フランス(英語表記)France

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デジタル大辞泉 「フランス」の意味・読み・例文・類語

フランス(Anatole France)

[1844~1924]フランスの小説家・批評家。軽妙・辛辣な社会風刺が特色。晩年は社会主義に接近。1921年ノーベル文学賞受賞。小説「タイス」「赤い百合」、評論「文学生活」など。アナトール=フランス。

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精選版 日本国語大辞典 「フランス」の意味・読み・例文・類語

フランス

  1. アナトールフランス

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改訂新版 世界大百科事典 「フランス」の意味・わかりやすい解説

フランス
France

基本情報
正式名称=フランス共和国République française 
面積=55万1500km2 
人口(2010)=6296万人 
首都=パリParis(日本との時差=-8時間) 
主要言語=フランス語 
通貨=フランfranc(1999年1月よりユーロEuro)

ヨーロッパ大陸の西部にある共和国。ヨーロッパに位置する本国のほかに,世界各地に海外県,海外領土をもっている。

フランスは,面積は世界各国のうち45位,人口(ともに本国のみ)は16位(1989年央国連推計による)であるが,近・現代史においてしばしば四大国あるいは五大国の一つに数えられてきた。その理由を歴史的に,政治・経済・社会の条件から説明することはもちろん重要であるが,歴史が展開された舞台を明らかにしておくことも必要不可欠である。

 フランスほど位置に恵まれた国は少ない。地球の陸半球の中央に位置し,しかも現在では世界で最も工業化が進み,生活水準の高い西ヨーロッパのほぼ中央に位置している。また赤道と北極の中間,北緯42~51°の間に広がっており,暑からず,寒からずの典型的な温帯にある。さりとて大陸の真ん中にあるわけではない。ヨーロッパ大陸にあって,大西洋と地中海とに挟まれた最も狭小な部分を占め,地中海地方と北西ヨーロッパとの性格を併せもった唯一の国である。ロシアを除いて,ヨーロッパ最大の面積をもちながら,コルシカ島を除いて全土が半径約500kmの円内にほぼ収まる六角形をなしている。

フランスは低平な地形の国である。北西側半分には標高500mを超える山はなく,アルプスやピレネーの大山脈は南東と南の隅に追いやられ,フランス人の過半数は,日常,高い山を見ることがない。国土の60%が標高250m以下にある。フランス人にとって山地とは,国の外れ,国の垣根,清浄で一般大衆とは無縁のもの,悪者の巣,未完成の土地などとされ,普通でない土地,なじみのない土地なのである。

 地形構造上の基本線は,東部のボージュとジュラの山地の間からソーヌ・ローヌ河谷の右辺に沿って南下し,地中海の海岸平野の北縁を経てピレネーの北側を大西洋に出るもので,一般に北西側はゆるやかな斜面が,南東側は急峻な断層崖が連なり,ピレネー北麓を別として非対称の稜線をなし,同時に重要な分水界となっている。Jの字形を描くこの基本構造線の北西側では,傾斜に従ってモーゼル川,セーヌ川がイギリス海峡に向かい,ロアール川,ガロンヌ川などが大西洋に向かって流れる一方,南東側ではソーヌ・ローヌ川が地中海に流れこんでいる。北西側に長くて流域面積の広い,傾斜のゆるやかな大河川が多い。

 基本構造線の北西側は,東ヨーロッパから北西ヨーロッパに波を打つように続いている平野,台地,高原が主要な部分を占めており,約3億~4億年前のヘルシニア造山運動で形成され,長い年月の間に浸食されて高原状に低くなった古生代の山地を骨格としている。フランスでは,このヘルシニア期山地がV字状に並び,北西部にアルモリカン山地,中南部にマシフ・サントラル(中央山地),北東部にアルデンヌ山地,ボージュ山地がある。これらの山地の間の峠にあたる部分は,敷居(スイユseuil)と呼ばれるほどに低く,北西部と中南部にはポアトゥーの敷居,中南部と北東部とにはブルゴーニュの敷居がある。後者は,マシフ・サントラルとピレネーの間にあるロラゲの敷居とともに,基本構造線上の地中海・大西洋分水界の一部でもある。マシフ・サントラルには,その後に噴火した火山地形もみられるが,泥岩や片岩が浸食されて硬い石灰岩が残っており,地質構造が大きく地形に影響している。V字の底にあたる地方には,コースcausseと呼ばれる石灰岩台地が広がり,鍾乳洞や深い峡谷がみられる。

 V字状に並んだ山地に囲まれた部分がパリ盆地,V字の左辺下がアキテーヌ盆地で,これらの盆地には周辺山地から運ばれた土砂が中生代から第三紀にかけて堆積し,中央部にやや低く周辺部に向かって高まる皿のような地層(石灰岩と泥岩がほぼ交互に重なっている)を形成した。ここでも石灰岩はしばしば浸食されずに残り,パリ盆地では東から南東にかけて,内側はほとんど気づかないほどの緩傾斜,外側は急峻な崖となったケスタ地形がみられる。この急崖は関門(ポルトporte)と呼ばれる部分を除いて越えがたいため,フランスの対独防衛線(たとえばマジノ線)として利用された。しかしいったん通過すれば平坦な土地が広がり,視野を遮るものはミレーの絵のように教会の尖塔だけというようになる。もちろん,一部には一つ上の地層が削り残されて(残丘),パリのモンマルトルの丘のようにかっこうの見晴し台になる。またパリ南方のボース平野のように石灰岩を基盤とする台地は透水性が高く,小河川が少ない。実際,小川のせせらぎに出会うことはまれであるが,大河川は川幅も広く,セーヌ川,モーゼル川は流量も安定して内陸河川交通が発達している。しかし,マシフ・サントラルに発するロアール川などは,水源地帯が冬季降雪・夏季乾燥の降水型を示すため,春先の雪どけによる増水と夏季の渇水との流量差が大きく,河川交通は河口付近に限られる。

 V字の右辺は基本構造線に沿っており,険しく若々しい谷がローヌ河谷やラングドックの平野に落ち込んでいる。この南東側フランスは,いわゆるアルプス造山帯によって造られたアルプス,ピレネー,ジュラの大山脈とこれらをうがつ河谷によって代表される。これらの山脈は第三紀,約8000万年前に,アフリカのプレートとヨーロッパのプレートがぶつかって形成されたもので,北西フランスの地形を特徴づけるのが地層であるのに対して,南東フランスのそれは断層や褶曲(しゆうきよく)である。またボージュ山地やマシフ・サントラルにもその痕跡はあるが,第四紀に訪れた氷河期の影響をまともに受けたのはこの南東フランスで,氷河によって造られたU字型の谷はリヨン近くまで押し出してモレーン(氷堆石)を残している。ヨーロッパ第一の高峰モン・ブランをはじめ高山の多くには氷河で削られた急峻な岩肌がみえ,今なお氷河も残っている。これらの山の水を集めて流れ下るローヌ川は,日本の河川と同じく急流で,運ぶ土砂の量も多いので,河口にはカマルグcamargueと呼ぶ三角州地帯を形成し,エーグ・モルトの町のように,かつての港を内陸に取り込んでしまう一方,米作や放牧に用いられる土地を拡大している。

フランスの気候は,三つの停滞性気団と,暖かい北大西洋海流上に発生して順次西からやってくる温暖・湿潤な移動性低気圧との力関係によって決められている。停滞性気団のうち,南のアゾレス高気圧は高温・乾燥で,冬はサハラ砂漠まで後退するが,夏はフランス南部まで覆う。北のアイスランド低気圧は低温・湿潤で,直接フランスを支配するわけではないが,夏季にこれが強ければ冷夏で雨が多くなり,冬季に弱ければ厳寒で晴天が多くなるなどの影響を与える。もう一つの停滞性気団は,夏は低圧帯となり,冬は高気圧となって東から張り出してくるシベリア気団である。冬季にこれが弱まれば暖冬で雨が多くなる。

 地域的にみれば,アルプス,ピレネーなどの高山地域を別として,これら三つの気団に対応した三つの気候がみられる。第1はアゾレス高気圧の影響を受ける地中海式気候である。夏の乾燥とまばゆい太陽,澄んだ空気が特徴で,アゾレス高気圧が発達したときには,この気候区はロアール川近くまで北上する。フランス南部のブドウはこの夏の太陽のおかげである。雨はこの高気圧が弱まり,シベリア高気圧との間の谷間に低気圧が進んでくる秋からで,降るときは強く,溝をうがち奔流となって表土を押し流す。そのため森林は育たず,マキmaquisと呼ばれる植物群落やガリグgarigueと呼ばれる灌木のやぶなど夏の乾燥に耐える低木の疎林となり,耕地は灌漑されるものが多い。冬は一般に温暖であるが,西からやってくる低気圧が地中海上で発達すると,内陸の高気圧からローヌ河谷に向かって寒い北風が吹き込む。これが,ゴッホの絵にみられるように防風林をも風下に傾ける強い地方風のミストラルmistralである。

 第2は冬季,内陸の高気圧に支配される大陸性気候(冷帯湿潤気候)で,冬は寒く乾燥して晴天が多い。夏は内陸が低圧部となって内陸深くまで低気圧を引き込むので降水がみられる。この冬の高気圧がフランス全域を支配する厳冬もあるが,しばしば東に後退してしまう暖冬もあり,フランス東部はいわば大陸性気候への漸移帯である。山地の東側のソーヌ,ライン,モーゼルなどの河谷では,西からくる低気圧の山かげにあたるため,夏も雨が少なく気温も高いのでブドウ畑が広がっているが,気温の年較差が大きく,大陸性気候の性格がより強い。紅葉が美しく,春の芽生えも美しい広葉樹が多く,四季の変化が明瞭である。

 第3はアイスランド低気圧の影響を受けつつ,移動性温帯低気圧が相次いで大西洋からやってくる海洋性気候(西岸海洋性気候)である。ブルターニュ半島の気候がその典型で,低気圧が降水とともに夏は涼しさ,冬は暖かさをもたらすので,気温の年較差が小さい。雨は糠雨となって降水日数は多いが,降水量は少ない。半島先端のブレストで年に220日も雨が降るのに,年降水量はわずか1130mmである。雨と曇りと晴れが数時間の単位で変わるほど天気の変化は激しく,とくに低気圧が内陸の高気圧とぶつかる冬には,暖かい湿った空気が急に冷やされて不安定になり,霧や暴風雨に見舞われる。イギリス海峡などで海難事故が起こるのはこのような時である。フランスの卓越風はおおまかにいって西風であるが,西風が暖かく湿った風で,冬の東風が寒いからっ風になる点は日本と逆である。この海洋性気候では,冬に太陽がほとんど見られなくなるものの,野原は緑のままである。

フランスは,さまざまな見方によって諸地域に分けられる。現在最も広く用いられている地方名は,フランス革命以後に設定された95の県(デパルトマンdépartement)名ではなく,むしろそれ以前の旧州(プロバンスprovince)またはそれを援用した22の〈地域〉(レジヨンrégionと呼び,数県をまとめたもの)の名前である。たとえば,ブルターニュは,旧州にあたる5県を指す場合と〈地域〉を構成する4県のみを意味する場合とがある。旧州名を採用していない〈地域〉名は,あまり親しまれておらず,たとえば〈サントル地域〉はトゥーレーヌ,オルレアネなどの旧州に分けて,あるいはロアール地方とまとめて呼ばれている。

 これは,フランスを構成するさまざまな民族や地方文化を,歴史的な地域としての州の名前によって代表できるからで,主要な旧33州のうち16州の名前が17地域の名として用いられている。アルザス,アキテーヌ,オーベルニュ,ブルゴーニュ,ブルターニュ,シャンパーニュ,コルス(コルシカ),フランシュ・コンテ,ラングドック,リムーザン,ロレーヌ,ノルマンディー,ピカルディー,ポアトゥー,プロバンス,ルーシヨンの16州がそれであり,ノルマンディー州は2地域(オート・ノルマンディー,バス・ノルマンディー)に分けられている。トゥーレーヌ州の主都トゥールが,何県の県都であるかを覚えることはフランス人でも面倒なことであり,各県に割り当てられた番号(郵便,自動車などさまざまな分野に用いられている)で,トゥールは37番の県の県都と覚える場合が多い。ちなみにパリ県は75番である。

 フランスを全体としてみるには,33の旧州単位では細かいので,フランスの北半分を西フランス,北フランス,東フランス,パリ盆地に分けて,まとめて(広義の)北フランスと呼び,南半分をアルプス地方,マシフ・サントラル地方,アキテーヌ盆地,地中海地方に分けて,まとめて南フランスと呼ぶこともある。その区分線はほぼジロンド川の河口からジュラ山脈にかけて引かれる。この線はまた,フランス語の〈なまり〉の区分線でもあり,南側のオック語langue d'oc,北側のオイル語langue d'oïlに大別される。フランス語のほかに,周辺地域にはブルトン語,アルザス語,カタルニャ語,フラマン語,バスク語などの言語があって,地域性を形成する要素の一つとなっている。

地方文化の差異を意識するのは,まず目に見える景観として展開する土地利用,耕地の形状,民家や集落の形態,人々の服装などによってである。

 フランスのように,農用地率が55.6%で日本の4倍近くもあり(1991),山岳地帯が周辺部にしかない国では,風景の基本的構成要素は,平地や丘陵に展開する農地である。その農地の37%が牧草地または牧場であり,しかもそのほかに牧草畑などの飼料畑が耕地として分類されているから,日本の風景における水田以上にフランスの風景においては緑の草原が支配的である。実際に牧草畑であるのか草地であるのかを区別しようとすれば,家畜が放たれているか否かによることになるが,輪作されている小麦やテンサイ畑でも,収穫後であれば家畜を入れることもあるので,草地と耕地の見分け方はやはり難しい。

 もちろん,地域ごとに作目の違いがみられ,農業の地域性は比較的明瞭に現れており,フランス全体を一括することは難しい。たとえば南フランスでは,平地ではブドウや野菜などに専門化しつつある地中海式農業が行われて樹園地が広いのに対して,アルプスやマシフ・サントラルの山地では草地が広い。北フランスでは,シャンパーニュやブルゴーニュのブドウ畑,ノルマンディーや東フランスの酪農に専門化した草地,ブルターニュのリンゴが同時栽培されている牧草地,パリ盆地から北にかけての牧草と小麦,トウモロコシなどの穀物やテンサイが輪作されている耕地など,それぞれの地域において地域性の豊かな景観がみられる。また大西洋岸では野菜や花の園芸農業が盛んである。しかし国全体でみれば,樹園地率自体は日本と大きな差がなく,これら地域的に多様な土地利用も,フランスの風景において草地が卓越するという印象をぬぐうことはできない。

 土地利用以上に人の目をひくものの一つは,耕地の形状である。ブルターニュ,バス・ノルマンディー,バンデなど西フランスでは,ボカージュbocageと呼ぶ畦畔林に囲まれた耕地が視界を遮り,森林率は低いものの,風景としては森林に満ちた地方の印象を与える。その成立の理由は,防風のため,土壌の乾燥を防ぐため,家畜を囲い込むため,独立の精神が旺盛であるため,薪炭を得るためなど,さまざま挙げられて議論されている。これは,農業の機械化と規模拡大を進めるための耕地整理の障害になるとして一時伐採されたが,干ばつに見舞われたため,その後はあまり進展していない。逆に,森に閉ざされず,地平の際まで視界の開けた開放耕地(オープン・フィールド)は,とくにパリ盆地から北の地方では大規模な企業的農業が行われているので,ひとつひとつの耕地も広く,機械化も進んでいる。しかし南フランスでは経営規模が小さいこともあって,開放耕地のみられる場合でもひとつひとつの耕地は狭い。

 集落の形状もこの耕地と対応している。ボカージュ地域では散村が支配的であり,孤立した農家はボカージュに囲まれて隠れてしまい,わずか数戸の小村(アモーhameau)が教会を中心に目につくだけである。他方,開放耕地の地域では集村が多い。北フランスでは,広い耕地のただなかに教会の尖塔を中心とした塊村が一般的である。また南フランスでは,丘陵など防衛上の要地に形成された大集落が一つの典型を示している。これは,ときには城壁に囲まれて都市とみまがうばかりの規模であるが,住民に農民が含まれている場合も少なくなく,地中海地方では農村までが都市的であるといわれる。また集落を構成する民家も,南や西フランスでは石造が多いのに対して,東から北フランスでは木造,あるいは柱やはりに木を用いたものが多い。フランス人は,これを〈石の文化のラテン〉,〈木の文化のゲルマン〉と対応させてとらえている。また同じ石造でも,南フランスの赤瓦で傾斜の少ない屋根に対して,西フランスの草ぶきや青黒いスレートぶきの傾斜の強い屋根は,ケルト文化を示しているとされている。散村地方では,小学校が小規模で,どんなに小さな小村でもみられる教会で初等教育を受ける者が多く,中等教育は寄宿学校で受ける割合が高い。それだけに教会が運営する私立学校の力が公立学校より強い。それが西フランスから神父が多く輩出することの基礎にあるといえるし,また熱心なキリスト教信者も西フランスに多い。

 フランスの地域性を意識させられるものでは,風景のほかにさまざまな社会生活上の差異がある。その点では,セーヌ川とローヌ川の各河口を結ぶ線でフランスを二分し,南西フランスと北東フランスに分ける考え方もよく用いられている。所得や教育の水準,住宅その他の社会資本の充実度,工業化や農業の近代化の程度など,さまざまな社会経済的指標が,この区分線の南西側が貧しく,北東側が豊かであることを示している。

フランスの人口は約5800万である。しかし〈フランス人〉は何人いるか,誰もわからない。たとえばフランスに征服された,あるいは併合された人々,独自の言語・文化をもつ民族が,フランス国土の六角形のそれぞれのほぼ頂点付近を占めている。北隅にはフラマン人,北西隅にはブルトン人,南西隅にはバスク人,南隅にはカタルニャ人,南東隅にはプロバンス人,北東隅にはアルザス人がおり,コルシカ島にはコルシカ人がいる。フランスがヨーロッパの中央に位置していることは,そこが諸民族が出会い通過する交差点にあたることを意味し,これら少数民族はすべて国境の向こう側に同族の人々をもっているのである。これら少数民族の言語のうち,国営放送が地方で独自の番組を製作し放送しているのはブルトン語だけである。ブルターニュ地方の大学にはブルトン語の講座も置かれている。

 フランス全体で359万6000(1990)の外国籍滞在者(観光客など3ヵ月未満の者を除く)がおり,なかでもマグレブ3国出身者139万3000,イベリア諸国出身者86万6000が多い。外国籍の就業者162万の67.7%が労働者またはサービス業就業者である。つまりフランスの労働者・サービス業就業者の12.3%が外国籍である。フランス国籍を取った外国生れの人々はこれに含まれていない。

 フランス人になることは簡単である。帰化し,フランス語を話し,フランス人のように生活すればよいのである。なまりなどは,ミディのなまりや北フランスなまりなど,本来のフランス人の中にもあるのだから問題にならない。人種からいっても,フランス人には白人,黒人,黄色人のさまざまな人々が流れ込み混血しているのであって,人種差別,民族差別はあるが日本より寛容である。他の人種でも,フランス人になった人々は,職業その他の点で社会階層上の差別または不平等を人種上の差別より強く意識するはずである。したがって六角形の隅にいる各少数民族も,大枠では自分をフランス人と考えている。フランス人とは,結局のところ,フランス語を話す民族のうちフランス国籍をもつ者というべきであろう。その中には,2言語併用者としてフランス語も使う周辺部少数民族の大部分が含まれており,さらには外国人の2世も加わってしまうわけである。言い換えれば二重民族籍の人々が多いのである。
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いまここでその歴史を扱おうとする〈フランス〉なる存在は,最初から一つにまとまった国であったのでもなければ,単一の文化を構成していたのでもない。フランスという名称がフランク族に由来し,領域名としては9世紀のカロリング朝の分割から生まれた西フランクFrancia occidentalisに発するとはいえ,カペー朝の国王がフランク人の王Roi des Francsからフランスの王Roi de Franceと称するようになったのは,13世紀初めのことにすぎなかった。〈フランス〉なるものは,その国家も社会も文化も,長い歴史を通じて,多種多様な要素の衝突,交錯,融合のなかから,徐々に形づくられてきたのであった。フランスの歴史とは,この長い文明形成の歩みをいうのであって,国家もまた文明を構成する一要素にすぎない。

このガリア(現在のフランス)の地に人類の活動の跡を求めるとすれば,われわれは何十万年かの昔にさかのぼらねばならない。ここ100年ほどの間に急速に発展した考古学の研究によれば,このユーラシア大陸西端の地には,旧石器時代前期以来の人骨,石器が数多く発見され,氷河期と間氷期の間隙を縫うようにして,原初人類の活発な活動がみられたことが明らかとなっている。シェル・アシュール文化をはじめとしてマドレーヌ文化に至るまで,旧石器時代の諸段階を表す名称に,フランスの地名が数多く用いられているのも,その証左である。1868年に,南フランス,ドルドーニュ地方のクロマニョンで発見された人骨群(クロマニョン人)は,旧石器時代後期に属するが,新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)の原型を示すものとして,重要な指標とされている。また近くのラスコーの洞窟からは,1940年,約1万7000年前のものと推定される壮大な壁画が発見され,スペインのアルタミラと並ぶヨーロッパ原始芸術の代表作とされている。フランスの歴史は,このはるけき昔に始まるのである。

 氷河期が終わって以来,ヨーロッパの中心部に位置するガリアの地は,諸民族大移動の十字路の趣があった。大規模な移動が一応終息する10世紀末に至るまで,さまざまな人間集団が来たりまた去って,そこに多様な混交をつくり出した。〈フランス人〉なるものを産み落とす人的要素は,著しく多様であるということを,まず心得ておかねばならない。それは,偏狭な人種理論を免れるための,最良の教訓である。

 第1に,前3000年ころから始まる新石器時代には,南西部中心にイベリア人,南東部中心にリグリア人の名で知られる集団が定着していた。メンヒルやドルメンに代表される巨石記念物は彼らの所産であり,その分布状態からも,彼らがガリア諸地域に広範に定着していたことがわかる。

 フランス人がしばしば自分たちの最も古い祖先と考えているケルト人は,実は,前9世紀ころより,ドナウ川流域から移動してきた新しい集団であった。彼らは優れた鉄器文化をもち,前5世紀ころには,ラ・テーヌ文化の名で知られる最盛期を現出した。カエサルの《ガリア戦記》によれば,ケルト人は多くの部族に分かれ,広い土地を所有する貴族と祭儀をつかさどる神職ドルイドが,平民を統轄していた。霊魂の不滅を信じ,樹木や泉を崇拝するケルトの信仰は,キリスト教が導入されたのちも,民間信仰の形で生き続けている。民衆の間に伝わる説話や習俗のなかには,ケルト起源のものが数多くあることが民俗学者によって指摘されている。フランス人の間にみられる,深刻な問題を洒落のめしたり,権威を茶化したり,興奮しやすく覚めやすいといった気風を,ガリア気質esprit gauloisと呼んでケルトの遺産とみなす者もいる。ケルト人は,前1世紀半ばローマの軍勢に屈するまで,900年にわたってガリアの地を支配した。これはローマの支配,ゲルマンの支配よりも長いのであり,フランス文化の基層を考えるとき,ケルト文化の遺産は重視されねばならないだろう。

 ローマは,前2世紀末より南ガリアに進出し,地中海沿岸地域を属州としていたが,ケルトの部族間抗争をきっかけに,前58-前51年カエサルに率いられたローマの軍勢は,ガリア全土を征服してしまう。カエサルに対峙したケルトの指導者ウェルキンゲトリクスは,前52年アレシアの戦に敗れ,ローマに運ばれて処刑されたが,ケルト礼賛者にとっては,これこそまさに屈辱の歴史であった。ガリアにおけるローマの支配は,以後500年に及び,フランスの将来に絶大な影響を及ぼすこととなった。その後ゲルマンによる,これまた500年以上に及ぶ支配が後に続いたにもかかわらず,フランス文化がスペイン文化やイタリア文化とともにラテン文化と称されるのも,ローマの影響が深部にまで及んでいたことを示している。とりわけそれは,俗ラテン語を経て古フランス語へと展開する言語の継承関係に最もよく表れているといえよう。

 ローマ人の支配がガリアにとって第1の衝撃であったとすれば,第2の衝撃はいうまでもなく4世紀から6世紀にかけてのゲルマン人の大移動である。さまざまなゲルマンの部族がガリアの地に来たりまた去ったが,最終的に定着したのはライン川下流から移り来たったフランク族であった。彼らの首長クロービスは,476年の西ローマ帝国滅亡の後,481年フランク王国を建設し,メロビング朝を創始した。8世紀になると,メロビング王家は弱体化し,宮宰ピピン(3世)により王位を奪われ,ここにカロリング朝が成立した。そして,ピピンの子シャルルマーニュ(カール大帝)の下で,フランク王国は最盛期を迎えることになる。フランク族による支配の浸透度は地域により異なるが,ガリアの北部・東部において密であったことは疑いない。ゲルマン起源の地名の分布にも,それは明瞭にあらわれている。

 フランスは,北フランスと南フランスとの間に顕著な対照がみられるが,これには風土的な要因と並んで,ローマ支配とゲルマン支配がそれぞれの地域に及ぼした影響の違いが色濃く投影されている。たとえば法制史において,北の慣習法(ゲルマン法)に対し,南における成文法(ローマ法)の存続。家制度において,北の単婚家族・均分相続に対する,南の拡大家族・長子相続制。農業制度において,北の馬を主軸とする三圃制に対する南の牛を主軸とする二圃制。封建制についても,北における典型的な発展と南の後進性,といった対照がそれである。

 このように,先史以来の歴史を顧みるとき,フランス文明形成の背景には,少なくともケルト,ローマ,ゲルマンという,三つの要素の重要性を認めなくてはならない。そのいずれを重くみるかは,主観的願望が強く投影されることもあって,論者によって意見の分かれるところであるが,ここではむしろ,フランス文明の複合性を確認しておくことの方が,重要な意味をもっている。

このような多様な要素のなかから,フランス文明の名で呼びうるような共通の絆が形成されてくるのは,中世,とりわけ11世紀以降の中世盛期においてである。確かに,カール大帝没後の,ベルダン条約(843)とメルセン条約(870)によるフランク王国の3分割は,西フランクなる枠組みを生み,のちのフランス王国形成の端緒をなすといってよいが,むしろより重要なのは,フランク王国の末期から始まり,10~11世紀において大きく展開するガリア社会の変化であった。第1に注目されるのは,農業生産の顕著な発展であり,農業技術の革新(水車の普及,繫駕(けいが)法の改良,三圃制の普及など)と村落共同体の一般的形成を通じて,安定的・持続的な農業社会がその基礎を固めた事実である。この農業生産の発展は,やがて手工業生産と商品交換の拠点としての都市の形成を促し,地域経済の発展をもたらすことになる。第2には,とくにライン川とロアール川に挟まれたガリア北部を中心に,領主による局地的な領域支配を基礎とする封建的政治秩序が古典的な形で開花した事実が指摘されよう。そして第3には,キリスト教が,まさにこの時期において,その影響力を強め,11世紀以降,カトリック教会の末端組織である聖堂区が,おりしも形を整える村落共同体と重なり合うように,フランス全土にその網の目を広げていった事実がある。

 こうした,社会のさまざまなレベルにおける組織化の進展のうえに立って,987年ユーグ・カペーに始まるカペー朝の諸王が,〈フランス〉なるものを生み出す絆の役割を果たすこととなった。とりわけ,12世紀末のフィリップ2世(尊厳王),13世紀中葉のルイ9世(聖王)の時代において,フランス国王の勢威は内外において格段に高まったといってよい。国王は,地上における神の代理人として,また人民の父として,さらには正義をもたらす裁き人として,政治統合のシンボルの役を果たした。カペー王権の基盤は,元来パリ地域を中心とする北フランスにあり,南フランスは,政治的にも文化的にも,独自の地位を占めていたが,13世紀初頭,南フランスに広まったアルビジョア派(カタリ派)に対する弾圧(アルビジョア十字軍)をきっかけに,フィリップ尊厳王は南への支配をも一挙に強化することになった。このように,統一の形成に当たり,政治の力が大きく作用していることが,フランスの特徴として注目されねばならない。

 それと並んで,キリスト教文化の開花が,一面それは国境を越える性格をもつとはいえ,ケルト,ローマ,ゲルマンといった複合的要素の上に成り立つフランスを一つの文化的共同体として結び合わせるのに,大きく貢献したといえよう。11~12世紀,フランス全土にわたってのロマネスク芸術の開花,次いで,12世紀後半より北フランスを中心に展開するゴシックの大聖堂は,中世フランス人に共通の心性を形づくった最大のファクターであった。そして,それがまた,即位に当たっては,ランス大司教の聖祓を受け,十字軍に身をもって参戦し,瘰癧(るいれき)患者を癒す力(ローヤル・タッチ)をも備えたフランスの国王の権威を支えることにもなったのである。

 14~15世紀のフランスは,中世末の危機の時代であった。1328年カペー朝の断絶を機に,王位継承をめぐるバロア朝とイギリス王家との対立から,両者は1339年以来,1世紀以上にわたる百年戦争に突入した。繰り返し戦場となったフランスは,戦乱による直接の被害に加え,軍隊による略奪にあえいだ。しかも,14世紀初め以来の農業生産の停滞は,たび重なる飢饉を引き起こし,体力の弱った民衆に,中近東から侵入したペストが大量死をもたらした。こうした状況のなかで,1358年,E.マルセルに率いられたパリ市民の反乱と,周辺農村のジャックリーの乱が勃発した。イギリスとフランスの対立と重なり合う形で,国内においては,イギリスと手を結ぶブルギニョン派と,王太子を頂くアルマニャック派が相争ったこの百年戦争の間,王権は確かに弱体化したが,対立する有力諸侯の力も弱まり,国民意識の芽生えがみられるなど,やがて絶対王政の成立へと連なる水面下の動きは強まっていたといってよい。ジャンヌ・ダルクの登場は,決して祖国愛の表れといったものではないが,広域的な連帯を促すシンボルとしての意味をもったといえるだろう。

16世紀から革命までの約3世紀を,今日の歴史学は,アンシャン・レジームと呼ぶ。これは,いうまでもなく,革命以後の新体制に対して旧体制を意味する語であるが,必ずしも否定的な意味合いでのみ用いられるのではない。旧体制が革命によって打倒されたことは確かであるが,同時に,この300年は,フランスが国民国家として編制されるための条件をつくり出し,文化的にもフランスの独自性が明確に打ち出された時代であった。その開幕を告げる16世紀は,ルネサンスと宗教改革の時代として特徴づけられるが,中世末の危機から脱出した経済の活況に支えられて,あらゆる分野で,新しい時代への胎動がみられる。この頃,アルプスのかなたのイタリアでは,すでに学芸のルネサンスは広範な展開をみせていたが,イタリア戦争(1494-1559)を期にその影響は強まり,フランソア1世は,イタリアよりレオナルド・ダ・ビンチをはじめ多くの芸術家を招いた。ロアール川流域のシュノンソーやアンボアーズなどにルネサンス風の明るい城館が相次いで建造され,城はもはや戦いのためのものではなくなる。中世以来の伝統に固執するソルボンヌ神学部に対しては,1530年コレージュ・ド・フランスの前身〈王立教授団〉が創設され,ギリシア語,ヘブライ語の原典への道を開いた。〈今やいっさいの学問は復旧せしめられ,もろもろの言語研究も再興せしめられ候〉とラブレーはガルガンチュアの筆を借りて書いている。他方,信仰の領域では,ルターに続いてカルバンが,カトリック教会との決別を宣し,ジュネーブを拠点に,新たな信仰への回心を説いた。こうして,16世紀の後半フランスは,教皇派とユグノーとが激突するユグノー戦争(1562-98)へと突入することになる。まさに生みの苦しみの半世紀であった。すべては疑われなくてはならない。戦乱の渦中に生きたモンテーニュは〈われ何をか知る〉と問い,《随想録》3巻を書きしるしたが,この〈人間とは何か〉との永遠の問いこそは,ユマニスムの伝統となって,フランスの思想の根幹を支えることになる。モンテーニュの懐疑は,次の世紀デカルトに受け継がれ,理性をもってすべての思索のかなめとする合理主義の精神を生み,他方では,パスカルにより〈考える葦〉人間への深い省察へと導かれ,フランス近代精神の基礎が築かれたのであった。

 ユグノー戦争の激動は,ブルボン朝初代のアンリ4世の下に一応の決着をみ,続くルイ13世ルイ14世の時代には,リシュリューマザランコルベールという有能な政治家に助けられ,王権は急速に強化されていった。国内の政治的・法的統一を希求する法服ブルジョアジーや新貴族,地主層に支えられ,国際商業戦において国家の支援を不可欠とする商人ブルジョアジーの期待に応えつつ,絶対王権はその基礎を固めていく。三十年戦争(1618-48)への直接参戦をきっかけに,国内引締めと徴税強化のため王国の諸地方には,国王の意を体したアンタンダン(地方長官)が常置されるようになり,コルベールの下では重商主義政策が全面的に展開された。単に政治や経済の領域にとどまらず,社会のあらゆる面で,規律の強化が図られた。言語についてはすでに,1539年のビレル・コトレの王令によって,裁判記録にフランス語を用いることが義務づけられていたが,これは一つには,中世以来の普遍主義の象徴であるラテン語の使用を排除することを通じて,国民国家としての自立性を主張し,他方では,南フランスのオック語をはじめ,各地に生き続ける地域語の使用を禁じてフランス語を国家の言語として強制する,王権の意思を表明したものである。1635年に設立されたアカデミー・フランセーズは,言語の規格化をいっそう推進することになった。宗教の面でも,ナントの王令(1598)によって新教徒にも信仰の自由が許容されたものの,陰に陽にユグノーへの圧迫は続き,ついには1685年ナントの王令は廃止され,単一宗教の原理へと逆戻りした。以後,フランスは圧倒的にカトリックの国としてとどまることになる。王権による信仰の統一は,しかし,リシュリュー枢機卿が三十年戦争に際し新教派のスウェーデンと手を結んだことにもみられるように,国家利害に従属させられたものであった。フランス王権が,しばしばローマ教皇庁と対立し,ガリカニスムの傾向を強めたのも同じ理由による。こうして,もろもろの身分集団は,厳格な規律の下に階層化され,その頂点に国王が君臨することとなる。最後の貴族反乱であるフロンドの乱(1648-53)は,このような規制強化への反撃の試みであったが,時代の趨勢には抗しえなかった。

 自らの栄光の象徴としてベルサイユ宮を造営したルイ14世は,この王宮に儀礼の網の目によってみごとに統御された宮廷社会を組織することにより,ヨーロッパの諸君主に,絶対王政の統治システムの理念型を提示したのであった。時を同じくして開花した古典主義の芸術がまた,全ヨーロッパに確固とした美の規範を提示した。ボルテールがこの17世紀を〈ルイ14世の世紀〉と名づけたのも,ゆえなしとしない。フランスは,政治においても芸術においても,ここに初めて独自の様式を生み出すことに成功し,しかもそれを国境を越えて準拠さるべき普遍的価値として高く掲げたのであった。フランス人の思考にしばしばみられる一種の中華思想や,フランスの文化を普遍的文明の体現とみなす傾向は,自らをローマの継承者とする意識によるところが大きいが,このような理念は,初めてここにその現実的な根拠をもつに至ったといってよい。

 しかし,ブルボン絶対王権の栄光を支えていた身分制秩序や社会的規律は,18世紀に入ると,厳しい批判にさらされることとなった。経済の面でも,産業の担い手である新しいブルジョアジーがしだいに力を蓄え,王権によるさまざまな規制に批判を強めた。とりわけイギリスが急速に経済力を伸ばし,世界経済の主導権を握ろうという情勢を前にして,依然旧来の領主制や身分的免税特権を維持しようとする王権との軋轢は強まるばかりであった。思想の面でも絶対王権への批判が噴出してきた。そもそも,いかなる権威を前にしても,必ず異議を申し立てる者のいるのが,フランスの大きな特徴である。モンテスキューとボルテールを先駆者として,ディドロを中心とするアンシクロペディスト(百科全書派),ケネーを始祖とする重農学派(重農主義)が強力な思想運動を展開した。そして,ついにはルソーが,絶対王権を支える社会構造を全面的に否認する理論をひっ下げて登場することになる。

18世紀末葉,アンシャン・レジーム社会の矛盾は激化し,いち早く産業革命を成就したイギリスからの側圧もいっそう強まった。王政府は,上からの改革を推進して事態を乗り切ろうと試みるが,特権身分の反対にあって身動きがとれない。ルイ16世は1789年5月に,1614年以来実に175年ぶりに全国三部会を召集したが,かえって火に油を注ぐ結果となり,ついに同年7月14日,バスティーユ襲撃事件となって爆発した。フランス史に大転換をもたらしたフランス革命の発端であった。以後,99年ナポレオン(1世)によるブリュメール18日の軍事クーデタに至るまでの10年余の間に,フランスは,その社会構造においても,権力秩序においても,根底的な変革を経験することになる。

 革命の過程は,いくつかの段階に分けることができよう。1789年に始まる第1段階においては,自由主義貴族と上層ブルジョアジーの主導の下に,立憲君主政の形をとりながら,旧体制の法的構造を廃絶することが中心課題となっていた。《人権および市民権の宣言》(人権宣言)第1条における〈人間は,生れながらにして,自由であり,権利において平等である〉との宣言は,まさに新しい社会の到来を告知するものにほかならない。92年8月10日の革命側によるテュイルリー宮襲撃に始まる第2の段階は,内外から高まる反革命の危機に対し,都市の民衆(サン・キュロット)や農民の圧力の下に,急進的ブルジョアジーにより,徹底した社会革命が遂行された時期である。とりわけ93年6月以降の山岳派による革命独裁を通じて,徹底した社会的デモクラシーの実現が追求された。領主諸権利の無償廃棄は,中世以来連綿として続いた領主制に,決定的な打撃を与えた。そして,94年テルミドール9日ロベスピエールの失脚に始まる第3の段階は,反革命の粉砕により勝利を手にしたブルジョアジーが,民衆の圧力を排除しつつ,ブルジョア支配の安定を目ざした収拾段階である。しかもなお,最終的に革命の成果を守るためには,ナポレオンの軍事独裁に頼らざるをえなかった。こうしてナポレオンによる99年ブリュメール18日のクーデタは,1804年の第一帝政成立へと連なる。

 以上の過程を通じて,フランス革命を特徴づけているのは何であろうか。第1には,社会構造および権力秩序の根底的な転換が遂行されたことであり,その後王政復古という事態を招いても,アンシャン・レジームの社会が復活することは二度となかった。第2には,変革に当たって民衆が,ブルジョアジーの利害を超えて強力に介入したことであり,このことが革命後のフランスに,資本主義化の遅れをもたらすと同時に,社会的デモクラシーの理念を強烈に刻みつけた。第3には,革命の理念を,単にフランスに固有の問題としてではなく,普遍的な原理として掲げ,世界の変革にまで至ろうとしたことであり,これこそトックビルが,フランス革命を宗教的な革命になぞらえた理由であった。第4には,革命がその最も急進化した段階で革命独裁の形をとり,さらに収拾の段階でナポレオンの軍事独裁の形をとったことから,極度の中央集権化・制度的画一化の傾向を引き起こしたことが挙げられよう。ここで,革命の特質を詳述したのは,それが単に革命の性格づけにとどまらず,革命以後のフランス社会を大きく特徴づけることになるからである。

1814年,ナポレオンの失脚によって第一帝政が崩壊して以来1世紀の間に,フランスは,王政復古(1814-30),七月王政(1830-48),第二共和政(1848-52),第二帝政(1852-70),第三共和政(1870-1940)と,めまぐるしくその政治体制を変えた。しかもその転換点には常に,七月革命(1830),二月革命(1848),六月蜂起(1848),ナポレオン(3世)のクーデタ(1851),普仏戦争(1870-71)の敗戦とパリ・コミューン(1871)という,劇的な事件が介在している。

 19世紀のフランスは,その進路の選択において,試行錯誤を繰り返したといってよい。政治のイデオロギーとしては,王党派,共和派,ボナパルティストが拮抗し,王党派はその内部でさらに正統王朝派とオルレアン王党派(七月王政派)とに分かれている。これらはいずれも,革命の過程ですでに切られたカードであり,フランスは100年をかけてそれぞれの有効性を確かめなおしたともいえる。以上のような党派の見取図と重なり合って,左翼と右翼という区分がまた,政治的立場を大きく分ける枠組みとして定着していくが,これまた革命議会における議席の配置に発するものであり,フランスの政治生活に革命のもたらした遺産の大きさを思わせる。時代の大きな流れは,王政主義から共和主義へと向かってはいたが,それが決定的となるのは,19世紀末,ドレフュス事件の経験を経て,第三共和政が一応の安定をみてからのことである。むしろ,この間を通じて,フランスの独自性は,ボナパルティスムの潮流にあり,経済の後発性に基づく国家主導主義(ディリジスム)の伝統と,社会的デモクラシーが逆説的に生み出す超越的リーダーへの依存が,フランスの政治風土にこの独自の様相を付与したのであった。

 政治体制のたび重なる転換の背後で,フランスの社会は,ゆっくりとではあるが着実に変容を遂げていった。その第1は,何といっても資本主義経済の展開とその影響である。フランスにおける産業革命は,18世紀以来の経済の発展を受け継ぎつつ,イギリスの側圧の下に展開するが,足どりがきわめて緩慢なところにその特徴があった。繊維工業に始まり金属工業へと及ぶ資本主義的生産方式への転換は,19世紀初頭より半世紀以上もかけ1870年ころに完了する。しかし緩慢であったとはいえ,とりわけ第二帝政下の発展には顕著なものがあった。貴族や地主に代わって,ブルジョアジーがわが物顔にふるまう社会が誕生した。銀行家や貿易商や工場主,そしてフランスにはとりわけ多かった金利生活者が,単に経済のみでなく,社会生活においても,価値体系においても,主導権を掌握していった。産業活動では,イギリスの工業家に大きく水をあけられながら,生活の色調をすっかりブルジョア風に染め上げた点においては,フランスのブルジョアジーは卓越していた。イギリスがジェントリーの国となったとすれば,フランスはまさにブルジョアジーの国となったのである。

 生産の組織の変化と並んで,鉄道の建設と道路網の整備は,中心的な都市だけではなく,地方にまで変化の波をもたらした。1850年に3000kmであった鉄道延長は,70年には1万7000km,19世紀末には4万5000kmに達した。革命を経て領主制は廃棄されたとはいえ,資本主義化された農村は限られており,地方農村における生活はアンシャン・レジーム以来の伝統的スタイルを守っていたといってよい。しかし,鉄道と道路は,商品経済と都市文明の射程距離を一挙に拡大し,農村もまた,局外者としてとどまることは難しくなった。国家の行政機構においても,教育制度においても,中央からのコントロールは日ましに強まっていった。ブルトン語をはじめとし,なお各地に保たれていた地域語も,標準語化政策の強行の前に退潮を余儀なくされた。

 社会の変化の第2の特徴は,ブルジョアジーの制覇と対をなす労働者階級の登場である。産業革命の展開が緩慢であったために,フランスでは,長いこと,アンシャン・レジーム以来の職人の伝統が,労働の世界の基調をなしていた。先端的な産業部門には,近代的工場労働者層も形成されたが,彼らすらも,この基調から大きく踏み出すことはしなかった。ブルジョアジーからは〈危険な階級〉と警戒され,蔑視されながら,彼らは頑固にその独自の世界,固有の共同性を確かめ合っていった。七月革命や二月革命から,六月蜂起を経て,パリ・コミューンに至るまで,彼らは常に街頭のバリケードの主役であり,社会主義思想をも,自己流に改変してわがものとした。フランスの労働運動を特徴づける革命的サンディカリスムも,このような伝統の所産である。

 変化の第3として注目されるのは,新しい知識層の登場であった。家柄と身分によるエリートに代わって,革命は,能力による,そして知性によるエリートの活躍の場を一挙に拡大した。エコール・ポリテクニクやエコール・ノルマル・シュペリウールなどグランドゼコールは,これら新しいエリートの苗床となった。コレージュ・ド・フランスはミシュレキネを教授に迎え,活気を取り戻した。作家,芸術家は,ブルジョアの俗物性を鋭く批判し,個我の自立を求め精神の優位を掲げた。こうしてパリは,近代の芸術運動と新しい知的活動の中心となった。17世紀に続いて,フランスは再び世界の文化の先導者の役割を担うことになる。

ヨーロッパは,早くより,外部世界との関係の上に,その発展を築き上げてきた。とりわけ,15世紀末の大航海時代に始まる絶対王政期には,ヨーロッパ,新大陸,東インド(東南アジア)を結ぶ三角貿易が,ヨーロッパ経済を支える基本的な枠組みをなしていたといってよい。フランスも,16世紀における探検時代を経て,リシュリューからコルベールに至る重商主義政策の下で三角貿易を推進した。またアフリカ大陸の黒人奴隷をアンティル諸島に導入し,アンティル諸島から砂糖,タバコ,コーヒー,綿花をフランス本国にもたらす三角貿易を組織し,多大の利益をあげたのであった。18世紀に入り,イギリスとの七年戦争(1756-63)に敗れ,北アメリカとインドからは撤収するが,依然アンティル諸島をめぐる三角貿易は活発であり,ボルドーやナントの繁栄はその表れであった。

 絶対主義期の植民地貿易は,革命とともに終焉をみるが,19世紀には,資本主義列強の一員としての新たな植民地支配が始まる。自由・平等・友愛の旗を掲げたフランスも,その点ではためらうところがなかった。むしろ,その普遍的文明の担い手としての意識は,未開の地に文明の光をもたらすものとして,植民地化を美化することともなった。1830年のアルジェ占領に端を発する北アフリカへの進出は,アルジェリアの完全植民地化と,モロッコ,チュニジアの保護領化に帰結する。1870年代より始まる資本主義列強によるアフリカ分割では,サハラを南下して,ガボン,コンゴ,チャド,スーダンなど,西アフリカを中心に植民地支配を拡大し,マダガスカルもまた96年フランスの領有に帰した。さらにアジアでは,中国への進出の狙いをこめて1858年に始まったインドシナへの介入は,87年のフランス領インドシナ連邦の成立をもって確固たるものとなった。この1858年は,日本との間に日仏修好通商条約が結ばれた年でもあり,ほどなく駐日公使ロッシュを通じての幕末政局への介入が始まることになる。こうして,19世紀後半を通じて形成された植民地帝国は,第2次大戦後まで維持され,戦後その独立をめぐり,第1次インドシナ戦争(1946-54),アルジェリア戦争(1954-62)と,長期にわたる植民地戦争の泥沼に足をとられることとなった。

 フランスの帝国主義的進出は,植民地支配のみではなく,対外投資や企業進出の形をとっても進められた。とりわけ,1914年以前の帝政ロシアに対する投資は群を抜いている。外国公債への投資による利子取得が高い比重を占めていたことから,レーニンはフランスの帝国主義を〈高利貸的帝国主義〉と性格づけたが,近年の研究は,フランスもまた,単に利子食いのみではなく,外国の産業や鉄道への投資も積極的に推進していたことを明らかにしている。こうして,フランスは,19世紀以来の資本主義的世界体制のなかで,イギリス,ドイツと並ぶ対外進出の中心的担い手となったのであった。

20世紀に入って,フランスは2度の世界大戦の戦場となり,戦勝国とはなったものの,甚大な損害を被った。第1次大戦では,ドイツ軍との白兵戦のなかで,150万人の戦死者を出し,第2次大戦でも60万人を失った。戦争と革命の世紀を,フランスは生身をもって体験したのであった。第1次大戦の結果は,永遠に世界の主導権を掌中にしているかのごとく信じてきたヨーロッパに代わって,一方では,新しい文明の体現者としてのアメリカの優位が歴然となり,他方では,ロシア革命が,歴史の未来を告知するものとして登場した。しかも,ヨーロッパの危機が叫ばれるなかで,フランスは,危機の鬼子ともいうべきナチスの脅威に苦しまねばならなかった。第2次大戦を経た今日,アメリカもソ連も,新しい世界の告知者としてのイメージは大きく変わった。しかし,ヨーロッパ文明の中心的担い手と自認し,最も根源的な意味において〈近代性modernité〉を象徴する存在であるフランスが,現代をいかに生き,未来をいかに切り開くかは,依然として重い問いであり続けている。

 フランスの社会自体,両次大戦に挟まれた1920年代,30年代を通じて,しだいにその変容の速度を速めた。そして,第2次大戦後,経済の高度成長をみた1950年代を画期として,その変化は加速化する。近代の価値観の上に確固とした信念を築いてきたフランス社会にも,高度産業社会に固有の,大衆社会,管理社会,技術社会の傾向が顕在化している。この変動期をいかに生きるかは,単に経済運営の組織化や技術の高度化や教育の効率化の問題ではないし,〈日本に学べ〉といったスローガンで解決できるものでも,もちろんない。それはまさに,文明の総体の問題なのであり,それであるからこそ,現代世界の未来を切り開くべき役割が,いっそうのこと強くフランスに期待されているといってよいだろう。長い歴史を通じて,常に文明のありようを問うてきたのが,まさにフランス人であったからである。
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フランス人と日本人の最初の出会いは1585年スペインのマドリードで伊東マンショら4人の天正遣欧使節がフランス王アンリ3世の大使に会ったときにさかのぼる。このとき,大使は日本使節をフランスに招きたいというアンリ3世の希望を伝えたが実現しなかった。遣欧使節がローマで新しく教皇となったシクストゥス5世から〈黄金拍車勲章〉を授かったとき,勲章を届け手渡したのもフランス大使であった。

 日本人のフランス上陸は,1615年10月支倉常長の一行がスペインのバルセロナからローマに向かう地中海上で嵐に遭い,南フランスのサン・トロペに緊急避難して2泊したのが最初である。一方,1619年には19歳のF.カロンが平戸に上陸し,41年まで在留して日本語に熟達した。《日本大王国志》をオランダ語で著し,日本の姿を西欧に知らせたカロンは,オランダに亡命したフランス人新教徒の子でオランダ国籍をもち,39年には平戸のオランダ商館長に任命され,41年22年間の滞在を終えてオランダのハーグに戻ったが,64年フランス王ルイ14世の大臣コルベールがフランス東インド会社を設立したとき,乞われてフランス国籍を取得した。65年日本大使にルイ14世から任命され,オランダ東インド会社の抵抗に遭いながらセイロン島まで達した。しかし日本行きは阻止され,72年帰途に就き,73年リスボン港外で海難に遭って没した。この間の1637年にはフランス人神父ギヨーム・クールテが,スペイン人神父ミカエル,日本人神父ビンセンシオとともにマニラから琉球に潜入したが捕らえられ,9月27日に殉教した。この頃には日本の工芸品がヨーロッパの宮廷で珍重され,マリー・アントアネットやポンパドゥール夫人らの周辺には漆器,象嵌の屛風,陶器や蒔絵の手箱がオランダ経由でもたらされ,茶の消費も増大し,日本への関心が高まった。

 フランス革命の2年前の1787年ルイ16世の命を受けたラ・ペルーズは日本近海を測量して宗谷海峡を発見し,ラ・ペルーズ海峡と命名した。彼は北海道に上陸し,3日を過ごしている。しかし日本の鎖国政策はフランスの直接接触を許さず,オランダ商館が仲介した。フランスの学問もオランダ訳で伝わった。オランダ通詞で医者の楢林鎮山(栄休)はA.パレの《外科学》をオランダ訳で入手,穿顔術,下肢切断術,血管結紮などを知り自著で広めた。1787年(天明7)にはショメル神父Noël Chomel(1633-1712)の《百科辞典Dictionnaire universel》のオランダ語版が,オランダ商館長ティチングから楢林重兵衛に贈られた。1811年(文化8)から高橋作左衛門景保,馬場佐十郎,大槻玄沢らがこれを訳しはじめ,39年(天保10)までに主要部分を《厚生新編》69巻として刊行した。高橋作左衛門景保の父至時(よしとき)はJ.ラランドの天文学書を1787年にオランダ訳から訳している。

1807年ロシアのフボストフとダビドフはサハリン(樺太)と択捉(えとろふ)島を襲い,番人を拉致して箱館奉行あてに書簡を置いていった。これがフランス語であったため,幕府はオランダ商館長H.ドゥーフに翻訳を依頼するとともに,オランダ通詞本木庄左衛門(1767-1822),馬場佐十郎に命じてドゥーフからフランス語を学ばせた。これが公式のフランス語学習の初めである。この頃,オランダ商館からのニュースによる《風説書》や斎藤拙堂(正謙)の著作でナポレオンの活躍は日本人の注目を浴びた。佐久間象山も憧れ,頼山陽は1818年(文政1)に在世中のナポレオンをたたえる詩《仏王郎詩》を書いている。

 松代藩の蘭学者,村上英俊はスウェーデンの学者ベーセリウスの《化学提要》を注文したところ,フランス語の原本が届いたことからフランス語を独学で覚え,1854年(嘉永7)《三語便覧》3巻,64年(元治1)《仏語明要》4巻を刊行し,仏学の祖といわれた。1844年那覇に入港したフランスの軍艦アルクメーヌ号で渡来したパリ宣教師会師フォルカードは,1年滞在し日本語を学習した。クリミア戦争(1853-56)はロシアの勢力がアジアで強くなることをイギリス,フランスに懸念させ,フランスはパリ宣教師会師メルメ・ド・カション,プティジャン,ジラールを那覇に送って日本語を習得させた。55年フランスは琉球と和親条約を結び,ナポレオン3世は日本にグロ男爵を送って58年日仏修好通商条約の締結にこぎつけ,59年にデュシェーヌ・ド・ベルクールを初代総領事として江戸に派遣した。62年幕府は竹内下野守保徳を訪欧使節として送りナポレオン3世に謁見させた。この一行には福沢諭吉,福地源一郎(桜痴),上田友助(敏の父),箕作秋坪,松木弘安(寺島宗則)なども加わっていた。パリで独学で日本語を学んでいたレオン・ド・ロニーLéon de Rosnyは一行中の洋学者と交遊し,翌年から東洋語学校で日本語を教え始め,使節団員の書き残した文書を利用して教科書《日本文集》を作った。

 ベルクールの後任L.ロッシュはイスラム世界で長く外交官の経験があり,アラビア語に堪能でイスラムに改宗し,現地語の重要性をよく認識していたので,1864年日本に着任すると,日本語に習熟したメルメ・ド・カション神父を外交官に採用し,薩長を支持するイギリスに対抗して幕府を支持した。さらにメルメ・ド・カションが箱館で交際した栗本瀬兵衛(鋤雲)や小栗上野介忠順(ただまさ)ら,幕府の親仏派と結び,技師ベルニーFrançois Léonce Verny(1837-1908)を来日させて横浜製鉄所,横須賀造船所を建設させ,後にドレフュス事件の際の陸軍大臣となるシャノアーヌJules Chanoine(1835-1915)大尉を筆頭とする軍事顧問団を送り,富岡製糸場のためにはブリュナPaul Brunat(1840-1908?)を呼んだ。65年にはメルメ・ド・カションに横浜フランス語学校を開かせ,67年のパリ万国博覧会には幕府に日本館を出させるとともに,将軍慶喜の弟,徳川昭武をフランスに留学させた。この時の随員,渋沢栄一はパリで近代商業を見聞し,のちに日本経済の大立者となった。

明治維新でロッシュの親幕政策は破綻したが,日仏協力の路線は敷かれていた。近代化へのフランス人の寄与は大きく,多くの御雇外国人が数えられる。法律でのG.E.ボアソナード,G.H.ブスケ,軍事のシャノアーヌ,デュシャルム,マルクリー,A.C.デュ・ブスケ,ガス事業のペルグラン,軍楽隊のダクロン,鉱山開発のコアニェら,数限りない。

 日本からも西園寺公望,大山巌,伏見宮,閑院宮,中江兆民などフランスに留学する者が多く出,山本芳翠,黒田清輝,久米桂一郎らが画家のパリ留学の先鞭をつけた。1875年には古市公威(きみたけ)が留学,80年博士号(工学および理学)を取って帰国した。明治10年代からは洋風宮廷建設のため家具職,大工,庭師など,多くの職人が技術習得のためフランスに渡り,ブドウ栽培,ブドウ酒醸造,革細工,製本術,航空術,潜水艦などを学びに行く者も現れた。

 普仏戦争(1870-71)で第二帝政が倒れ,フランスが共和国に戻ったことは,日本政府をプロイセンに近づけ,フランスは民権論者に好まれる国になった。渡六之介はパリ・コミューンの経験を《巴里籠城記》に残している。

 1900年前後のいわゆるベル・エポックのフランスは日本美術に関心を示したが,画商の林忠正(1853-1906)は1867年のパリ万国博覧会で浮世絵に開眼した作家のゴンクールと協力しながら,1890年から1901年の11年間に版画15万6487枚,絵本類9708冊,掛物846を日本から送らせ,売りさばいた。

 フランス文学の邦訳は1878年川島忠之助のベルヌ《80日間世界一周》に始まり,翌年フェヌロンの《テレマックの冒険》を宮島春松が訳し,さらにはデュマの《五九節操史》,ユゴー,ゾラ,ドーデ,モーパッサンらの作品が翻訳され,フランス文学愛好の基を築いた。初期の翻訳は英語を介するものも多かった。大正時代にフローベール,ボードレールがイギリスのA.W.シモンズの《文学における象徴主義運動》(1899)によって紹介され,フランス文学は青年の心をとらえた。

 明治以来のフランスの寄与としてはフロジャック師,ド・ロ神父,メール・マチルドら多くの宣教師も忘れることはできない。彼らは病院を建て教育に尽力し,貧民を救済し,信頼を得た。清仏戦争(1884-85)によってフランスはベトナムを植民地とし,また日清戦争後,フランスを含む三国干渉によって遼東半島を放棄させられたこともあって日仏関係はやや疎遠になった。日英同盟(1902)はフランスとロシアを近づけ,またフランス領インドシナ,ニューカレドニアに日本移民が流入したためフランス国内に反日論が起こった。

 日露戦争で日本は列強の一つとなったが,財政難から親仏の西園寺首相はフランスで外債を募集した。1907年日仏協約が結ばれ,12年には日仏銀行,日仏協会が設立された。翌13年にはコットJoseph Cotte(1875-1949)が東京にアテネ・フランセを開いて,フランス語,フランス文学,ギリシア・ラテン語の教授を始め,多くの日本人をフランス文化に開眼させた。旧制高校のドイツ語教育を軸とするドイツ文化の影響の前に,幕末以来のフランス嗜好が衰えるのを憂えたフランスは,第1次大戦後まずジョッフル元帥を訪日させ,続いて東洋学者クーランをはじめ多くの使節を送ってきた。彼らの報告に基づき,詩人大使P.クローデルと渋沢栄一は24年財団法人日仏会館を東京に開き,フランス人研究者を常駐させた。クローデルはまた貴族院議員稲畑勝太郎と協力して27年京都日仏学館を開き,フランス語,フランス文化の普及に努めた。美術,文学,服飾,美容,映画などの分野でも大正,昭和とフランスの影響は広がっていった。

 日本は1936年日独防共協定を,40年には日独伊三国同盟を結び,40年9月フランス領インドシナに進駐した。45年3月敗戦を見こした日本軍は,インドシナのフランス人を要職から排除し,8月敗戦と同時にホー・チ・ミンがベトナムの独立宣言をする道を開いた。

フランスの敗戦と日本の軍国主義の下で筆の重かった学者,評論家は戦後一斉にレジスタンス運動,伝統的人文主義,実存主義などを紹介し,フランス文学は注目を集めた。しかし戦時中にもバレリー全集,アナトール・フランス全集やアラン,デカルトの著作などが出版され続け,渡辺一夫がラブレーの翻訳を地道に刊行していたことも注意しなければならない。少数の愛好者に支えられていたフランス派音楽も戦後は愛好者が増え,フランスで学んだ安川加寿子,池内友次郎らが東京芸大教授になった。フランス政府が文化使節としてジョルジェ・デュアメルやピアニストのラザール・レビを送り,多くの聴衆を集めた。1953年に日仏文化協定が結ばれるとともに政府間の交流も親密になり,日本からは吉田茂(1954),岸信介(1959),池田勇人(1962),田中角栄(1973),三木武夫(1975),鈴木善幸(1982),竹下登(1988),宇野宗佑(1989)の各首相がフランスを公式訪問し,フランスからはポンピドゥー首相(1964),ジスカール・デスタン大統領(1979),ミッテラン大統領(1982,86,89)が日本を公式訪問した。フランスでも正規に日本語を教える高校が現れはじめ,84年には日本語が教授資格試験(アグレガシヨン)に認められた。
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〈革命〉の伝統と,イデオロギー的対立,そして複雑な社会階級的構成がフランスの政治構造を永く規定してきた。他の西欧諸国に先がけてすぐれた共和政の伝統を築きながら,革命ないしそれに類する政変をたびたび経験してきたこの国では,政治的対立が一般に原理と原理の対立として観念される傾向が強く,たとえば〈左翼〉,〈右翼〉という言葉が政治的シンボルとして重用されてきた。また国民の心情からいうと,〈革命〉の伝統ゆえか,実際の利害関心とは別に,左翼的・革命的な立場表現を好むという傾きがあり,保守的政治勢力さえも,その命名や公式的ステートメントでは,しばしば急進的な表現に訴える。さらに愛国心の強さという点でも,国民の間に共通の態度がみられ,フランス人は政治的立場にかかわらず多かれ少なかれナショナリストだといわれる。たとえば,戦時下の対独レジスタンスのように国民が政治的立場を超えて結集したことや,かつての米ソの対立の谷間にあって独自の核武装を推進することにほとんど全国民のコンセンサスが見られたこと,などにそれが現れている。

 しかし近年,新しい政治意識もみられる。1980年代から90年代にかけて社会党中心の左翼が政権を担うことで,左翼の政策も現実主義的色合いを濃くし,かつてに比べ一般に左右の政治的立場が接近してきている。したがって,イデオロギー的論争よりも具体的政策(たとえば失業対策,雇用の増大など)をめぐっての論争がより重みを増している。これにいっそう拍車をかけたのが89年に始まるソ連・東欧社会主義の崩壊であり,左翼も,〈社会主義〉を表看板に掲げることなく資本主義的市場経済を前提とした体制認識をもつようになり,政策論争の土俵にもかなり共通性がみられるようになった。一方,ヨーロッパ統合(ECからEUへ)が進むことによって,他の西欧諸国との協調が以前に増して求められるようになっている。特に,かつて〈宿敵〉視されたドイツとの間には,1980年代から少なくとも指導層のレベルで〈パリ-ボン枢軸〉と称されるような緊密な連携がみられるようになった。フランス一国のナショナリズムを超えてヨーロッパ主義とでもよぶべき協調的姿勢に向かおうとする動きもみられる。

 反面,従来弱小勢力にすぎなかった極右がショービニズム(排外主義)の傾向をはらんだ内向きのナショナリズムを掲げ,支持を伸ばしていることも無視できない。極右の国民戦線(フロン・ナシオナル)は1984年の欧州議会選挙で11%の得票を記録して以来,各種選挙で10~15程度の票を集めており,少なくとも得票上では,今や第三の勢力となりつつある。これは,この国における発展途上国出身の移民・難民の増大への反発や,ヨーロッパ統合によって国家主権が削減されることへの危機感をばねとする現象とみられている。しかし,極右に投ぜられる票は,これに政権獲得を期待しての票ではなく,現状(移民の増大,失業,中小商工業の危機)に対する〈抗議〉票とみられている。なお,小選挙区制の下では極右が国会に議席をもつことは今のところ困難である。

 また,左翼支持の表が青年層や知識人層では環境保護派(エコロジスト)に流れるようになったのも1980年代からの傾向である。環境問題の重要性が認識されたこと,その他の市民の意識の多様化を反映している動きといえよう。その得票率は数パーセントであるが,同派は社会党と連携して,政権の一翼を担うこともあった。

 フランスでは,イギリスやドイツに比べ伝統的に諸政党の分立の傾向が強く,左翼-右翼の対立構図をとりながらも,二大政党制をなしているとはいえない。左翼では社会党と共産党,右翼では共和国連合(旧ド・ゴール派),フランス民主連合(中道)等が並立しており,政党間のかけひきやその都度の連携も複雑である。以前はこの政党分立が,頻繁な離合集散,内閣の交代を結果し,政治の不安定をもたらしていたが,第五共和政の下では7年間の長い任期をもつ,より強い権限をもつ大統領の下で,政治構造は比較的安定するようになった。多党政治の不安定さと頻繁な政権交代の下で統治の連続性を保障するうえで,フランスでは行政官僚制が大きな力を果たしてきた。それは西欧の他の国々に比べて,より中央集権的である。第五共和政の下で執行権が強化されることで官僚の力も維持されるが,他方,経済成長が進み,市民意識も多様化し,地域の開発要求が強まるにつれ,地方分権化への要請も高まった。こうした背景のなかで,ド・ゴールの下で〈地域圏〉(レジオン)の創設,ミッテランの下で地方分権化改革がそれぞれ行われ,中央集権的行政の手直しも進められた。

1958年に成立した第五共和政は,フランスの政治的伝統をある面で体現し,またある面でそれを断ち切り,新たな政治的状況を生み出した。アルジェリア独立問題など国家的危機の収束において第四共和政議会勢力が無力を露呈し,これがド・ゴール将軍の登場を促しただけに,第五共和政は,強力な大統領権限をはじめとする執行権の優位を制度の根幹としている。これによって,政党分立による政治の不安定という事態には一応終止符が打たれたものの,議会の権限は縮減され,権力の比重は大きく執行権の側に傾いた。

 この強い執行権を日常的に円滑に機能させるためには,強力な政府と官僚団,組織された官僚機構などの国家装置をもたなければならない。こうして第五共和政の下では,行政,政策形成,経済運営などにあたる専門的・技術的官僚,すなわちテクノクラートの役割が増大している。このテクノクラート主導の傾向は,経済近代化政策などにも反映され,EC(ヨーロッパ共同体)に対応しうる資本主義の高度化を至上命令とし,有力企業へのてこ入れ,生産性の低い旧型企業の利害の切捨て,効率的な地域開発などが目ざされ,良かれ悪しかれ政策面でテクノクラート的合理主義が前面に出ていた。外交面では,独自のナショナリズムに立ち,対米,対ソの自主外交をうたい,西側諸国のなかできわめて独自の位置を占めた。

 しかし,ポンピドゥー大統領(在任1969-74)を経て,非ゴーリストのジスカール・デスタンValéry Giscard d'Estaing(1926- ,在任1974-81)へと政権が移行するなかで,与党の基盤がより中道寄りに拡大され,議会の機能がいくぶんか重視されるようになった。また,ECとその拡大に同意が示されるなど,その限りで対外的な姿勢にも変化がみられた。

 他方,左翼はこの間野党の座にとどまりつづけたが,1970年代からの社会党,共産党,左翼急進運動などの連合の力を背景にして81年にはミッテランFrançois Mitterand(1916-96)が大統領選に勝利を得,社会党主導の左翼政権が誕生した。ミッテラン政権は,国有化の拡大,税制の改革などを実施し,分権化の改革に着手している。82年および83年の法は,国の権限の地方への委譲,市町村への県知事の監督権の縮小,地域圏の地方公共団体への格上げなどを含んでいて,種々限界はあるが,長年の中央集権的構造に手直しを加えている。しかし左翼政権は,当初の財政政策の失敗から緊縮財政に転じ,鉄鋼産業の合理化にも乗り出すなど国有企業の改革にも着手し,労働者階級との軋轢も覚悟の上で社会経済の近代化を図ることとなった。これは左翼のアイデンティティにも重大な影響を与え,同政権からの共産党の離脱を結果することとなった。また,90年代には統合の進むEC,EUの下で,種々の制度の調和化への圧力が強まり,フランス独自の経済・財政制度を維持することも困難となる。すなわち,国有企業の民営化や財政赤字の削減が強く求められ,ミッテラン,次いでシラクJacques Chirac(1932- )政権はその対応に苦慮することとなった。これらさまざまな意味で,第五共和政の当初の政治構造は大きな変容をとげてきた。

第五共和政憲法によれば,大統領の任期は7年で,当初は間接選挙(国会議員,県会議員,市町村会の代表などによる)が定められたが,ド・ゴール初代大統領の強い意向から,1962年の国民投票によって直接普通選挙に改められた。この大統領が首相を任命するが,首相は国民議会がその不信任を可決した場合などには大統領に辞表を提出しなければならない(第50条)から,議院責任内閣制的メカニズムも具備されていないわけではない。〈半大統領制〉などと呼ばれるゆえんである。大統領は首相の提案により,他の大臣を任命し(第8条),閣議を主宰する(第9条)。大統領は重要問題については直接に国民投票に付することができ(第11条),さらに国民議会を首相および両院議長に諮問したのち解散することができる(第12条)。さらに憲法第16条は,大統領に,国の独立などが脅かされる場合,一定の条件の下で非常措置をとる権限も認めている。そのほか,大統領は政令ordonnance,命令décretに署名し,文官,武官などを任命する(第13条)。

 首相は,前述したように議会(下院)に対して責任を負い,その点で大統領とは立場が違う。大統領と並ぶいま一人の政府の指導者とみることもできるが,大統領がいわば政府の〈真の首長〉として内外の重要政策の決定に当たるとすれば,首相はこれを補佐し,かつ執行機関としての政府の活動を指導し,法律の施行を保障するといってよい。実際には,内政一般や経済,社会,財政などの個別政策の決定,執行は,首相以下の政府にゆだねられることが多い。憲法の諸規定は,首相が大統領と一体となって行動することを想定しているが,重要政策において両者の見解が対立するような場合,首相の辞表提出により解任されることもありうる。また,国民議会の多数が大統領とは異なる政治勢力によって占められる場合,大統領は,政治的立場を異にする首相を指名せざるをえず(いわゆるコアビタシヨン),両者の対立は恒常化する。

議会は,下院にあたる国民議会Assemblée Nationaleと上院にあたる元老院Sénatから成る。前者は任期5年で直接選挙,単記2回投票,後者は任期9年で3年ごとに3分の1ずつ改選され,市町村会の代表を中心とする選挙人団による間接選挙をもって構成される。前述したように第四共和政に比べ第五共和政の下では議会の力は低下したが,その実態は,下院の権限が大幅に削減され,上院の権限が若干強化されているという点にある。ただし,下院が上院より優越的地位にあることには変りがない。

 第五共和政憲法では,議会の立法の可能な範囲の事項が限定的に列挙されている(第34条)。基本的な事項は含まれているとはいえ,この点が議会の権限をめぐっての第四共和政との最も大きな変化であろう。列挙されている事項以外のものは,政府の命令の性格をもつとされる(第37条)。また,議員提出の法律案および修正案が国庫収入の減少または支出の創設や増加を生ずる場合は受理されない(第40条)。なお,常任委員会の数が減らされ,各院に6以下(第四共和政下では19)と定められていることも(第43条),審議権に加えられた制限といえよう。

 議会の運営に関していえば,原則としてすべての法律案は同一条文で両院において審議され,採決されねばならない。両院の意見が各2回の審議ののち不一致の場合,また政府が緊急を宣した場合,首相は両院協議会に成案の提出を求めることができ,それでも成案が得られないときには,最終的に下院が議決権をもつ(第45条)。予算案は下院が先議権をもつが,40日以内に採決をしない場合,政府はこれを上院に付託することができ,両院不一致の場合は下院に最終議決権があるが,通算70日以内に採決されないときは,政府は予算案の各項を政令により執行することができる(第47条)。

 憲法上定められているおもな機関としては,ほかに次のようなものがある。

(1)憲法院Conseil Constitutionnel 憲法の遵守を確保するため,組織法および議院規則について,また通常の法律および批准前の国際的協定について合憲性を審査する(ただし,審査請求権は公権力機関および国会議員に限られる)。その裁決は絶対的,終局的であり,いかなる機関へも上訴は許されない。憲法院は大統領と両院議長がそれぞれ3人ずつ任命する9人の委員(任期9年,3分の1ずつ3年ごとに改選)と元大統領(任期は終身)から構成され,そのうち1名が大統領により院長に任命される。

(2)高等司法会議Conseil Supérieur de la Magistrature 裁判官の任命に関し政府に提案を行い,司法権の独立性にかかわる問題につき諮問を受け,また破毀(はき)院院長を議長に,裁判官の懲戒裁判をも行う。大統領(高等司法会議議長),司法大臣(同副議長)および大統領によって任命される9名の任命委員から構成される。

(3)高等法院Haute Cour de Justice 大統領の大反逆罪,閣僚が職務上犯した重罪,軽罪について裁判する。両院からそれぞれ選出された12名ずつの議員をもって構成される。

(4)経済社会評議会Conseil Économique et Social 経済・社会問題に関する計画案や政府提出の法律案について,政府の諮問を受けて意見を答申する。諮問機関ではあるが,また自発的に経済・社会問題につき必要と考えられる改革案を作成し,政府に提案することができる。委員は200名で,うち140名はおもな職能団体などから選出され,60名は政府によって任命される。任期は5年である。

 なお,憲法上の機関ではないが,ほかに重要なものとしては,法案作成に関して政府に助言を与えるとともに,最高行政裁判所としても機能する参事院Conseil d'Étatがある。

フランスでは,必ずしも政党が政治のなかでつねに重要な役割を演じてきたといえない。フランスの政党は他の西欧諸国に比べ党員数が多いとはいえず,共産党を除くと,その組織や規律もしばしば強固さを欠いている。フランス革命時に生まれた〈左翼〉-〈右翼〉という政治勢力の区別の観念は,少なくとも二元的分類という限りで今日まで生きている。しかしそれぞれの陣営は複数の政党を抱え,内的統一からはほど遠い状態にある。ド・ゴール派の流れを汲む共和国連合(RPR)も,フランス民主連合(UDF)も単一政党ではなく,他方,〈左翼〉とよばれる勢力も社会党,共産党,環境保護派などの連合であって,単一政党の力は弱い。すなわち,イギリスや西ドイツのような二大政党の併立,交替のシステムではなく,保守の連合(しばしばこれに中道諸派が加わる)対左翼の連合(2回目の投票ではこれに事実上極左諸勢力も合流)という形で勢力対比が生まれる。それだけに,連合内での主導権争いや国会議員,地方議員の選挙の際の連携の方式はしばしば複雑な様相を呈する。このなかにあって極右の国民戦線は独自の道を歩んでいるが,その支持者は2回目投票では大半が右翼の候補者に投票しているとみられる。

 ただし執行権優位の現共和政下では,大統領のイニシアティブ(とくに解散権の行使)による与党多数派の形成が容易になり,加えて小選挙区2回投票制が得票率以上に大きな差のつく与野党勢力比をつくりだし,さらに2回目投票に向けての政党間協力(場合によっては永続的な連合)を不可避とするに至り,小政党の分立・拮抗による政治的不安定という従来の状況は大幅に変化している。

 また近年,根っからの政党活動家に代わって高級官僚などを出身の母体とするいわゆるテクノクラートが政党のリーダーとして比重を高めている。これは,社会党など左翼内部においても進行している現象である。

第2次大戦後の冷戦構造のなかで西側陣営の一員としてアメリカへの従属を強いられ,植民地戦争の打ち続く敗北で屈辱をなめてきたフランスは,ド・ゴールの下で,〈ナシヨンnationの栄光〉の回復を目ざし,独自のナショナリズムに立って,対米,対ソ,自主外交を展開した。しかし,ド・ゴール後,アメリカとの関係もかなり修正され,イギリスのEC加盟を認めるなど(1973),EC重視の姿勢を打ち出した。前述したように,ドイツとの協調によるヨーロッパ統合の積極的推進は,過去20年来の変わらない方針となっている。ミッテランはこうした外交路線をほぼ受け継ぎ,第三世界との関係強化にいちだんと力を入れ,ラテン・アメリカ,アジア,アフリカに積極的に訪問外交を展開した。ただし,90年代にいたって,アフリカ諸国において生じる紛争,政変,クーデタ等に旧宗主国として介入を求められ,軍事介入をする機会がたびたびあったが,その都度困難にも遭遇し,対アフリカ諸国との関係は再検討を迫られている。一方,シラク大統領の下で95年に核実験の再開が国際世論の反対を押し切って行われ,アジア,オセアニア諸国から激しい反発を受けた。自前の〈核〉戦力を維持するというフランスの政策も,冷戦終了後の緊張緩和のなかでやはり再検討を迫られているといえよう。

1950年代に大部分の海外植民地を失い,以後軍事面では本国の防衛を主とするに至ったフランスであるが,上述のようにド・ゴール時代にアメリカの〈核の傘〉の下に入ることを嫌い,NATOとも一線を画し,自主防衛の道を進んできた。いわゆる核抑止力による自国領土の防衛を政策の基本としているが,前述のように,その核実験再開には強い国際世論の反発があった。今日,戦略核兵器としては原子力潜水艦,ミラージュIV A型爆撃機,中距離弾道ミサイル(IRBM)などを保有している。なお,フランスはかなり規模の大きな兵器産業をもち,世界有数の武器輸出国となっており,この面で間接的に中東や第三世界の情勢に影響を及ぼす可能性があることも否定できない。徴兵制が敷かれ,18歳以上の男子は兵役に服することが義務となっていたが,シラク大統領は1996年この兵役の廃止を打ち出した。なおフランスは,1996年,1966年以来脱退していたNATOの軍事機構に部分的に参加することとなった。

第五共和政憲法では,司法権の独立は,高等司法会議の補佐をうけた大統領によって保障されている(第64条)。

 フランスの近代的法典のほとんどが編さんされたのは,ナポレオン1世の時代であり,司法組織もこれに伴って整備されたが,その後時代を経るとともに実情に合わせての改革が加えられてきた。1958年12月の裁判所組織の改革は大規模なもので,とくに民事裁判組織のなかで,民事裁判所に代えて大審裁判所Tribunal de Grande Instanceが設置された。なお,フランスでは伝統的に行政裁判権は行政権に属するものとされ,司法組織とは別に行政裁判所Tribunal Administratif,前述の参事院などの行政裁判組織がある。そこで,司法裁判組織との間に管轄の争いが生じる場合に備え,権限裁判所Tribunal des Conflitsが置かれている。

 司法組織は,大別して民事裁判にかかわるものと,刑事裁判にかかわるものとに区別される。

(1)民事裁判組織 小審裁判所Tribunal d'Instanceと大審裁判所に分けられる。小審裁判所は原則として郡を単位として設けられ,小規模,小額の訴訟を扱う。大審裁判所は原則として県を単位に,県庁所在地に置かれ,訴額または事件の性質によって小審裁判所その他の第一審裁判所の管轄とされるものを除く,いっさいの民事事件を扱う。小審裁判所の管轄事項のうち特定のものについての控訴は,大審裁判所が扱う。ただし一般的には,控訴については全国にある控訴院Cour d'Appelがこれにあたる。最終審としては,刑事裁判と同じく破毀院Cour de Cassationがある。

 その他,民事の特別裁判所として,商事裁判所,労働審判所,小作関係同数裁判所があり,これらではいずれも判事が,職業活動に従事する者を選挙権者として(間接選挙の場合もある),職域別・地域別などによって選出されるという点に特徴がある。

(2)刑事裁判組織 フランスでは,犯罪に次のような基本区分が設けられている。すなわち,法が体刑などをもって罰する殺人,強盗などの罪にあたる〈重罪crime〉,法が懲治刑をもって罰する脅迫,傷害,窃盗などの罪である〈軽罪délit〉,法がおもに罰金などの取締刑をもって罰する軽い罪にあたる〈違警罪contravention〉の3種がそれである。そして,これらに応じて裁判の管轄や手続も違っている。

 まず重罪院Cour d'Assisesは,重罪を管轄し,法廷は3名の裁判官と市民から選ばれる9人の陪審員からなり,非常設の裁判所である。その判決は終審で下され,控訴することができない。軽罪裁判所Tribunal Correctionnelは,軽罪の審理にあたるもので,大審裁判所に設置されている。法廷は3名の裁判官で構成され,陪審員はない。判決は第一審のそれとして下され,控訴が認められる。控訴審は,控訴院軽罪部があたる。違警罪裁判所Tribunal de Policeは,小審裁判所に設置され,管轄地域内において発生した違警罪を扱う。第一審として下された判決のうち,特定のものについては控訴が可能であり,同じく控訴院軽罪部がこれにあたる。

 重罪院および控訴院の判決に対しては,法律手続に関してのみ,破毀院に上告することができる。

フランスの地方行政は,ナポレオン1世時代に整備された中央集権的制度が1世紀半以上にわたって維持されてきた。このため,地方自治の発達は制約を受け,地方公共団体は一般に国の行政単位という性格が強かった。しかし,1982年ミッテラン政権の下で地方分権化の改革案が議会を通過し,年来の制度にも新しい変化がもたらされることになった。

 フランスは,96の県département,四つの海外県département d'outre-mer,四つの海外領territoire d'outre-mer,二つの(海外)地域公共団体collectivité territorialeから成り,約3万6000の市町村communeをもっている。1964年以来新たに21(のちに22)の〈地域〉(レジヨンrégion)が設けられ,広域的な地域開発圏として機能するようになった。

 各県には,政府によって任命され,県における国の受任者,および県行政事務の執行機関の役割を果たす知事préfetが置かれていた。その権限は強く,治安の維持,法令や政府の決定の執行,各省出先機関の監督,市町村の監督などに及んでいた。それに対して,直接選挙によって選出される県会Conseil Généralがある(任期6年)。しかし,その権限は限られており,県知事の諮問機関という性格が強かった。ところが82年の改革では,知事の占めていた県行政の執行機関としての機能は,県会議長に移されることになった。すなわち知事は国の受任者,地方公共団体としての県の執行責任者は公選原理に基づく県会議長,というふうに区別され,全体として県の自治の権利が強められている。

 市町村においては,直接選挙によって市町村会Conseil Municipalの議員が選ばれ(任期6年),議員の互選によってその議長である市町村長maireが選ばれる。この意味で,市町村は県よりも自治体的性格が強い。また,1992年に批准された〈マーストリヒト条約〉により,EC加盟各国では,市町村選挙の選挙権を加盟国出身の滞在者に認めることが定められ,フランスも憲法を改正し,これを制度化している。市町村長は,法令の公示や戸籍管理など国の委任事務を行うとともに,市町村会を主宰し,その議決や予算を執行する。しかし,市町村は大は100万都市から小は人口100未満の寒村までも含む規模のまちまちな団体であり,小規模である場合財政上その他で県や政府に依存することは避けられず,自治は名ばかりのものとなり,この点にも大きな問題がある。なお82年の改革では,県知事など上級機関の市町村への監督権限がかなり弱められている。
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19世紀半ばまで,イギリスに次いで世界第2の経済大国を誇ったフランスは,世紀末から20世紀初頭には後発のドイツ,アメリカに追い越され,第2次大戦時には経済的後進国に数えられるにいたった。この経済的没落の最大の理由は,産業革命に続く資本主義の発展期において,先進工業国に等しく見られた〈人口爆発〉がフランスにおいては生じなかった事実に求められる。すなわち1830-1930年の100年間にイギリス,ドイツ,アメリカの人口はそれぞれ3倍,2倍,13倍(移民の流入が大きい)に増大したにもかかわらず,フランスはわずか1.3倍にとどまった。このため国内消費市場の大規模な発展は望めず,労働力供給も制約されざるをえなかった。この人口抑制をもたらしたものは,中世の百年戦争や黒死病から始まり,大革命とナポレオン帝政下の相次ぐ戦乱へと続く,たび重なる大量死に直面したフランス人がその心の底深くに無意識のうちにしみ込ませていた〈人口増加は失業と悲惨をもたらす〉という確信であり,〈マルサス主義〉と呼ばれるものにほかならない。そしてそれが経済活動に反映されて〈産業のマルサス主義〉を生み出す。小規模な同族経営の支配と手工業,小商人層の肥大化が,他の西欧諸国に比して著しい。とりわけ過当競争と過剰生産とによる企業倒産という強迫観念にとりつかれ,変化や拡張を嫌い,保護主義へと傾斜する。そして利潤は拡大再生産のために再投下されるよりも,しばしば国債や外債など,安全性と収益率の保障された非生産的な資金運用にまわされたのであった。

 しかし第2次大戦後,フランスはめざましい経済成長を達成し,これまでの伝統的な社会経済構造は大きな変貌を遂げるにいたった。その変貌のありさまを以下にあげてみよう。(1)農業人口と農村人口の大幅な低下が進み(1946年のそれぞれ36%,47%から75年の11%,32%へ),フランスは農業国から工業国に変貌し,しかも都市型社会と呼ばれるにふさわしい先進工業国の仲間入りをした。(2)戦後,劇的ともいうべき出生率の上昇がみられ(1.5%から2.0%へ),これが少なくとも1960年代半ばまで続いた。(3)フランス人の間に持続的な変化や拡張を積極的に受け入れる精神的風土が確立した。大衆はより多く消費を望み,企業は新たな需要を満たすために喜んで投資を進める。そして国家機関と産業界にはダイナミックな発展を求める〈新しい型の人間〉が進出して指導的な地位に就いた。〈マルサス主義〉がなおフランス人の意識に色濃く残っている事実は否定しえないにせよ,戦前と比べて戦後のフランスは大きく変貌したといわなければならない。

第2次大戦後のフランスの経済発展は,大きく3段階に分けられる。すなわち,(1)解放後,経済再建が行われた戦後復興期,(2)ド・ゴールが大統領に就いて第五共和政が始まった1958年からオイル・ショックの1973年までの高度成長期,そして,(3)その後今日まで続く低成長期である。

(1)戦後復興期(1945-57) 終戦後,フランスが直面した最大の問題は,戦火によって壊滅的打撃を受けた生産設備(農業は戦前水準の7割にとどまったが,工業は2割にまで落ち込んだ)の復興であったが,同時にフランス産業が体質的に備えていた〈マルサス主義〉からの脱却,すなわち経済構造の近代化を断行することが最重点の課題とならざるをえなかった。こうして国有化と計画化とがフランス経済近代化達成のための二つの武器となった。

 まず国有化は,自動車メーカーのルノーの例にみるように,対独協力派への制裁という〈愛国的性格〉を有していた点も当初は無視しえなかったが,しだいに近代化を目的とする方向に収斂されていった。それは,(a)石炭,電力,ガスのエネルギー部門と鉄道,航空の運輸部門といったインフラストラクチャー部門の国有化,(b)四大預金銀行,保険といった金融部門の国有化にほかならない。これによって小規模分散性の打破(電力会社1860社,ガス会社724社をそれぞれ1社にまとめる),産業融資の拡大,経営の積極化,政府の財政的てこ入れ,大規模な近代化と生産能力拡大などが図られることになった。

 次に計画化は,当初アメリカの対欧復興援助(マーシャル・プラン)への受け皿となり,経済復興のための基幹部門への投資割当て(傾斜生産方式)をなす〈真の〉国家計画(計画の立案者である経済学者モネJean Monnet(1888-1979)の名をとってモネ・プランと呼ばれる)として構想された。しかし経済の再建とともに,統制的手段の採用はしだいに放棄され,減税措置や利子補給,起債認可,各種助成金や奨励金などを見返りに,企業が投資契約を国と交わす,という刺激と合意とによる誘導的手法が導入されるようになった。そして来たるべき5ヵ年間の中期的な経済・社会の方向と枠組みとを明確に定めるべく,広範な経済主体(官僚,経営者,農民,労働者,青年,地方代表)が各種の近代化委員会や経済社会審議会に加わった。資本主義国の多くにみられる単なる経済予測のシステムにとどまるものではなく,〈積極的計画〉である点が,フランス流計画化の特色となった。この国有化と計画化とを主たる政策手段にする公的部門の肥大化により,戦後のフランスは,典型的な混合経済économie mixteの国となり,また官僚による政治経済の全面的コントロール,というディリジスムdirigisme(国家主導主義)の伝統がいっそう強まることになった。

(2)高度成長期(1958-73) 1958年にEEC(ヨーロッパ経済共同体)が成立した。同時にこの年ド・ゴールが大統領に選ばれ,第五共和政が始まった。こうして開放経済に移行したフランスは,強力なゴーリスト体制を武器に経済基盤の強化に取り組んだ。当時,アメリカ資本は自国内の資本過剰傾向から対欧進出を積極化させており,しかも71年まではフランスへの直接投資が西ドイツへのそれを上回る勢いで進んでいた。このため,アメリカによるフランスの〈植民地化〉と〈技術奴隷化〉の危機が,官民あげて叫ばれるにいたったため,ド・ゴールが採用した産業政策の目標は,(a)経済的・技術的,とりわけ軍事的な独立の確保を目ざすための,独自のコンピューター開発(プラン・カルキュル),コンコルド,エアバス計画(イギリスと協力),アメリカなどとは違ったカラー方式(SECAM)をとるカラーテレビの開発(ソ連と協力),(b)重要産業のてこ入れによる国際競争力の強化(鉄鋼,造船,化学,機械などの〈業種別計画〉),(c)企業税制改革や株式市場の強化,金融機関の統合による企業再編の促進,などにあった。この時期に,政府の積極的な産業政策に助けられて,大規模な集中合併運動が展開され,企業規模は著しく拡大し,寡占体制が成立するにいたった。産業構造も高度化し,重化学工業が拡大した。農業においても,フランスに伝統的な小農paysanが急速に減少していき,北部小麦地帯の資本主義的借地農fermierを中心に大型化が進んだ。

 1959-73年のフランスの経済成長率は年平均5.5%をしるし,日本(10.5%)を除く主要国を上まわった(イタリア5.1%,西ドイツ4.8%,アメリカ3.9%)。この高度成長は輸出の大幅な伸びによって支えられたが,労働生産性と資本生産性との著しい向上がそれを可能にしたといえる。他方この間の労働分配率をみると,フランスはいずれの主要国をもしのぐ高い水準を続けていた。組織率は著しく低い(二十数%)にもかかわらず,きわめて政治化しているフランスの労働組合(CGT,CFDT)が,賃金引上げに強力な闘争を展開し,政府,経営者は比較的安易に労働側の主張を受け入れ,労賃コストの上昇を価格引上げのインフレ政策によって吸収するという傾向が強かったためである。次の低成長時代の訪れとともに,この矛盾が顕在化し,フランスの経済的地位は大きく揺らぐことになった。

(3)低成長期(1973-) 1973年の第4次中東戦争の結果生じたオイル・ショックによって世界は低成長時代に入った。フランスにおいても,インフレ,雇用,成長,国際収支などのそれぞれの局面で困難が深まったために左翼政党が躍進し,その結果,左右の政治勢力間で,また政府部内でも,政策の優先順位をめぐって対立が激化する時代が始まった。

 とりわけ経済再建の方法について,リベラリズム(アメリカでは社会主義的傾向をさすが,ヨーロッパ的文脈では正反対に新保守主義を意味する)とディリジスムとの間のイデオロギー対立が深まった。保革の政権交替がめまぐるしく生じ,自由主義と介入主義との間で政策スタンスの180度転換が繰り返された。

 まず1974年に非ゴーリストから初の大統領に就任した中道右派のジスカール・デスタンは,脱ゴーリスムの自由化政策を掲げて低成長時代に立ち向かった。だが失業の増大には歯止めが掛からず,1973年の40万人が,次期大統領選の行われる81年には170万人に急増してしまい,大統領の座は24年ぶりに社会党のミッテランにさらわれることになった。左翼連合政権は,国有化と計画化とによる介入主義で経済の立直しを図ろうとしたが,やがてフランス経済をがたがたにさせて,緊縮政策への政策転換を余儀なくされたのである。

 ミッテランは1989年に奇跡の再選をなしとげ,ナポレオンの支配を上回る14年の長期大統領政権の座を誇ったかにみえるが,実はこの2期の大統領期間中それぞれ1回ずつ,1986-88年と1993-95年にコアビタシヨンcohabitation(保革共存。左翼大統領と保守首相との保革共存)に追い込まれ,実権を削がれてしまっていた。その後1995年に,ネオゴーリストのシラクがようやく社会党から大統領の座を奪還したものの,わずか2年にして選挙戦で敗れ,さらに第3次のコアビタシヨン(今回は右派大統領のもとでの左派内閣)が訪れることになった。

 大統領の任期7年と国民議会の5年との差がこの〈フランス的例外〉を生んだ元凶である。フランスでは1981年以降,合計5回の総選挙が行われてきたが,いずれの場合も例外なく政権交代が実現し,いわば民主主義のお手本を示してきた。とはいえ短期の政策転換は,改革の不徹底や経済運営の非連続をもたらし,マイナス面は小さくない。

 低成長時代におけるフランス経済政策は,このように比較的短期間に振幅の大きい変化が繰り返された点に特徴があるが,時の推移とともにこの揺れ幅が小さくなってきたことも事実である。とくに第2次ミッテラン大統領時代以降,左右間の政策収斂が進んだ。それは第1に,失業の増大と国際競争力の低下,というフランスの構造問題が深刻化して,政策の許容幅が大きく狭められてきたためであり,第2には,新保守主義と介入主義というイデオロギー的原理主義がしだいに有効性を失い,リアリズムが力を伸ばしてきたからである。

1981年5月,ミッテランがジスカール・デスタンを破って大統領に選ばれ,23年ぶりに左翼政権が誕生し,フランスはその相貌を大きく変えることとなった。新政権の取り組んだ構造改革の第1は,ジスカール・デスタン大統領の自由化政策によって弱体化した混合経済の基盤を再び強化することにあり,国有化の拡大と計画化の復権がその主たる手段となった。1974年の石油危機以降,フランス経済は長期不況に陥り,とりわけ民間企業が衰退色を深めていったとき,国有企業のみはこれとは逆にかなり大幅な成長をしるしていた。このためミッテラン政権は,国有企業拡大による産業の活性化を図った。そして重化学,エレクトロニクス,情報などの戦略的6巨大企業と,世界各地で投資活動を展開する金融資本グループである2大事業銀行と,39大預金銀行とを国有化した。この結果売上高でみる製造業全体に占める公的セクターの比率は18%から32%に,また貸出比率でみる国有銀行のシェアは20%から33%へと,それぞれ大幅な増大をみせた。

 次に経済計画については,ジスカール・デスタン前大統領下に進んだ非計画化の動きに歯止めをかけた。すなわち,既存の計画庁と国土整備庁とを,協同組合活動を統括するために新設した社会経済庁と併せて,計画・国土整備省の管轄下においた。そしてこれまでの〈経済社会発展計画〉を〈経済社会文化発展計画〉と名称変更して計画の対象領域を広げ,また〈計画第2法〉を制定して財政的裏づけを与え,真に執行されうるものとした。こうしてジスカール・デスタン大統領下に自由化が図られた混合経済の基盤は再び強化され,保護主義と介入主義の伝統がよみがえった。

 構造改革の第2は,社会党の公式理論たる自主管理社会主義socialisme autogestionnaireの理念を表現する,(a)地方分権化と,(b)労働者の権利拡大とにある。フランスは中央集権の最たる国といってよい。フランスに現存するほぼすべての官職と行政制度とはナポレオン帝政以来変わっておらず,県知事は任命制であった。市町村には完全な地方自治が与えられておらず,県知事による後見監督制度が存在していた。道路,鉄道,通信網の〈すべての道はパリに通じる〉。地方発パリ行きの空の第1便は,許認可を求めて中央官庁詣でに精を出す重役,地方議員,市町村長で満席になる。租税全体に占める地方税の比率はイギリス25%,ドイツ35%と比べると,フランスは19%と格段に低い。

 ミッテラン新政権はこの中央集権の伝統にメスを入れた。まず集権制の牙城たる内務省を内務・地方分権省に改組し,県知事制を廃止して住民が直接選出する県議会の議長に県の行政執行権をゆだね,また市町村に完全な自治を与えることにした。地方税の比率も25%にまで引き上げられることになった。そして各種行政権限も大幅に地方自治体に移譲されることになり,フランスの集権的伝統も大きく揺らぐ可能性がある。モーロア首相はこれを〈静かな革命〉と呼んだ。

 フランスは先進国中最も所得格差の大きい国(OECDの1976年のレポート)であるばかりでなく,労使関係においてもきわめて後進的である。一方では同族経営が支配的で経営者が家父長意識を捨てきれず,他方で組合の組織率は二十数%とヨーロッパでは並外れて低く,しかも政治傾向ごとに組織は分裂している。このように労働者の苦情や不満を組織化するルートに欠けており,団体交渉の伝統が乏しく,自然発生的な山猫ストが頻発する。ミッテラン政権は,この硬直的労使関係の近代化を狙って,労働者の企業内権利拡大を定めた四つの法律を次々に成立させ(時の労相の名を冠して〈オルー法〉と呼ばれる),従来の労働法典の過半を書き替えるにいたった。そのおもな内容は,団体交渉の義務化,経営内容の開示,就労規則や労働条件に対する労働者の集団的表現権の認知などにある。

 さて以上のようにミッテラン政権の誕生とともに,フランスの伝統的な時代遅れの社会構造は変化を遂げつつある。しかし新政権が当初国際環境を無視してケインズ主義による景気浮揚策に走った(最低賃金と社会保障給付の大幅引上げ,6万人の公務員増員,とくに1982年度予算を前年比27.6%膨張させた)ことから,インフレーションを激化させた。さらに国有化がイデオロギーの先走りから効率化を欠いた独善的なものに終わり,また保護主義的・介入主義的性格が強く,エレクトロニクスなど先端産業中心の産業政策に対する経営者の不満が急激に高まり,経済の長期停滞を招くにいたった。こうして83年3月の地方選挙での敗北を機に,ミッテランは大胆な政策転換に踏み切り,ドロール・プラン(時の蔵相の名を冠する)と呼ばれる包括的な厳しい引締策に転じ,賃金,物価の抑制,衰退産業の人員整理,政府介入の縮小などを行おうとした。

 ミッテラン政権下に進められたフランス経済・社会の大胆な構造改革は,経済政策の失敗によってもたらされた長期不況によって,十分成果を挙げていない。しかし,たとえ社会党政権が短命に終わろうとも,この改革が70年代に進んだフランス社会の変貌,とりわけ〈新しい労働者階級〉をはじめとする新中産階級の肥大化に応える限りで,極端な後戻りは不可能であろう。
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今日のフランス国家には,ルイ14世やナポレオンやド・ゴールが体現していたような軍事的・政治的威光はない。経済は停滞し,国際的発言権は低下している。フランスに誇るべきものがあるとすれば,それは文化の伝統であり,同時に,その文化を問い直していく文化の革新の姿勢である。文化なきフランスという観念は成立しえない。事実この社会で文化は高い位置を与えられている。文化への崇拝の念は幼少期からの教育をとおして人びとの精神に深く刻みこまれている。またこの社会において成功するためには文化=教養を深く吸収している必要があり,作家,芸術家,学者はもとより,ジャーナリスト,出版人,政治家に対しても,教養豊かな知識人であることが要求される。とりわけ重視されるのは言語表現であり,多くの知識を参照しつつ自己の考えを独自の角度から表明する言語技術の習得が,学校教育の中心に置かれている。著名な政治家(ブルム,ド・ゴール,マンデス・フランス,ミッテラン)がすべて一流の文人であるのは偶然ではない。

 しかし文化に対するこの崇拝の念は,他方,文化の制度化と,知識人の特権化を生み出してきた。16世紀にフランソア1世の創設したコレージュ・ド・フランス,17世紀にリシュリューの創設したアカデミー・フランセーズ,19世紀初頭ナポレオンによって国立劇場に指定されたコメディ・フランセーズは,文化の三大殿堂として,それぞれ,学問,言語,演劇の領域で,規範としての機能を保ち続けている。また総合大学(ユニベルシテuniversité)は今でこそ大衆化の道をたどっているが,これに代わって高等専門学校(グランドゼコール)が競争試験の厚い壁を設けることによって,少数エリートの養成に努めている。これらの古典的制度機関と並んで,近年では,ラジオとテレビが強力な制度的媒体として登場した。すべて国営であり,しかも限られた数のチャンネルしかもたないこれらのメディアをとおして,知識人は世論に絶大な影響を及ぼしうる立場にある。たとえば現在,テレビの最大の人気番組は〈アポストロフ〉と題された知識人による大討論の中継であり,数百万の視聴者の目を釘づけにするこの番組は,書物の売行き,映画や芝居の興行成績を左右するだけでなく,社会的なできごとについての人びとの意見形成に少なからぬ役割を果たしている。またある調査によれば,フランス人の12%は,知識人の態度表明によって選挙の際の投票を左右されるという。作家レジス・ドブレはこうした現象を〈知識人権力〉として批判しているが,1968年の五月革命も,この文化の制度化と知識人権力に対する異議申立てという側面をもっていた。文化が社会の中で占める位置はいぜんとして高いが,制度をとおした知識の伝達・習得としての文化という概念が,生活の中からの自己表現という文化の概念としのぎを削っているところに,1968年以後のフランス文化の位置がある。

フランス人は〈われわれはデカルト主義者だ〉と好んで口にするが,実際,明晰さと論理性とはフランス精神の最大の特徴と考えられている。たとえば,18世紀の作家リバロルによれば,〈明晰ならざるものはフランス語にあらず〉ということになる。ある人びとはまた,ベルサイユ宮殿を念頭に置きながら,人工的な秩序と調和をフランス精神の真髄とするであろう。中世ゴシック建築にみられる幾何学的精神と繊細の精神との総合を重視する人もいるかもしれない。19世紀の批評家ルナンに言わせれば,〈フランスの偉大さは対立的な両極端を包容する点にある〉ということになる。しかし,フランスはまた数々の革命を経てきた国でもある。自由と反抗の精神のうちにこそ,フランス人性をみる者も少なくない。実際,フランス史の中に姿を現す最初の英雄は,カエサルの軍隊に反抗して捕虜となり,ローマで処刑されたガリアの隊長ウェルキンゲトリクスである。また今日のフランスの国家的祝祭日は7月14日,すなわち1789年パリの市民がバスティーユ監獄を襲撃した日である。そしてそのフランス革命は,自由,平等,友愛の理念を標榜していただけではなかった。1793年の憲法は次のように,蜂起の義務をさえ規定していたのである。〈政府が人民の権利を侵害すれば,蜂起は人民全体にとっても人民の各単位にとっても,義務のなかでも最も神聖にして欠くべからざる義務となる〉。同じように,ロマン主義から象徴主義を経てシュルレアリスムへ至る詩の運動の中に,サドからロートレアモンを経て,アルトー,ブランショへと通じていく散文の運動の中に,言語的規範に対する反抗と逸脱の意思を読み取ることも可能である。

 しかし他の人びとはこう反論するかもしれない。フランスとは制度であり,記念物であり,過去の保存であり,伝統である,と。確かにこの社会において家族制度はいまだ神聖な絆であり,カトリック教会にしても,第三共和政下で教育への支配権を失いはしたが,風俗習慣,日常の行動様式の次元で影響力を保ち続けている。共同社会に貢献した死者をまつる記念碑は,都市においても地方においても風景と一体をなし,フランス人の集団的記憶を維持するのに重要な役割を果たしている。文化の保存装置として図書館と美術館に多大な予算が割かれているだけでなく,都市のたたずまいのうちにも伝統がおのずから感知されるように,建築上の配慮がなされている。あるいはもっと単純に他の人びとは,おしゃべり,議論好き,揶揄の精神,楽天性,社交性,心理分析の趣味,外国への無知,新しいもの嫌い,愛国心,といった言葉で日常生活の中のフランス人の像を描き出し,そこにフランス精神を重ね合わせてみるかもしれない。実際これらの特徴は,フランスの文学,哲学,建築などのうちに多かれ少なかれ検出されうるのである。

 このように,フランス精神を定義する多様な視点がありうることを確認した上で,ここでは,現代フランスを理解する上で重要と思われる一つの対立軸を浮かび上がらせることにする。それは,この国の社会と文化を貫く雑種的ないしはコスモポリタン的な性格と,自己中心的ないしはナショナルな性格との対立軸である。

〈いまだかつてフランス人種なるものは存在したことがない〉と作家モーロアがその《フランス史》の中で書いているように,フランス社会は歴史的に,多様な人種の混合によって形成されてきた。リグリア人,ケルト人,ローマ人,ゲルマン人,ノルマン人などがフランス人なるものをまず構成したのである。フランス文化と呼ばれるものにしても,その基層を形づくっているのはローマ人のもたらしたラテン語と,ローマ人をとおしてもたらされたキリスト教,さらには明晰と調和のギリシア的観念であり,この意味においてフランス文化は出発点からして雑種文化であるといっても過言ではない。

 外国人,外国文化に対する姿勢は,その後,時代によって違いがあるが(たとえば17世紀のフランス社会は外部に閉じられた社会であった),今日のフランス文化の形成にとって異文化の同化,吸収の営みは欠くべからざる契機となりつつある。たとえば,絵画のピカソ,シャガールを考えてみよう。彼らはいずれもフランス以外の国に生まれ育ちながら,その才能はフランスの社会で開花し,フランス文化を代表する画家とみなされている。同じことは文学のベケット,ユールスナール,映画のゴダール,ロミー・シュナイダー,哲学のデリダ,クリステバ,シャンソンのムルージ,ムスタキなどについても言うことができる。文化的に重要なポストや役割が外国人にゆだねられることもまれではない。たとえば一時期,オペラ座の支配人の地位がイタリアの演出家ストレーレルにゆだねられたし,第2次大戦後の最も大規模な文化事業と言えるポンピドゥー・センター設計のための国際コンペでは,イギリス人とイタリア人のチームが選ばれた。またルーブル宮殿改築のための国際コンペ(1984)では,アメリカ在住の中国人が選ばれている。

 他方,フランス社会は伝統的に,とりわけ1793年の〈亡命者保護法〉の制定以来,政治亡命者に原則として門戸を開いている。かつてイランからの亡命者ホメイニーを受け入れたこの国が,今ではホメイニーの政敵となった元大統領バニー・サドルを保護している。そのほか,元アルジェリア大統領ベン・ベラ,元中央アフリカ大統領ボカサら,第三世界の失権した多くの政治指導者が,フランスに抵抗の拠点ないしは安住の地を求めている。特権的な政治亡命者だけではない。フランスはまた一般の政治難民をも数多く受け入れてきた。1956年のハンガリー事件以来,東欧圏からの難民たちが後を絶たなかったし,73年のチリのアジェンデ政権崩壊以後は同国からの難民,そして近年ではベトナム,カンボジアからの難民といったぐあいに,世界情勢を直接に反映した難民がこの国に押し寄せている。その数は現在約16万人といわれ,これに移民労働者約200万人,さらにその他の定住者を合わせると,この国の外国人人口は400万人を超え,人口の約8%に達している。

 外に対して開かれているということは,しかし必ずしも自分を外に開くということを意味しない。外国人を受け入れるフランス人も,決して外国旅行,外国滞在を好む民族ではない。20世紀の旅行文学者モランはこう書いている。〈世界一周はフランス的スポーツではない。ヨーロッパのいくつかの国の人によってすでに13回もの世界周航がなされていた頃,その冒険を敢行したフランス人はただの一人もなかった〉。そして今日でもフランス人は,他のヨーロッパ人に比べて外国に永住することの少ない国民である。また外国の地理にきわめてうとい国民である。他を吸収しはするが,それはあくまでもフランス社会への同化を前提としている。文化についても同様で,外国文化への関心は,対象を対象として理解し,そこに自国文化を異化するきっかけを求めるというよりは,自国文化を豊かにするという統合の発想に立っていることが多い。黒人文学に深い理解を示したサルトルにしてもこう書いている。〈われわれの言葉と神話とを用いて自己を描き出そうと努める一人一人の黒人は,この年老いた身体(フランス語)に流れこむなにがしかの新鮮な血液である〉。

 他者を受け入れはするが,他者へと自分を開いていくことの少ないこうした心性は,フランスの自然条件と無関係ではない。ヨーロッパの北と南の中間に位置し,酷暑も厳寒もないフランスは,河川の若干の氾濫を除けば,自然は恩恵をもたらしこそすれ,災害をもたらすことはまれであった。起伏のゆるやかな平野や盆地,それに豊かな森林の広がるこの国は,人間が定住し,持続した生活を営むのに適した土地である。そのような土地に,移動を嫌い蟄居(ちつきよ)を好む〈定住者の知性〉(レオン・ドーデ)が発展したとしてもふしぎではない。しかし同時に,大多数が農民であったこの定住民族に,フランスは世界の中心である,といった観念を抱かせるにいたった歴史的条件にも目を向ける必要がある。長い歴史をとおしてフランスは,他者を吸収し同化するシステムをおのれのうちにつくり上げ,その過程で自己中心的なイデオロギーをはぐくんでいったのである。

 その重要なモメントの第1は,ガリアの地のローマ化である。フランスはローマ文明に対し,ラテン語,法と正義の観念,論理と雄弁などを負っているが,なかでもその普遍主義的世界観,すなわち自国の文明が普遍的な文明であり,この文明の恩恵を他民族に浴させる義務があるとする世界観を受け継いだ。

 第2に,中世におけるキリスト教信仰の普及とカトリック教会の支配権の確立がある。13世紀パリに創設されたソルボンヌ大学はカトリック神学研究の中心となり,教皇に次ぐ権力を有した。また北フランスの各地に建立されたゴシック式大聖堂はその数学的厳密さと色彩の抒情とによって普遍的な美を具現すると考えられた。フランスの世界的使命への確信はこの時期に誕生したと言うことができる。

 第3に,ヨーロッパ全体を軍事的・経済的に制圧したルイ14世による絶対王政の確立と,その下で開花した古典主義文化がある。17世紀フランスはその行政組織の整備によって世界に君主政の範を示し,ベルサイユ宮殿と古典主義文学が表現する節度,調和,均斉は国民的であると同時に,ギリシア・ローマの文明に匹敵する普遍的スタイルの実現として受け取られた。フランス語が外交用語として国際的に認知された(1648)ことも,フランスの中心意識を強化することになった。

 第4がフランス革命である。自由,平等,友愛の理念は,アンシャン・レジーム下にあった多数のフランス人の渇望の表現にとどまらず,皮肉なことに革命の混乱の中から出現したナポレオンの軍隊によって全ヨーロッパに広がり,近代市民社会の普遍的原理へと定着していった。そこからフランスのうちに〈文明の指導権〉をみる19世紀の歴史家たち(ギゾー,ミシュレ)の試みが生まれ,フランス的なもの=普遍的なものとするイデオロギーは頂点に達したのである。

 けれども,フランス的なもの=普遍的なものとする発想は,非フランス的なものを排除する偏狭なナショナリズムと紙一重である。外国人は受け入れるが,それが同化を前提とするとき,同化することを受け入れない外国人は異分子として社会の周辺に追いやられかねない。そして経済的・社会的危機が高まるたびに,これらの異分子が攻撃の的となり,ときにはリンチやテロの対象となる。これが現在,アラブ,アフリカ人の移民労働者について頻繁に起こっている現象である。それを主導するのは極右勢力であるが,この極右勢力がつけ入ることのできる国民心理が存在することは否定しえない。そこから,文化の次元でのインターナショナリズムと社会生活の次元でのナショナリズムとのずれを指摘することができる。固有の風俗習慣を身につけ,言語と習慣を異にする日常生活の中の他者(黒人,アラブ,アジア人)と,今後永く,どのように共存していくか--これは今日のフランス社会が抱えている最大の問題であるといえよう。

20世紀フランス文明は,ほかならぬ文明の危機の意識をうちに抱えている。第1次大戦直後バレリーは《精神の危機》と題する講演の中で次のような問いを立てていた。〈ヨーロッパはアジア大陸の小さな岬になってしまうのだろうか,それとも依然として地球の頭脳にとどまり続けるだろうか〉と。バレリーの危機意識は,ギリシアの幾何学に発する科学を富の開発の道具とし,支配の手段にしてしまったヨーロッパの物質文明に向けられている。他方,原子爆弾の投下によって第2次大戦が終結した1945年8月,サルトルが次のように書いたとき,その危機意識は人類の文明の存続自体へと向けられている。〈全人類も,もしもそれが生存し続けていくものとすれば,それは単に生まれてきたからという理由からそうなるのではなしに,その生命を存続せしめる決意を立てるがゆえに,存続しうるということになろう〉(《大戦の終末》)。

 68年5月,学生と警官隊との衝突に端を発し,労働者のゼネストに引き継がれていった〈異議申立て〉の運動である五月革命は,1ヵ月以上にわたってフランスの社会生活を麻痺させた。それは最終的にド・ゴール体制を倒す政治革命とはならなかったが,高度成長下での文明のあり方を根本的に問い直す,新たな危機意識の噴出であった。事実,その間に街頭や大学のキャンパスや劇場で昼夜繰り広げられた感性の祭典,言葉の爆発,工場や地域や小集団の中での自治と直接民主主義の実験などは,〈解放〉のイメージを差し出しつつ,政治についての思考様式をはじめとして,文化の諸概念を一新させてしまった。この五月革命は,(1)知識の特権化,制度化への異議申立て,(2)消費社会,商品化社会への反発,(3)文化が人間の生を疎外することへの危機感の表明,(4)人間をロボット化する管理社会の告発,などによって特徴づけられる。裏返して言えば,それは絶対平等,自己決定権,欲望と想像力の解放,自発性,創造性の開花などを,〈いま,ここで〉実現しようとするユートピア的文化革命であった。それは制度的に獲得したものこそ多くはなかったが,これ以後のフランス人の行動様式,感受性,言語表現,人間関係の結び方などに,大きな変化をもたらした。70年代に発展した三大社会運動(エコロジー,フェミニズム,地域主義)はいずれも五月革命を直接に継承する運動であり,いわゆるフランス現代思想なるもの(フーコー,ドゥルーズ,ガタリ,デリダ,グリュックスマン,クリステバ)も,五月革命に出された問いをどう解くかを最大のテーマとしている。

1981年5月,ミッテランが大統領に選ばれ,社会党と共産党を軸とする社会主義政権が成立した(1984年7月,共産党は政権から離脱)。この政権は,死刑制度の廃止,破壊活動防止法の廃棄,移民労働者の滞在許可の拡大,自由ラジオの認可,65歳から60歳への定年制の引下げ,約20万人を対象とした富裕税の設置,週労働時間39時間制など,一連の公約をすばやく実現していった。人権擁護と社会主義という点でこの政権のなしたことは大きい。しかし他方において経済危機は強まり,失業者の数は増加の一途をたどっている。この経済的・社会的危機をどう乗り越えるかがミッテラン政権の最大の課題である。ただこれに関連しつつ,他にも解決すべき課題が以下のようにいくつかある。

(1)地方分権の問題 1982年3月,地方分権法が成立し,これによって官選の県知事は共和国委員と名を改め,その権限が狭まり,県議会の議長が行政権を行使できるようになった。また車両の登録税,通行税の管轄権が県や地域圏に移りつつある。しかし国から地方への財源の移譲の規模はいまだ小さく,権限の分散についても中央の行政官僚の抵抗がある。ナポレオン以来の中央集権的国家組織を地方自治へ向けて改革していく試みの成否は今後にかかっている。

(2)社会保障の問題 社会保障の整備は戦後のフランスがなした大事業の一つである。それまで個々に発展してきた保障制度(病気,事故,退職)が1945-46年に統一的に再編成された。日本と比較して目につくのは,第1に財源において雇用主の負担率が高いこと(給与の40%近くを負担)である。第2に医療費の場合,いったん全額を支払った後に75~90%くらいが払い戻されるしくみである。第3に家族手当が多様かつ多額である。たとえば産前手当(未婚,既婚を問わずすべての妊婦に約30万円),出産手当(約9万円)の支給,妊婦の診察料,薬代,入院費用の全額払戻し,2児を扶養する場合には基本賃金の22%,さらに1児増えるごとに33%が加算されること等々。第4に退職後の年金が高額である(退職時の給与の約70%が生存中支給される)。けれども次の点がいま問題になっている。(a)高齢化現象に伴い生産年齢人口が相対的に減少し,社会保障会計の赤字が増大していること。(b)保険料の負担率が高いことから,企業が雇用に対して消極的であること。この2点を解決するためモーロア内閣は,失業保険の給付期間の短縮,連帯税の設置など非常手段に訴えると同時に,企業の分担率を下げる方向へと政策の転換をし始めた。

(3)高等教育改革の問題 1960年代初頭に20万人であった大学生数が84年には100万人に達している。定員を設けて入学試験をし,高度の専門家を養成するグランドゼコールはともかく,バカロレア(大学入学資格試験)を通れば原則として誰でも入学できる総合大学(ユニベルシテ)をいかに合理化して,現代社会の要求に適合させるか,これが1968年以来何回か試みられてきた高等教育改革の中心にある問いである。ミッテラン政権は,一方では平等主義の原理にのっとり,総合大学の門戸を大きく開こうとする。他方では第1サイクル(最初の2年)の中に職業教育コースを多く設置し,第2サイクル(3年,4年)への進学に歯止めをかけようとする。また学科ごとに定員を設けて,進学時に選別制を導入しようとする。サバリ案と呼ばれるこの改革案は,1983年,いっさいの選別に反対する学生たちのストライキを呼び起こした。選別制を導入すれば,平等主義と矛盾するだけでなく,各地の大学間に格差をつくりだし,国家試験制度という大前提が崩壊しかねない。社会主義政権下での大学はいかにあるべきかの議論がいまなお激しく続けられている。
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フランス
Anatole France
生没年:1844-1924

フランスの小説家,詩人,評論家。本名ティボーAnatole-François Thibault。セーヌ河畔の古本屋の息子として生まれた彼は,若年から古書を通じて古典の世界に,河畔からのパリ風景を通じて古都の美に眼を開いていた。ルコント・ド・リールの知遇を得て,高踏派詩人として《黄金詩集》(1873)を発表するが,やがて関心は小説の方に向いていく。小説家としての名声が高まったのは,《シルベストル・ボナールの罪》(1881)によってである。つづいて《バルタザール》(1889),《タイス》(1890),《鳥料理レーヌ・ペドーク亭》(1893)などが,懐疑主義と厭世主義を典雅な教養で包んだ独特な味わいによって好評を博した。彼はまた《ル・タン》誌の文芸時評を担当して,ブリュンティエール流の〈独断批評〉に対立する〈印象批評〉を世にひろめた。こうして1896年にアカデミー・フランセーズ会員に選ばれるが,ドレフュス事件に際してはゾラらのドレフュス擁護派にくみした。これを契機として,《ジェローム・コアニャール氏の意見》(1893),《赤い百合》(1894)の作家は,徐々に政治や社会への関心を深め,四部作長編小説《現代史》(1897-1901)を発表し,さらには社会主義へと傾斜していく。しかし,小説《神々は渇くLes Dieux ont soif》(1912)にもみられるように,革命家の狂信もまた彼の排するところであった。1921年のノーベル文学賞を受けた彼は,その微温的な教養主義のゆえに,後にブルトンらの新世代の前衛たちの激しい攻撃の的となった。
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百科事典マイペディア 「フランス」の意味・わかりやすい解説

フランス

◎正式名称−フランス共和国French Republic。◎面積−54万3965km2(本国のみ)。◎人口−6393万人(2014,本国のみ)。◎首都−パリParis(218万人,2006)。◎住民−フランス人がほとんど,ほかにバスク人,ブルトン人,プロバンス人,コルシカ人など。◎宗教−カトリック約80%,イスラム,プロテスタント。◎言語−フランス語(公用語)が大部分,ほかにバスク語,ブルトン語など。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,オランド Francois Hollande(1954年生れ,2012年5月就任,任期5年)。◎首相−マニュエル・バルスManuel Carlos Valls(2014年8月第二次内閣発足)。◎憲法−1958年10月制定の第五共和政憲法,1962年11月改正(大統領を直接国民投票で選出)。◎国会−二院制。上院(定員348,任期6年,3年ごとに半分改選)。国民議会(定員577,任期5年)。◎GDP−2兆1303億ドル(2008)。◎1人当りGDP−3万4208ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−2.9%(2003)。◎平均寿命−男77.7歳,女84.4歳(2009)。◎乳児死亡率−3‰(2010)。◎識字率−99%。    *    *ヨーロッパ大陸西部の共和国。本国のほかに海外県(グアドループ島,フランス領ギアナマルティニク島,レユニオン島),海外領土(ニューカレドニアフランス領ポリネシアなど)はあわせて15万7116km2,約200万人。〔自然・住民〕 国土はほぼ東経8°〜西経5°,北緯41°〜51°の温帯に位置する。南は地中海に,西は大西洋に面し,イギリス,ドーバーの両海峡を隔てて英国と対する。概して東半に山地が多く,西半は低平。南東部の,スイスおよびイタリアとの国境にアルプス山脈,ジュラ山脈が延び,ソーヌ川とローヌ川がいわゆるローヌ回廊を形成して南流している。南西部スペインとの国境をピレネー山脈が走る。アルプスとピレネーとの間にマシフ・サントラル(中央山地)があり,北東部のドイツとの国境に近いボージュ山地,北部のアルデンヌ山地に連なる。最高点はモン・ブラン山(4807m)。北部中央にパリ盆地が広がり,その南部をロアール川,中央部をセーヌ川が貫流する。パリ盆地の東の周辺部にはケスタ地形が発達している。大西洋にコタンタン半島,ブルターニュ半島が突出する。マシフ・サントラルの西方,ビスケー湾岸に至るまでの地域はアキテーヌ盆地で,ガロンヌ川が北西流する。ビスケー湾岸には潟湖が多い。気候は西部〜北西部が温帯多雨気候,東部は大陸性気候,南部は地中海式気候を示す。住民はフランス人が主で,公用語はフランス語であるが,一部ではバスク語ブルトン語フラマン語,ドイツ語も用いられる。アラブや黒人をはじめ旧植民地からの移住者も多い。とくにイスラム人口はEU最大の規模で,異文化に対する民族間の摩擦が表面化している。〔歴史〕 前9世紀ころからケルト人が居住,前2世紀ローマの属領となった。5世紀には民族大移動でフランク族が侵入してフランク王国を建て,9世紀初めシャルルマーニュ(カール大帝)の下で西欧一帯にわたる大国となった。843年ベルダン条約で王国が分裂した後は,西フランク王国の治下で独自の文化・民族を形成し,後世のフランスの基礎が作られた。10世紀カペー朝成立後,封建制社会が確立され,11〜12世紀に荘園制は盛期を迎えた。14〜15世紀半ばの百年戦争期に王権は著しく衰えたが,国内のイギリス領奪回に成功し,また領主制の衰退により,王権は強まった。16世紀ユグノー戦争を経てブルボン朝(ブルボン家)が成立,17世紀には絶対主義の全盛期を迎え,ルイ14世治下でヨーロッパの国際政治・文化に指導的地位を獲得した。18世紀末フランス革命を経て近代社会が成立し,ナポレオン1世治下(第一帝政)で全ヨーロッパに覇権を確立した。19世紀前半,1830年の七月革命,1848年の二月革命を経て経済的に発展,ナポレオン3世治下(第二帝政)で産業革命が完成した。普仏戦争に敗れて1870年帝政は崩壊,第三共和政が始まり,パリ・コミューンが出現した。以後帝国主義的政策を推進したが,1940年ナチス・ドイツに占領され,南フランスはペタンのビシー体制のもとに置かれた。第2次大戦後第四,第五共和政が成立し,現在に至っている。〔産業〕 第2次大戦後,数次の経済計画によって基礎産業の復興,次いで重化学工業の発展が図られたが,ドイツや日本に比して経済成長率の伸びは小さい。1981年に成立した左翼連合政権は,基幹産業部門での国有化を進めた。しかしその後に成立した保守連合内閣の下では,国有化した企業の再民営化が行われている。主要工業地帯はフランドル(繊維,鉄鋼,化学,機械),アルザス(繊維),ロレーヌ(鉄鋼,石炭),パリ(繊維,各種装飾品,食品加工,印刷・出版,機械,自動車),リヨンサンテティエンヌ(絹織物,機械,化学,鉄鋼),マルセイユ(化学,造船),トゥールーズ(航空機)など。工業では中小企業が多いのが一つの特徴である。鉄,石炭,石油・天然ガス,ボーキサイトなどの資源がある。原子力発電炉を60基近く持ち,原発依存度が高く,原発プラントの海外輸出を積極的に推進する原発大国である。2011年3月の福島第一原発の大事故の際に,サルコジ大統領は,世界最大の原子力複合企業アレバの代表をともなって来任,積極的な支援を日本に申し出ている。他方,EU最大の農業国でもあり,耕地面積は全土の約36%。農業の中心はパリ盆地,アキテーヌ盆地で,小麦,大麦,エンバク,トウモロコシ,ジャガイモ,テンサイの産が多い。ノルマンディーを中心に牛,馬,羊の牧畜も盛んで,チーズの産が知られる。シャンパーニュボルドーを中心にブドウ栽培が行われ,ブドウ酒の生産では世界屈指。EU諸国中でもドイツとの貿易が多く,鉄鉱,織物,ブドウ酒を輸出,石炭,羊毛,綿花などを輸入する。1999年のユーロ圏発足に参加している。〔行政・軍事〕 行政は中央集権的で,全国は96の県(デパルトマン)に分けられている。裁判所の制度では行政裁判所と司法裁判所が別個の系統で独立している。義務兵役制で,陸海空あわせて26万人(2005)の兵力をもつ。北大西洋条約機構(NATO)に加盟。独自の核兵器を装備している。1992年からドイツ,フランスの合意にもとづいて〈欧州軍団〉を発足させ,ベルギー,スペインなども参加している。義務教育は10年間。〔政治・経済〕 1958年第五共和政憲法制定。元首は大統領(直接普通選挙で選出,任期は7年であったが,2000年9月に行われた国民投票の結果,5年に短縮された。任期7年はシラク大統領まで),国会は国民議会(定数577,任期5年,小選挙区制の直接選挙で選出)と上院(定数321,任期9年,間接選挙で選出)の二院制。第2次大戦後,第四共和政下では議会の権限が強く,小党派が分立,政権の交代がひんぱんで,インドシナやアルジェリアの植民地独立運動に十分対処できなかった。第五共和政では大統領の権限が強化され,ド・ゴールの下に結集した新共和国連合が第1党となり,政局は比較的安定,ヨーロッパ中心の独自の外交政策を展開した。1969年ド・ゴールが退陣,その政策を継承したポンピドゥーの死(1974年)によってド・ゴール体制は終わった。後任のジスカール・デスタン(共和党)は,対外的にはヨーロッパの結束の中で主導権を確保する発想へと転換した。1981年の大統領選挙ではフランス社会党ミッテランが当選し,1988年再選された。1995年の大統領選挙ではド・ゴール派の流れをくむ保守・中道のシラクが勝利したが,1997年総選挙では社会党が勝ちジョスパン内閣が発足し,保革共存政権が生まれた。この間1980年代以降,外国人労働者排斥をかかげる極右政党の国民戦線(1972年結成)が勢力を伸ばした。2002年総選挙で保守・中道連合が勝利し,保革共存政権は解消した。2002年11月,右派が結集して民衆運動連合(UMP。シラク大統領の支持母体)を結成。2007年の大統領選挙では,国民運動連合党首のサルコジが当選し,初の戦後生れの指導者となった。2008年米国金融危機に端を発する世界同時不況で大きな打撃を受け失業率も急増,サルコジ政権は260億ユーロの経済活性化対策を発表。さらに2009年26億ユーロに及ぶ所得減税策を打ち出すなど,不況克服対策に追われた。その結果財政赤字が再び増加傾向となり,EU基準値を超え,欧州委員会から財政立て直しの勧告を受けた。2010年ギリシアの財政破綻に端を発する,欧州信用不安,ユーロ危機ソブリンリスクでは,サルコジはドイツのメルケルと協調して,EU,IMFによるギリシア支援を主導し,緊縮財政を進めたが,2012年5月の大統領選挙で雇用創出,富裕層への課税強化など格差解消の中道左派政策をかかげる社会党のオランドがサルコジとの決戦投票で勝利し,17年ぶりに左派の大統領となった。オランドはユーロ危機・欧州債務問題のなか,ドイツを中心にEUが進める財政再建に協調路線をとりながら,財政赤字削減の推進と,EUレベルにおける緊縮政策一辺倒でなく成長戦略の重要性を訴え,各国で一定の共通認識を得ることに成功した。発足当初は上下両院で左派が過半数を占め,安定した政権運営を実現したが,景気回復の遅れ,失業率の高止まり等から支持率が低迷し,2014年の市町村議会議員選,欧州議会議員選,上院議員選,2015年の県議会議員選のいずれにおいても与党が大敗した。2014年4月にオランドはエロー首相を更迭,バルス内相を首相に任命した。バルス首相は公的歳出の削減や雇用創出の推進,減税などを打ち出すと表明,公約実現に向けた取組みが進められたが,政権運営の先行きは依然として不透明なままである。法案の最終議決権を有する下院では今なお与党が絶対過半数を上回る議席を有しているが,政権発足当初に連立を組んでいたヨーロッパ・エコロジー=緑の党(環境政党)が2014年4月以降閣外協力に転じ,現在も連立政権を構成するのは急進左派党(中道左派)のみとなっているほか,与党社会党内でも造反機運がくすぶるなど,政権基盤は徐々に不安定化している。経済政策においては,労働コストの削減と企業の雇用創出義務を両軸とする〈責任協定〉を打ち出し,経済成長を重視する一方,歳出削減による財政再建路線を堅持,2017年の財政収支目標達成(一般政府財政収支対GDP比マイナス3%以内)を目指している。2014年1月には企業の社会保険料負担軽減が発表されるなど,労働コスト削減による企業の競争力回復を主眼とする経済政策(〈責任協定〉)を実施。財政収支については改善が見られているが,2015年〜2017年には累計500億ユーロの歳出削減が予定されているものの,成長鈍化と低インフレ状況から,2015年予算法では財政収支対GDP比マイナス3%以内という目標の達成を2015年から2017年に延期した。失業率は依然10%をこえ高い水準である。2015年1月には〈成長と活動のための法律案〉(通称〈マクロン法〉)を国会に提出し,より市場競争を重視する改革を志向している。外交・軍事では,国内の低迷する経済状況をも踏まえ,輸出促進・対仏投資誘致を目指して〈経済外交〉を推進する一方,2013年1月,西アフリカ・マリの暫定政府の要請を受けてイスラム武装勢力を攻撃,空爆を中心に軍事介入を実行した。2015年1月,パリで,週刊新聞シャルリー・エブドの事務所がアルジェリア系フランス人のジハード主義者に襲撃され,さらに連続して警官襲撃,ユダヤ食品スーパー襲撃と多数の死傷者を出すテロ事件が起こった。犠牲者の追悼と〈言論表現の自由〉を擁護するための大行進がフランス各地で行われ,各国首脳を含む370万以上の人々が参加した。
→関連項目アルベールビルオリンピック(1992年)アンドラオランジュグルノーブルオリンピック(1968年)サンテミリオンシャモニー・モンブランオリンピック(1924年)パリオリンピック(1900年)パリオリンピック(1924年)反格差社会運動

フランス

フランスの作家。本名アナトール・フランソア・ティボー。高踏派詩人として出発したが,1881年小説《シルベストル・ボナールの罪》で名声を確立した。《鳥料理レーヌ・ペドーク亭》《ジェローム・コアニャール氏の意見》などの小説は,博識と懐疑主義,平明軽妙な文体を特徴とする。一方《タン》紙に文芸批評を連載,印象批評の雄とされる。これは《文学生活》に収められた。ドレフュス事件を機に社会主義に傾き,4部作《現代史》,《クランクビーユ》《神々は渇く》などを発表。短編も多い。1921年ノーベル文学賞受賞。
→関連項目ルメートル

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旺文社世界史事典 三訂版 「フランス」の解説

フランス
France 原名 La République Francaise

ヨーロッパ中西部にあり,北部・西部は大西洋に,南東部は地中海に面する共和国。首都パリ
国名はフランク(Frank)王国に由来する。前2世紀に先住のケルト人を平定してローマ人が属州(プロヴィンキア)のガリアを経営したが,5世紀にゲルマン人の大移動の結果,フランク王国が形成された。カール1世(大帝)の死後,ヴェルダン条約(843)・メルセン条約(870)によって西フランク王国となった。カペー朝(987〜1328)の時代には封建制度が発展したが,次のヴァロワ朝(1328〜1589)の時代には百年戦争(1338〜1453)に勝って中央集権化が促進され,フランソワ1世の時代にはフランス−ルネサンスの盛時を迎えた。宗教争乱を収拾して成立したブルボン朝(1589〜1830)は絶対主義の基礎を固め,ルイ14世の親政期はその全盛時代であった。しかし,アンシャン−レジーム(旧制度)に対する市民階級の不満が高まり,1789年フランス革命が勃発,立憲王政から共和政(第一共和政)へと移行した。1804年のナポレオン1世の第一帝政をへて,14年にブルボン朝が復活したが,その反動政治は1830年の七月革命によって倒れ,1848年には二月革命で第二共和政が成立した。やがて独裁権を握って第二帝政をしいたナポレオン3世は普仏 (ふふつ) 戦争に敗れて退位し,第三共和政(1870〜1940)が成立した。三国協商を結んでドイツ・オーストリアを破った第一次世界大戦後の政局は左右にゆれたが,第二次世界大戦では国土の大部分をナチス−ドイツに占領され,戦後,第四共和政が成立した。さらに,インドシナ・アルジェリア植民地では民族運動が高まり,政局は不安定となったが,事態を収拾したド=ゴールにより,1958年に第五共和政が成立した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「フランス」の解説

フランス

ヨーロッパ西部に位置する国。漢字表記は仏蘭西。カペー朝以来王朝支配が続き,ブルボン朝では絶対王政の全盛期を迎えたが,1789年のフランス革命後に第1共和政が成立した。フランスを訪れた最初の日本人は1615年(元和元)の支倉常長一行,最初の来日フランス人は36年(寛永13)に密入国したギヨーム・クールテ神父。1858年(安政5)ナポレオン3世(第2帝政)は全権公使グロを派遣して日仏修好通商条約を締結。64年(元治元)赴任の2代目公使レオン・ロッシュは江戸幕府を支援して横須賀製鉄所や横浜仏語伝習所を建設。67年(慶応3)フランス軍事顧問団が来日。同年パリ万国博覧会に徳川昭武が将軍名代として赴くが,その前後からジャポニスムがフランス芸術に大きな影響を与えた。明治期以降は岩倉遣欧使節団の訪問,自由民権論へのフランス啓蒙思想の影響,法律顧問ボアソナードの法典編纂,日清戦争後の三国干渉などの関係をもった。交流の中心はとくに文学・思想・教育・絵画・演劇など文化面にあり,日本に与えた影響は計り知れない。太平洋戦争直前には日本軍がフランス領インドシナへ進駐。第2次大戦で本国はドイツに占領されたが,戦後ド・ゴールの政府が成立,第4共和政が発足した。1951年サンフランシスコ講和条約に調印。58年から第5共和政。正式国名はフランス共和国。首都パリ。

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デジタル大辞泉プラス 「フランス」の解説

フランス

ポピー製紙が販売するトイレットペーパーの商品名。古紙を使用。シングル、個包装。

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世界大百科事典(旧版)内のフランスの言及

【ナシオン】より

…フランス語で民族・国民・国家を意味し,フランス共和国と関連した形で,国家ないし国民を指す場合に使う。〈ナシオン〉は,〈自由・平等・博愛〉という政治的理念を共有する人々による契約共同体ないしは合意共同体という性格が強く,そこでは人種・民族や血統は二義的な重要性しかもたない。…

※「フランス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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