フランスの政治家。1932年急進社会党の議員となり,38年第2次レオン・ブルム内閣の政務次官となった。40年ビシー政府に逮捕されたが脱走してロンドンに逃れた。44年パリ解放後,臨時政府の国民経済相となり,また国際連合経済社会理事会などでも活動するが,戦後のインフレーション対策を巡ってド・ゴール首相と対立し,45年閣僚を辞任。第四共和政成立後は,とくにインドシナ戦争を批判して独自の潮流を形成,54年6月議会の圧倒的多数の信任を得て首相となり,ジュネーブ協定(7月21日調印)によりインドシナ戦争を終結させた。55年首相を辞任,56年モレ内閣の国務相となる。その後,急進社会党の刷新や社会党との〈共和主義戦線〉結成など,新しい政治勢力結集に努めるも成功せず,58年ド・ゴール登場に反対し,議席を失うとともに59年には急進社会党から除名される。しかし第五共和政批判の立場を貫いて活動,60年統一社会党の結成に尽力し,67-68年再び議員をつとめる。第四共和政期の代表的政治家の一人である。
執筆者:加藤 晴康
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…急進党は40年6月の敗戦によって分裂,一部はビシー政府に協力し,一部はレジスタンスに参加した。全国抵抗評議会の初代議長ムーランJean Moulin(1899‐1943)は急進党員であり,マンデス・フランスらはド・ゴールに協力した。しかし共産党,社会党,人民共和派3党が支配した解放直後は,第三共和政への批判的空気が強く,第四共和政憲法案に反対した急進党は最初の総選挙で惨敗した。…
※「マンデスフランス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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