日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミハイル・ロマノフ」の意味・わかりやすい解説
ミハイル・ロマノフ
みはいるろまのふ
Михаил Фёдорович Романов/Mihail Fyodorovich Romanov
(1596―1645)
ロシアのロマノフ朝初代皇帝(在位1613~1645)。フョードル1世Fyodor I(1557―1598、在位1584~1598)の従兄フョードル・ロマノフFyodor Nikitich Romanov(1555ころ―1633、本名)の子として生まれる。ボリス・ゴドゥノフ帝により父子とも出家させられたが、動乱時代(1604~1613)末期にゼムスキー・ソボール(全国会議)により16歳で皇帝に選出された。初め親族、とくに1619年以降、総主教でフィラレートFilaretとよばれた父が実権を握ったが、父の死(1633)後は親政した。国内秩序の回復に努め、スウェーデン(1617)、ポーランド(1618)と和したが、その後失地回復のためのポーランドとの戦争(1632~1634)は失敗した。財政再建のため重税を課し、逃亡農民の逮捕期間を延長して農奴制を強化した。彼は病弱、凡庸であり、水腫(すいしゅ)のため1645年7月13日死去した。
[伊藤幸男 2022年5月20日]