法典〉は聖界の新たな土地取得を禁じ,聖職者の法的特権を制限し,政府による修道院領管理への道が開かれた。イワン3世以来の政府の修道院領に対する関心の背後には,ポメスチエとして士族に与えるべき土地の必要ということもあった。…

※「フィラレート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

フィラレートの関連キーワードパウルス4世弘治リベイロ(Bernardim Ribeiro)近衛前久カステリヨン北条城モルウィクラムスウェーデン文学陶晴賢

今日のキーワード

OAR

2018年の平昌五輪に国家資格ではなく個人資格で参加したロシア国籍の選手のこと。「Olympic Athlete from Russia(ロシアからの五輪選手)」の略。14年ソチ五輪での組織的なドーピ...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android