ロンドン(英語表記)London

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精選版 日本国語大辞典 「ロンドン」の意味・読み・例文・類語

ロンドン

(Jack London ジャック━) アメリカの小説家。環境の生物に与える不可抗力、野性と暴力の世界などを描いた。代表作「野性の呼び声」「白い牙」など。(一八七六‐一九一六

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デジタル大辞泉 「ロンドン」の意味・読み・例文・類語

ロンドン【London】[曲名]

ハイドンの交響曲第104番ニ長調の通称。1795年作曲。全4楽章。ロンドン交響曲の一。ハイドンが作曲した最後の交響曲であり、古典派交響曲の代表作として知られる。

ロンドン(Jack London)

[1876~1916]米国の小説家。野性をテーマに動物を主人公とした作品や、社会小説を書いた。作「荒野の呼び声」「白い牙」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「ロンドン」の意味・わかりやすい解説

ロンドン
London

イギリス,イングランド南東部にある同国の首都。ニューヨーク,東京などと並ぶ世界最大の都市の一つで,国際的な政治,経済,文化の中心地である。かつての大英帝国,現在のイギリス連邦の中心でもあり,近代においてはしばしば国際会議,国際条約締結の舞台となった。地名はケルト語で〈荒れた〉を意味するロンドlondoに由来し,ローマ時代にはロンディニウムLondiniumまたはロンディニオンLondinionと呼ばれた。日本では〈倫敦〉と表記することもある。行政上の市域にあたるグレーター・ロンドンの面積は1579km2,人口は717万(2001)で,その中心のシティ・オブ・ロンドン(略称シティ)のほか,1888年設定のカウンティ・オブ・ロンドンの範囲を指すインナー・ロンドン(13区),旧ミドルセックス州全部およびハーフォードシャー,エセックス,ケント,サリー各州の一部から形成されたアウター・ロンドン(19区)の合計32のバラborough(区)から構成される。

北海に注ぐエスチュアリー(三角江)の河口から約64kmさかのぼったテムズ川の下流南北両岸にまたがり,中心部は北緯51°30′に位置する。地質的には北西をチルターン,南をノース・ダウンズという二つのチョーク層丘陵に囲まれた向斜構造のロンドン盆地底部にあり,地表はロンドン粘土層と呼ばれる重粘土質土壌で覆われる。シティなど都心部はテムズ川の砂礫段丘上を占め,テムズ河畔には低湿なはんらん原が広がる。こうした地形のため,初期の集落は高燥な砂礫段丘上に形成され,また砂礫段丘がテムズ川の両岸近くまで舌状に張り出した地点が渡河に有利なため,そこにロンドン最初の橋であるロンドン橋が建造された。市内を東西に貫流するテムズ川は川幅180~270mに達し,潮汐限界点にあたるため河港としての機能が大きい。かつてはウォールブルック川,フリート川などの支流が市内からテムズ川に流入していたが,現在は暗きょ化されている。

 気候は高緯度にもかかわらずメキシコ湾流の影響で温和である。年平均気温は10.5℃。最暖月(7月)は17.6℃と冷涼であるが,最寒月(1月)は4.2℃で,年較差が小さい。これに対して年降水量は594mmと東京の約5分の2程度で,季節的な変化も少ない。ただ降雨日数は年間168日と多く,湿度も高い。冬季の濃霧は有名であるが,かつてのスモッグは1956年の大気浄化法制定以後,石炭使用が規制され激減した。

イギリス経済の相対的低下にもかかわらず,ロンドンは依然としてイギリス連邦,ヨーロッパ共同体はじめ世界の経済中心としての地位を保持している。とくに貿易,金融面での影響力は強く,シティには1694年設立のイングランド銀行をはじめ,株式・為替・商品の各取引所,保険会社,商社が集中して,その動向は国際的に注目されている。またロンドン自体が巨大な消費市場であるため,商業活動も活発である。スミスフィールドの肉市,スピタルフィールズ,およびコベント・ガーデンから移設されたナイン・エルムズの両青物市などの伝統的な卸売市場のほか,ウェスト・エンドのリージェント街,ボンド街,オックスフォード街が高級ショッピング街として名高い。ロンドンは工業都市としても重要であり,ウェスト・エンドやイースト・エンドには衣服,宝石などの小規模な消費財工業が,テムズ川下流沿岸にはセメント,精糖,自動車,造船などの重工業がそれぞれ立地する。また周辺のアウター・ロンドン,外周部のニュータウンにも,航空機,電気機械,出版・印刷,食品などの新しい工業地域が形成されつつある。

ロンドンは国内交通およびヨーロッパ大陸との連絡交通の要衝を占めている。都心には大陸へ通じるビクトリア駅をはじめ北部地方へのユーストン駅,キングズ・クロス駅,西部へのパディントン駅,東部へのリバプール・ストリート駅,南部へのウォータールー駅などの国鉄の始発駅が環状に配列され,それらを地下鉄が結んでいる。また国際空港としては都心より西方24kmにあるヒースロー空港が主役であり,南方43kmにあるガトウィック空港がそれを補っているが,混雑緩和のため第3の国際空港の建設が計画されている。なお,1994年開通のユーロトンネルにより,ロンドン~パリ間は特急列車ユーロスターで約3時間で結ばれることになった。市内の交通機関としてはロンドン交通局の赤い2階建てバスが著名である。市内の近距離路線専用で観光用にも利用されており,郊外へは緑色のグリーン・コーチのバス路線が延びる。また黒塗りのタクシーも市民の足となっている。地下鉄は1863年に蒸気機関車で開通し,その後電化によって通称〈チューブ〉と呼ばれる地下鉄網が拡充され,現在8路線,総延長約420kmに及んでいる。ロンドン橋から下流のテムズ川沿岸に発達したロンドン港は世界有数の貿易港となっている。掘込み式で,埠頭,倉庫などの設備を有するローヤル・ドック,西インド・ドックなどのおもな三つのドック群が並び,1909年以後はロンドン港湾局の管理となって,砂糖,茶,木材,羊毛などの食品,工業原料の輸入と工業製品の輸出を行っている。

ロンドン市内には各種文化施設が多く,歴史的建造物にも富むため,国際的な文化中心ともなっている。とくに博物館,図書館,美術館が集中しており,なかでも世界各地からの文化財を収蔵する大英博物館と大英図書館が代表的である。このほかサウス・ケンジントンには自然史,科学などの博物館,シティにはロンドン博物館がある。また美術の展示ではトラファルガー広場に面するロンドン・ナショナル・ギャラリー,テムズ河畔のテート・ギャラリーが知られる。劇場やホールも多く,テムズ南岸のローヤル・フェスティバル・ホール,コベント・ガーデンのローヤル・オペラ・ハウスなどが著名である。建築物は枚挙にいとまがないが,バッキンガム宮殿セント・ジェームズ宮殿,ウェストミンスター・アベーセント・ポール大聖堂のほか,国会議事堂(イギリス国会議事堂),ロンドン塔などがロンドンを象徴する建築群である。1836年創立のロンドン大学はイギリス最大の総合大学で,市内に多くのカレッジ,研究所が分散しており,伝統あるオックスフォード,ケンブリッジ両大学に対して新しい学風を形成している。また東部郊外のグリニジにあった天文台は1884年に子午線の基準となったことで有名である。1960年代以降のロンドンはニューヨーク,パリと並ぶファッションの先端地ともなり,ミニスカート,パンク・ルックなどの新しい風俗を次々と生み出している。

大都市にもかかわらずロンドンには約8000haの公園,緑地があり,都市の緊張を緩和している。最大のリージェント・パーク(182ha)をはじめ,ハイド・パーク(146ha),ケンジントン・ガーデン(133ha),セント・ジェームズ・パーク(38ha)などがおもな公園で,これらは王室やウェストミンスター・アベーの所領が市民に開放されたものである。またグレーター・ロンドン外周部には1935年に設定された幅10~20kmの環状のグリーンベルトが取り巻き,市街地拡大を抑制すると同時に,レクリエーションにも役だっている。このグリーンベルトの外側には20世紀初期に田園都市,第2次大戦後にニュータウンが建設され,産業,人口の分散化を図っており,広域都市圏計画のモデルとなっている。このためロンドンの人口は都心から郊外へ移動しつつあり,シティでは1851年より,インナー・ロンドンでは1901年,アウター・ロンドンでは1951年よりそれぞれ人口が減少して顕著なドーナツ化現象を示している。また第2次大戦時の空襲で大きな被害を受けた都心部では大規模な再開発計画が実施されており,バービカン地区では1973年以来,高層の住宅,オフィス群,ホール,ショッピング・センターを有機的に結合した改造計画が推進された。かつてのスラム街イースト・エンドもステプニー・ポプラー計画によって労働者アパートへの転換が図られている。しかし世界の他の大都市に比べて一般に高層建築や高速道路が少なく,歴史的都市の面影を強く残している。
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中心部のロンドン(インナー・ロンドン)は,おおまかにいうとテムズ川によって北部と南部に分断され,より繁華な北部は,さらにシティを中心にその西側のウェスト・エンドと東側のイースト・エンドに大別される。シティはロンドン塔を東端とするほぼ1マイル(約1.6km)四方の土地で,イングランド銀行をはじめとする多数の銀行,王立取引所,ロンドン株式取引所,市庁官舎,セント・ポール大聖堂,ギルドホールなど主要な歴史的建造物が集中している。第1次大戦後,シティの世界金融市場に対する支配力は弱まったが,今でもこの地は世界有数の金融・保険・商取引の中心地である。シティの東端ロンドン塔から東方は,タワー・ハムレッツなど,いわゆるイースト・エンドのドック地帯となり,港としてのロンドンの機能を担っている。歴史的には港湾労働者を中心とするスラム街ともなっていたので,トインビー・ホールのようなスラム改良運動のセツルメントも認められる。セント・ポール大聖堂から,1980年代半ばまでは各新聞社の社屋が立ち並んだフリート街を西へ進むと,道路の名称がストランドと変わるあたりに,テンプル・バーの跡がある。ここにかつてシティ西端の市門があって,そこから西がウェスト・エンドである。ウェスト・エンドでは多様な性格の地域が入りまじっているが,リンカンズ・イン・フィールズなどの高級住宅街,ソーホーを中心とする歓楽街,セルフリッジ,リバティーなどのデパートや著名な商店の並ぶオックスフォード街,リージェント街,ピカデリーなど,またオックスフォード街の北部に広がる大英博物館やロンドン大学などのある文教地区(知識人が蝟集(いしゆう)したスクエアの名をとって,ブルームズベリー地区と総称することもある)などがある。さらに南西へ行くと政治の中心地ウェストミンスターの中心部に入り,国会議事堂やバッキンガム宮殿のほか,ハイド・パーク,グリーン・パークなどの公園が広がり,北方にはロンドン動物園を含むリージェント・パークがある。この公園の北辺に沿ってリージェント運河があり,遠く中部イングランドへ続くグランド・ユニオン運河につながっている。ハイド・パークの西にはケンジントン・ガーデンとケンジントン宮殿があり,南にはコンサート・ホールのローヤル・アルバート・ホールがある。さらに南へ下ってテムズ川に近づくと,高級住宅街として知られ,T.カーライルの家などのあるチェルシーがある。ただし,この地区の中央を斜めに貫くキングズ・ロードは,かつてヒッピーが,そして今日ではパンク・ルックの若者が集まる通りとして知られている。

グレーター・ロンドン地域の行政機構にあたるグレーター・ロンドン・カウンシル(略称GLC)は,1965年に首都行政機構改革の一環として成立し,20年にわたって広域自治体として機能してきた。サッチャー保守党政権の下で,労働党の支配する大都市自治体の〈浪費〉として批判され,86年に廃止されたが,広域行政の一典型とされてきた(〈イギリス〉の[国政の概略]の項を参照)。GLCは4年任期の92人の議員によって構成され,長期の大規模な開発,交通,下水道,消防などの行政責任を負っていた。GLCの先駆となったのは,1888年に地方行政法で創設されたロンドン・カウンティ・カウンシル(略称LCC)であった。LCCは,カウンティ・オブ・ロンドン(1961年時点で303km2,人口320万)を管轄下に置き,下水道,建築規制,住宅供給,消防,交通などを担当した。この組織は直接市民によって選出されるようになった最初の首都当局で,3年任期の126人の議員とそこで選出される6年任期,21人の参事会員によって構成されていた。テムズ川に二つのトンネルをつくり,1904年以後は教育行政についても責任を負った。

 LCC成立前には,1855年の首都運営法で成立した首都事業委員会Metropolitan Board of Worksが,市政の中心になっていた。ロンドンの下水道システムの基本を確立し,テムズ北岸のビクトリア・エンバンクメント(堤防)などをつくったこの組織は,のちのカウンティ・オブ・ロンドンのほぼ全域を管轄地域とする最初の行政組織で,主要教区会議の代表などからなる38人の議員が構成した。首都事業委員会成立以前には,広義のロンドン(シティの城壁を越えて開発されていった地域全体)を統括する行政組織は存在せず,伝統的なシティの当局が最も重要な行政機構となっていた。実権を握っていたのは市参事会Court of Aldermenで,ほかに市議会があり,日常業務はシェリフたちが担当した(マンション・ハウスを公邸とした市長は,現在に至るまで1年任期で,名誉職的存在である)。市参事会員は各区wardの自由市民(一定の徒弟期間を終えた職人,市民権を金で買い取った者など)によって選ばれる終身職で,同時に治安判事をも兼ねていた。さらに,有力ギルドはすべて彼らの管轄下に置かれていた。

43年,ローマ皇帝クラウディウス1世はブリタニアを征服,テムズ川の北岸に植民地ロンディニウムを建設した。これがシティの始まりである。まもなく,ロンドン橋が架橋され,ローマ人によるグレート・ブリテン島支配のための道路網(ウォトリング街道など)の中心,および港として,この集落はきわめて重要になってゆく。諸説があるが,2世紀末くらいまでには市壁も建設されたと思われる。5世紀初めには,ローマの軍団が引き揚げ,アングロ・サクソン人がこの地を支配するようになる。7世紀初めには,セント・ポール大聖堂が設立されたが,宗教的にはカンタベリーが中心になったため,ロンドンはこの面でだけは後塵を拝することになる。アングロ・サクソン時代末期にあたる11世紀には,すでに20人の金融業者が営業していたといわれるほど,港を中心とする経済活動が活発になった。また,同じころ,西南部郊外のウェストミンスターに宮殿と修道院がつくられ,政治の中心としてロンドンが発達する素地がつくられた。ただし,この時代にはなお,国王は絶えず国内を移動していたので,ロンドンが首都だという意識はなかったといわれる。

 1066年にイギリスを征服したウィリアム1世(征服王)は,ただちにウェストミンスター・アベーで即位,ロンドンの支配と防衛のためにホワイト・タワー(のちのロンドン塔)を築き,王権とロンドンとの結合を強めた。ロンドンが首都とみなされ始めたのである。12世紀末には,126の教会と13の修道院を数え,すでに市壁外に開発が進んでいた。馬の競売や競馬,熊いじめなどのレジャーも行われ,都市の生活文化が定着してもいた。ヘンリー1世治下の12世紀初め,シティはいくつかの区に分けられ,それぞれが参事会員つまり治安判事の管轄区ともなった。ロンドンの自治権はこのころになって事実上成立したと考えられる。ギルドも次々と成立し,最初のギルドホールも建てられた。貿易の拡大はめざましく,主としてケルンなどのドイツ商人,さらにのちにはフランドルやイタリアの商人などが来訪した。ついでスティーブン・マティルダ内乱時代(1135-53)やジョン欠地王(在位1199-1216)の時代に,ロンドンは一方で市参事会や市長選出などの制度を整えて自治権を確立し,他方では,国政に対しても強い発言権をもつに至った。以後,14~15世紀にはウェストミンスター地区を中心に宮廷,議会,法廷など主要な政治機構が置かれ(議会もエドワード懺悔王(在位1042-66)時代につくられたウェストミンスター宮殿で開かれた),政治の中心舞台となった。1381年のワット・タイラーの乱や1450年のジャック・ケードの乱などに際しても,ロンドン市の態度が国政の行方を決定した(この傾向はのちのピューリタン革命に至って頂点を迎える)。また,新型のギルドであるリバリド・カンパニーが勃興し,とくに有力な12組合が13世紀中ごろ以降,市政を牛耳ると同時に,徒弟制度を監督するなど市民生活にも決定的な力をもつようになる。これらの組合は,圧倒的な経済力を利用して,救貧活動や教育にも貢献し,市内にもセント・ポール校などいくつかのパブリック・スクールを創設,グレーズ・インなど14~15世紀に相次いで成立した四つの法曹学院(インズ・オブ・コート)とともに,ロンドンが教育の一中心にもなってゆく前提を築いた。14~15世紀は,イギリスが羊毛輸出国から毛織物輸出国に転換した時代であるが,この変化に対応して,北西ヨーロッパへの毛織物輸出の独占権を握った冒険商人組合(マーチャント・アドベンチャラーズ)が有力となり,16世紀には市政ばかりか国政にも大きな影響力をもつに至る。

ヘンリー8世の宗教改革に伴って,1536年と39年に行われた修道院解散は,イギリスの社会,経済に大きな変化をもたらしたが,ロンドンでも多くの修道院が世俗の目的に転用され,ロンドン大発展の前提となった。16世紀前半には,上記冒険商人組合を軸とするアントワープ向け毛織物輸出が激増し,〈ロンドン=アントワープ枢軸〉とさえ呼ばれる関係が成立したが,ロンドンの貿易の発展は地方港を犠牲にした一面があり,以後,産業革命前夜に至るまでのロンドンと地方都市の利害対立の原形も生じた。16世紀後半になると,為替変動やネーデルラント独立戦争のあおりで,アントワープ市場が崩壊したため,モスコー会社(別名ロシア会社,1555年設立),トルコ会社(1581年設立,92年レバント会社に改組)など新しい貿易会社がいずれもロンドンに成立,1600年には東インド会社も創設された(カンパニー制度)。17世紀前半のロンドン市政は,主としてこれら東方遠隔地との貿易に従事した商人たちによって担われる。この間にもロンドンは,ジェームズ1世をして〈いまにイギリス全体を飲み込むだろう〉と言わしめるほどの発展,繁栄ぶりを示し,1568年にT.グレシャムが創立した王立取引所が経済繁栄のシンボルとなった。16世紀末以降,しだいに地方の地主貴族,ジェントリー(ジェントルマン)がロンドンに滞在して社交生活を送る〈ロンドン・シーズン〉(ほぼ5~7月)の風習も生まれ,ルネサンスの潮流にも乗って,観光や文化の中心ともなった。王の猟場であったハイド・パークが一般に公開され,社交場の一つになったのも,シェークスピアやベン・ジョンソンの芝居がしきりに上演されたのも,また絹工業や陶器業,ガラス工業などの奢侈品工業が市内に成立したのも,このような繁栄を背景にしてのことである。こうした傾向はいずれも,17世紀後半になると,とくに爆発的に展開する。他方,華やかな16~17世紀のロンドンは,貧困と犯罪の巣ともなっていったから,全国に先がけて1547年,救貧税を設定,セント・バーソロミューなど五つの王立病院もつくられた。郊外地の人口密度が高くなり,17世紀初頭で城壁内人口7.5万に対して,城壁外人口は15万と推定される。ロンドン橋を渡ったテムズ南岸のサザークもこのころから本格的に開発され,イギリス南部への交通の起点となった。しかし,それ以上に西部(ウェスト・エンド)が法曹学院のあるリンカンズ・イン・フィールズを中心に,〈ロンドン・シーズン〉などで上京する地方の貴族,ジェントリーのためのマンション地帯として開発された。他方,東部郊外(いわゆるイースト・エンド)のホワイトチャペルやウォッピング地区にもしだいに人が住みつき,すでにスラム化の傾向を示していた。エリザベス朝後期から王室財政が悪化するにつれて,ロンドン商人による王室への金融が盛んになるなど,絶対王政との癒着を示す一面もあったが,他方では,船舶税問題などをきっかけとして,ピューリタン革命期にはロンドン商人層が議会派の中心勢力の一つともなったし,さらに,王政復古(1660)でも彼らはむしろ中心的な役割を果たしている。シティの立場は,特定のイデオロギーや体制に固執するのではなく,つねに安定した政府を希求するものであった,といえよう。いずれにせよ,革命中から王政復古期にかけて生起した,航海諸法の制定や東インド会社改組(1657),第1次対オランダ戦争での勝利などの諸事件は,ロンドン商人の勢力を急速に拡大させた。1660年のロンドンは人口がほぼ50万でヨーロッパ随一の都市となったが,イギリスでは2位のブリストルが人口約3万であったから,その圧倒的大きさがわかろう。

王政復古後まもなく,ロンドン史の大転換点となる事件が二つ起こった。1665年のペストの大流行と翌年9月のロンドン大火とである。ペストは春に大流行し,ピーク時には週7000人,全体では10万人が死んだといわれ,富裕者層はいっせいに市外に逃げ出した。大火はプディング・レーンのパン屋から出火,シティ西端を除き,市域の5分の4が焼けおちた。王立取引所,税関,市庁舎,各ギルドの44ホール,セント・ポール大聖堂,87の教区教会などが焼失した。しかし,この事件はロンドン再開発のかっこうの機会ともなり,一種の復興ブームが到来し,建築家C.レンの設計に従って,街並みやセント・ポール大聖堂をはじめ各種施設が復興した。とくに,火災再発予防の見地から木造建築が禁止されたために,ロンドンの外観は一変した。

 王政復古期には,新しい航海法が制定され,奴隷貿易のための王立アフリカ会社が設立されて,第2次・第3次対オランダ戦争にも勝利した結果,イギリスの貿易はヨーロッパ外の地域とのそれを中心に,爆発的に成長した。〈商業革命〉の名で呼ばれるこの現象は,ロンドンの圧倒的な繁栄を生み,茶,タバコ,砂糖,チョコレート,綿布,絹などエキゾティックな商品の大量の流入ともあいまって,伝統的な農村的,ジェントルマン的な文化と区別しうる近代的,市民的な生活文化がこの地に成立した。そうした文化の核になったのが,この時代に急激に発展したコーヒー・ハウス(喫茶店)である。最盛期にはロンドンだけで数千軒を数えたコーヒー・ハウスでは,文学,芸術,科学,政治,経済などの諸問題について,情報や意見が交換された。この新しい生活文化は,やはりこの時代に急速に確立したロンドンのインinn(宿屋)と地方のインとを結ぶ定期馬車便のルートなどに沿って,地方都市にも普及した。馬車旅行が容易になると,ロンドンと地方の人的交流も盛んになり,ロンドンの人口はますます増大した。従来の家畜市場のスミスフィールドや魚市場のビリングズゲートに加えて,コベント・ガーデンやスピタルフィールズに青果市場が成立したのはその反映である。

 1688年の名誉革命では,ロンドン市民の国政への発言権がいっそう強まった。94年には国債発行のための機関としてイングランド銀行が成立,シティが世界の金融市場の核となってゆく素地が築かれた。貿易と金融を軸として繁栄した18世紀のロンドンでは,中・下層市民による急進主義的な運動も展開され,ジョン・ウィルクス(ウィルクス事件)がその指導者となった。文化的には〈ロンドン・シーズン〉の習慣がいっそう定着し,ジェントルマンや上流市民の社交場としてラニラ・ガーデンやボクスホール・ガーデンのような社交公園が栄えた。S.ジョンソン博士を中心に文壇といえるものも成立,W.ホガースらの画家もその周辺に位置した。ウェスト・エンドを中心に劇場も増え,D.ギャリックのような人気俳優も出現した。この間にもメリルボーン,イズリングトン,ベスナル・グリーンなど郊外地が次々と開発され,人口増加が続いた。テムズ川にも第2の橋ウェストミンスター橋が1750年に架けられ,1769年にはブラックフライアーズ橋が建設された。汚れの激しくなったフリート川が暗きょ化され,市門が取り外されたのもこのころである。

ランカシャーやミッドランズを中心に産業革命が進行していった18世紀末から19世紀初頭にかけて,ロンドンではむしろ従来存在した製造工業の多くが失われたが,政治や,金融・商業などの第3次産業の分野では,イギリス全体が世界経済の中心になってゆくのに伴って,その重要性をいっそう高める。こうした経済的性格の転換に対応して,たとえば貿易のための港湾施設の整備が進められ,19世紀初頭西インド・ドック,サリー・ドック,東インド・ドックなどが相次いで建設された。これらのドックに働く労働者は,ロンドンに特有の苦汗労働の典型とされる〈針子〉などと並んで,下層住民層の中心を形成,1889年には大ストライキを行って,労働運動史に転機をもたらした。いずれにせよ,19世紀中に市街化地域の人口は6倍以上になったと推定される。その分だけ住宅,上・下水道,公害,交通,犯罪,福祉,教育などの問題が深刻化し,冒頭に略述した行政機構がほぼこうした問題への対処をおもな任務として次々と成立したのである。

 1780年のゴードン暴動をはじめ,暴動も多くなってきたのに対応して,85年には治安判事フィールディング兄弟以来の夜警制度に加えて昼間の警察制度がつくられ,1829年に至って首都警察(スコットランド・ヤード)が本格的に形成された。ガス灯も1810年以降急速に普及し,首都事業委員会による下水道の整備も行われた。ユニバーシティ(1826設立),キングズ(1828)両カレッジなどを核としてロンドン大学が創設されたのは,1836年である。ロンドンの主要な鉄道駅は,ブラックフライアーズとメリルボーンを別にして,ほとんどが1836年から70年代までの間に建設された。すなわち,1836年のロンドン・ブリッジ駅に次いで38年にはバーミンガムへ通じるユーストン駅がつくられた。また,63年には,パディントン駅からファリンドン・ストリートまで,世界最初の地下鉄道メトロポリタン鉄道が開通した。

 大英帝国が繁栄の頂点にあったビクトリア時代を象徴して,1851年には万国博覧会がハイド・パーク(クリスタル・パレス)で開かれ,内外から600万人が見物に訪れた。公園,美術館,博物館などの整備は,すでに18世紀から進んでおり,1759年には大英博物館(現在の建物は1847年に完成)が創設された。1857年にはビクトリア・アンド・アルバート美術館が完成した。1829-41年にはトラファルガー広場が整備され,1838年にロンドン・ナショナル・ギャラリーが創設された。ビクトリア時代のロンドンは,世界最大の都市として繁栄したが,1837年に完成したバッキンガム宮殿やその近傍に集中する上流人士のクラブ・ハウス群などに象徴される一面と,パブや〈切裂きジャック〉事件に象徴されるような,民衆文化,貧困と犯罪,売春などの世界との二面性を色濃く示した。

20世紀に入ると,シティのビジネス街をはじめ,中心部のロンドンでは定住人口が減少に転じ,ドーナツ化現象が進行した。1951年以降はグレーター・ロンドンの範囲についても,人口減少が続いている。しかし,少なくともそれ以前にはグレーター・ロンドンの範囲では人口増加が続き,開発に伴う諸問題(交通,住宅,上・下水道など)が深刻化した。また,両次大戦の被害も大きく,人的被害だけでも,第1次大戦で2632人,第2次大戦では3万人が空襲によって死亡した。第2次大戦以後は,旧植民地出身の入移民(19世紀以来のアイルランド人のほか,西インド諸島系黒人,インド人,パキスタン人,香港系中国人など)が多数住みつき,人種のるつぼの観を呈するとともに,人種問題が他の社会問題と絡まって,差し迫った問題となっている。
執筆者:


ロンドン
Jack London
生没年:1876-1916

アメリカの小説家。サンフランシスコで,占星術師の私生児として生まれたとされる。青少年時代を無頼と放浪のうちに過ごし,カリフォルニア大学に1学期在籍,その前後にスペンサー,ダーウィン,マルクス,ニーチェ等を愛読,特に社会主義の影響を受けた。その後アラスカのゴールドラッシュに加わり,その経験を素材にした9編の短編小説は《狼の子》(1900)にまとめられ,好評を博した。ロンドンのスラム街の調査,日露戦争等の特派員活動にも従事。アラスカの大自然の中で野性に目覚めていく犬を主人公にした《荒野の叫び声》(1903。初訳は堺利彦による),それと逆の過程を扱う《白い牙》(1906),ニーチェ流超人思想を反映した《海狼》(1904),資本主義の未来を描く《鉄の踵》(1907),半自伝的な《マーティン・イーデン》(1909)等,人気作家として,数多くのロマンティックで自然主義的な作品を書いたが,自己の本性と信条の葛藤に悩み,自殺した。
執筆者:

ロンドン
Fritz London
生没年:1900-54

アメリカの物理学者。ドイツのブレスラウの生れ。ゲッティンゲン大学およびミュンヘン大学に学び,1928年よりベルリン大学私講師となる。33年ヒトラー政権に追放されオックスフォード大学,ソルボンヌ大学で研究,39年アメリカに渡る。以後デューク大学理論化学教授。初期の研究では量子力学によって化学結合やファン・デル・ワールス力を解明することに力を注いだ。とくに27年ハイトラーW.Heitler(1904-81)とともに行った水素の分子構造についての量子力学的研究(ハイトラー=ロンドンの理論)は量子力学の化学への導入に先鞭をつけるものであった。その後極低温の研究に着手し,超伝導に関する現象論的な式(ロンドンの方程式,1935)や液体ヘリウムの超流動に関するロンドンの関係式(1938)を提案した。主著には《量子論と化学結合》(1928)など。
執筆者:

ロンドン
London

カナダ,オンタリオ州の都市。大都市域人口46万4304(2005)。肥沃なオンタリオ半島の中央部にあり,酪農製品,トウモロコシ,果物などの集散地。トロントとデトロイトの中間に位置して,交通の要地となり商工業も発達している。1826年,この地を流れるテムズ川のほとりにイギリス人が町を建設,市名をイギリスのロンドンにちなんで命名した。市内にもロンドンに由来する地名が多い。このほかオンタリオ州南部には,エーボン川があり,そのほとりには(カナダ)シェークスピア劇場のあるストラトフォードと呼ばれる町があるなど,イギリスの影響が強い。
執筆者:

ロンドン
Cândido Mariano da Silva Rondon
生没年:1865-1958

ブラジルの探検家。マト・グロッソ州出身の職業軍人で,コントの実証主義を信奉した。25年間インディオ部落を旅して,1910年,初代のインディオ保護局長官に任ぜられた。5万km2に及ぶ地域の地図を作製し,電信網を完成させた。最近,急速に開発がすすめられているロンドニア直轄州は,彼の事業を記念して命名された所である。
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百科事典マイペディア 「ロンドン」の意味・わかりやすい解説

ロンドン

英国の首都。イングランド南東部,テムズ川両岸にまたがる同国最大の都市。中心をなすのはシティで,ほかにウェストミンスターなど12区がカウンティ・オブ・ロンドンを形成していたが,首都圏の拡大と広域行政の立場から,ミドルセックス,ケントやエセックスの一部など,ロンドン橋からほぼ半径24kmの地域までを含むグレーター・ロンドンGreater London(シティのほか32区)が1965年に形成された。この広域行政圏は1986年市議会とともにサッチャー首相によって廃止され,行政事務は各区に移管された。 英国の商工業・金融・文化・政治の中心であるだけでなく,世界の金融・保険の中心でもある。シティ,ホルボーン,フィンズベリーなどが商取引・金融地区で,ロンバード街を中心にイングランド銀行や各国金融機関の店舗が密集する。シティ西方のウェスト・エンドはウェストミンスター,ケンジントンなどからなり,バッキンガム宮殿イギリス国会議事堂,諸官庁,ピカデリー・サーカスなどの繁華街や高級商店街,高級住宅地がある。シティ東方のイースト・エンドはかつてスラム街であったが,第2次大戦の戦災を機に面目を一新,テムズ川南岸や東部は工業地区をなし,製油,製粉,セメント,機械,印刷・出版,繊維などの工業が発達している。ロンドン橋より下流のテムズ川沿岸は港湾地区をなす。ウェスト・エンドを中心に大英博物館ナショナル・ギャラリーテート・ギャラリー,テート・モダン,ウェストミンスター・アベーセント・ポール大聖堂ロンドン大学などの教育文化施設が多く,リージェント・パーク,ハイド・パーク,ケンジントン・ガーデン,グリーン・パークなどの公園がある。幹線鉄道が集結し,都心部に地下鉄が発達。その地下鉄が2005年7月,スコットランドでG8サミット開催中に同時多発テロでアル・カーイダ系とみられる組織に攻撃され,2011年8月,ロンドンで格差社会に不満を持つ若者を中心とする大きな暴動が起こったが,2012年夏期オリンピック開催を成功させ,治安安定を印象づけた。ロンドンでのオリンピック開催は64年ぶり3度目である。 古代ローマ時代テムズ川河岸の渡津として発展し,ロンディニウムLondiniumと呼ばれた。7世紀にはエセックス王国の主都。1066年ウィリアム1世が即位して以来イングランドの主都となり,12世紀末には自治が認められた。1666年大火により全市焼失したが,復興以後は国際金融の中心となり,特に産業革命後の人口の都市集中に伴い急激に規模を拡大,世界の経済・政治の最大の中心として繁栄したが,20世紀に入ってその地位をニューヨークに奪われた。817万3941人(2011,大ロンドン)。
→関連項目イギリスウェストミンスター宮殿,ウェストミンスター寺院及びセント・マーガレット教会セント・パンクラス[駅]ビクトリア[駅]ロンドンオリンピック(1908年)ロンドンオリンピック(1948年)ロンドンオリンピック(2012年)

ロンドン

ドイツ出身の米国の物理学者。ゲッティンゲン大学,ミュンヘン大学等で学び,1928年にベルリン大学私講師となったが1933年ナチス政府により追放。1939年渡米しデューク大学教授。1927年ハイトラーとともに水素分子の構造を量子力学的に論じ,化学結合に関するハイトラー=ロンドンの理論を提唱。また極低温を研究,超伝導に関するロンドンの方程式を立て,液体ヘリウムの特異性に関する一つの説明を提案した。

ロンドン

米国の作家。占星術師の私生児として生まれ,少年時代から放浪生活を送る。社会主義やニーチェに共鳴,処女短編集《狼の子》(1900年)以後も世界中を渡り歩きながら,《荒野の呼び声》《白い牙》(1906年),《海の狼》(1904年),《鉄の踵》(1907年)や評論集《階級闘争》(1905年),スラム街のルポ《奈落の人びと》(1903年),半自伝的な《マーティン・イーデン》(1909年)等を発表。自らの理想と流行作家としての生活との矛盾に悩んで自殺。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロンドン」の意味・わかりやすい解説

ロンドン
London

イギリスの首都。イングランド南東部,テムズ川の河口より約 80km上流の沿岸に位置する。43年,ローマ皇帝クラウディウス1世による征服後,湿地帯を横切る距離が最短ですむ渡河点としてテムズ川に架橋されて以来,橋頭集落ロンディニウムとして発達した。1066年,ノルマンディー公ウィリアム(ウィリアム1世)がウェストミンスター寺院でイングランド王に即位してから,イングランドの首都として発展。1664~65年疫病が大流行,1666年のロンドン大火で市街地の大半を焼失したが,エリザベス朝時代に飛躍的な発展を遂げ,17世紀には国際金融市場の中心地となった。第2次世界大戦まで大英帝国の首都として繁栄,その後大英帝国の衰退に伴って世界経済における市の重要性は低下したが,旧植民地を含むイギリス連邦の政治,経済の中心地としての,またヨーロッパ連合 EU,第三世界に対する貿易・金融上の大中心地としての地位は依然として維持し,アメリカ合衆国のニューヨーク,スイスのチューリヒと並ぶ国際金融界の大取引場として大きな影響力を及ぼしている。
タワーブリッジより下流のテムズ川の水路と,その沿岸に並ぶドック群,埠頭からなるロンドン港はイギリス最大の貿易港で,おもに食糧と工業原料を輸入,工業製品を輸出する。工業部門は,中心市街部では奢侈品,家具,衣料などの製造,テムズ川沿岸部では製粉,製糖や,石油精製,自動車製造,造船を含む重化学工業,郊外部では機械,電機などの工業が中心。炭田を背後に控えて発展したイギリスのほかの工業都市とは異なるが,膨大な労働力と消費人口を抱える,イギリス最大の工業中心地となっている。18世紀以降,急激に都市化が進み,1888年ロンドン市(シティ)を中心とした市街化地域がロンドン県となったが,その後も都市域が拡大し続けたため,1965年同県は廃止された。これに代わって郊外の住宅地を含めてグレーターロンドンというコナベーション(連接都市域)が設置された。イングランド銀行大英博物館,ウェストミンスター寺院,バッキンガム宮殿ロンドン塔イギリス国会議事堂セント・ポール大聖堂,ギルドホール,ナショナル・ギャラリー,ロンドン博物館など歴史的建造物が多い。イギリス最大の総合大学であるロンドン大学をはじめとする多数の高等教育機関がある。イギリス最大の交通中心地でもあり,全国各地からの鉄道,道路が集まり,西郊にヒースロー国際空港,南郊にガトウィック空港がある。面積 1572km2。人口 817万3941(2011)。

ロンドン
London, Jack

[生]1876.1.12. サンフランシスコ
[没]1916.11.22. カリフォルニア,グレンエレン
アメリカの小説家。本名 John Griffith London。旅回りの占星術師の子に生れ,14歳で学校をやめ,さまざまな肉体労働や放浪に明け暮れる少年時代を過し,アザラシ猟の船に乗組んで日本にも立寄った。 19歳で高校に入学,1年後には一時カリフォルニア大学に在学して,H.スペンサー,ダーウィン,マルクス,ニーチェの著作に親しんだ。 1897年カナダのユーコン地方,クロンダイクゴールド・ラッシュに加わり,この経験をもとに発表した最初の短編集『狼の子』 The Son of the Wolf (1900) で一躍認められた。同じくユーコンを舞台にした長編『野性の呼び声』 The Call of the Wild (03) ,『白い牙』 White Fang (06) ,アザラシ猟の超人的船長を描く『海の狼』 The Sea-Wolf (04) ,拳闘家の悲劇を描く『試合』 The Game (05) など,人気作を次々発表して第一線作家の地位を確立した。しかし,本能的な自己顕示欲と社会主義的立場との矛盾に苦しんで自殺した。ほかに夢物語『アダム以前』 Before Adam (06) ,未来小説『鉄の踵』 The Iron Heel (07) ,自伝的小説『マーティン・イーデン』 Martin Eden (09) ,『ジョン・バーリコン』 John Barleycorn (13) など。日露戦争のおり従軍記者として再度日本を訪れた。

ロンドン
London, Fritz Wolfgang

[生]1900.3.7. ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
[没]1954.3.30. ノースカロライナ,ダラム
ドイツ生れのアメリカの理論物理学者。ドイツ各地の大学で学び,1921年ミュンヘン大学にて哲学で学位取得。のち物理学に転向し,A.ゾンマーフェルトに学ぶ。ベルリン大学私講師 (1928) 。イギリスの帝国化学工業会社に勤め (33) ,パリ大学ポアンカレ研究所に入所 (39) 。同年渡米してデューク大学教授。 27年 W.ハイトラーとともに量子力学に基づいた水素分子の研究を行い,化学結合の量子力学的理論の基礎を築いた (→ハイトラー=ロンドンの理論 ) 。また弟 H.ロンドンとともにロンドン方程式を提出し超伝導の現象論を展開。超流動ヘリウム4に関する研究も知られている。

ロンドン
London

カナダ,オンタリオ州南東部の都市。トロントの南西 185km,エリー湖の北 34km,オンタリオ湖とセントクレア湖の中間に位置する。 1826年イギリス軍の駐屯地として開かれ,軍事都市として発展したが,53年鉄道が通じて,交通の中心としても発達。現在オンタリオ州南西部の金融,宗教,教育,軍事,工業の中心として繁栄。食品,金属,ディーゼル機関車,衣料,電機などの工業が行われる。ウェスタンオンタリオ大学 (1878) がある。人口 36万6151(2011)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ロンドン」の解説

ロンドン
London

イギリスの首都。テムズ川河口近くに建設されたローマ人の都市ロンディニウムが起源。中世において経済の中心である「シティ」と政治の中心のウェストミンスターが繋がりをみせるようになり,17世紀後半には人口50万を擁する世界最大規模の都市となった。ピューリタン革命ではその経済力で議会派を支援した。1665年と66年にはペストと大火に見舞われ,レンなどの活躍によって現在のロンドンの原型になる都市再建が図られた。行政機構の不整備もあって肥大化に歯止めがかからず,特に東部のイースト・エンドには巨大なスラム街が生まれて社会問題となり,繁栄する西部と極端な対照を示した。19世紀以降イギリスの国際的な地位を反映して,多くの国際会議がこの地で開催された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ロンドン」の解説

ロンドン
London

イギリス,イングランド南東部,テムズ川河口近くにある同国の首都
古来ケルト人が住み,古代ローマの支配下ではロンディニウム(Londinium)と呼ばれ,軍事・商業上の中心地となった。七王国時代は軍事上の拠点として栄え,ノルマン朝・プランタジネット朝時代は自治都市として発展,14世紀ごろからは羊毛・毛織物輸出の中心地として栄えた(このころ人口約5万となる)。テューダー朝時代は経済的中心となり,エリザベス女王時代は特に繁栄した。17世紀初頭の人口約20万。絶対王政期のピューリタン革命中は議会軍の中心となったが,1666年の大火でシティーの北東隅を除く全市が焼失した。ただちに復興計画がたてられ,産業革命後は世界経済の中心地となり,19世紀以来しばしば国際会議の開催地となった。第二次世界大戦中,爆撃を受けてウェストミンスター寺院・議事堂なども被害を受けた。

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化学辞典 第2版 「ロンドン」の解説

ロンドン
ロンドン
London, Fritz, Wolfgang

ドイツ生まれのアメリカの物理学者.ユダヤ系の数学教授の息子としてブレスラウに生まれる.ボン大学,フランクフルト大学,ゲッチンゲン大学,ミュンヘン大学で学んだ後,ベルリン大学で講師となった.1930~1936年オックスフォード大学,パリ大学などで研究生活を送った.1939年にアメリカに移住し,デューク大学理論化学教授となり,亡くなるまでその地位に留まった.1927年W. Heitlerとともに水素分子の共有結合の問題を,量子力学を用いて明らかにした(ハイトラー-ロンドンの理論).また,1935年には弟のH. Londonとともに,超伝導に関する現象論的なロンドンの方程式を提出した.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「ロンドン」の解説

ロンドン〔戦艦〕

《London》イギリス海軍の戦艦。フォーミダブル級の改良型であるロンドン級のネームシップ。1899年進水、1902年就役の前弩級戦艦。1919年退役。

ロンドン〔曲名〕

オーストリアの作曲家ヨーゼフ・ハイドンの交響曲第104番(1795)。原題《London》。ロンドンで作曲されたロンドン交響曲の一つ。

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世界大百科事典(旧版)内のロンドンの言及

【イギリス】より

…正式名称=グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland面積=24万4792km2人口(1996)=5848万9975人首都=ロンドンLondon(日本との時差=-9時間)主要言語=英語通貨=ポンドPoundヨーロッパ大陸の西方に位置する立憲王国。正式の国名は〈グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国〉で,〈英国〉とも呼ばれる。…

【区】より

…フランスでもパリ市に20の区arrondissementが設置され,当該区選出の市会議員,市長任命の戸籍官,市議会の選出した者からなる区委員会が,一部の地域行政を処理している。イギリスでは,1963年以来,ロンドン地区に広域自治体として大ロンドン県Greater London Councilが設けられ,その下に,ロンドン市と32の区London Boroughが設けられている。だが,これは公選の議会をもち,自治権を行使している完全自治体であり,〈区〉という日本での一般的訳語は,必ずしも正確でない。…

【地下鉄道】より

…地下鉄が建設された当初は,路面の最大輸送能力が需要に追いつけなかったための地下化であったが,近年の現象は自動車の普及による路面輸送能力の低下によるものである。地下鉄の役割には都市内交通としての面(モスクワ,ニューヨーク)と,郊外と都心を結ぶ高速大量輸送機関としての面(ローマ,ワシントン)があるが,最近は都市の広域化,近郊都市の人口増,新都市開発を反映し,郊外と都心を直接結ぶ路線が建設されている(ロンドン,パリ,東京)。
[日本の地下鉄]
 日本最初の地下鉄の開通は1927年早川徳次の東京地下鉄道会社による浅草~上野間2.2kmである。…

【乗合馬車】より

…しかしこの最初の試みは短期間で終りを告げた。 乗合馬車の本格的な営業開始は,工業化による都市人口の膨張が目だつようになった時点にあたっており,とくに他の都市に比して群を抜いた人口が集中するにいたったロンドンやパリで急速に発達した。まず1820年にロンドンで試みられ,27年にフランスのナント,次いで28年にパリに路線を経営する会社が設立された。…

【化学結合】より

…水素原子の電子軌道はHeと同様2個の電子で安定な配置になるので,2個の原子が1個ずつの電子を出し合って共有することによって結合が形成される。このことを量子論を用いて定式化したのはハイトラーWalter Heitler(1904‐81)とロンドンFritz London(1900‐54)である(1927)。いま2個の水素原子をa,b,電子を1,2と記号づけ,水素原子aの電子軌道の波動関数をψaと表し,1番の電子がこの軌道にあるときψa(1)のように記す。…

【原子価結合法】より

…電子のこのような波動性は波動関数によって説明される。1927年,ハイトラーWalter Heitler(1904‐81)とロンドンFritz London(1900‐54)は,波動関数を用いて水素分子の結合機構を明らかにした。これが原子価結合法と呼ばれるもので,VB法と略称される。…

【化学結合】より

…水素原子の電子軌道はHeと同様2個の電子で安定な配置になるので,2個の原子が1個ずつの電子を出し合って共有することによって結合が形成される。このことを量子論を用いて定式化したのはハイトラーWalter Heitler(1904‐81)とロンドンFritz London(1900‐54)である(1927)。いま2個の水素原子をa,b,電子を1,2と記号づけ,水素原子aの電子軌道の波動関数をψaと表し,1番の電子がこの軌道にあるときψa(1)のように記す。…

【原子価結合法】より

…電子のこのような波動性は波動関数によって説明される。1927年,ハイトラーWalter Heitler(1904‐81)とロンドンFritz London(1900‐54)は,波動関数を用いて水素分子の結合機構を明らかにした。これが原子価結合法と呼ばれるもので,VB法と略称される。…

【超流動】より

…超流動が起こる機構は4Heと3Heとではまったく異なり,前者では4He原子がボース統計に従うことと原子間に斥力があることが,また後者では3He原子がフェルミ統計に従うことと原子間に引力があることが原因になっている。4Heの超流動理論は1930年代にF.ロンドン,L.D.ランダウらによって作られ,3Heの超流動については超伝導のBCS理論の出現(1957)直後からその応用として多くの人たちによって考えられてきた。
[液体ヘリウム4の超流動]
 4Heはボース粒子であってボース統計に従う。…

【児童文学】より


[イギリス]
 16~17世紀は手鏡のようなホーンブックhornbook,17~18世紀は江戸時代の赤本のような行商人によるチャップブックchapbookが,子どもたちの唯一の本だった。しかし1744年にニューベリーJ.Newberyがロンドンのセント・ポール大聖堂前に,世界で初めての子どものための本屋をひらいて,小型の美しい本を発行し,伝承歌謡を集めた《マザーグースの歌(マザーグース)》やO.ゴールドスミスに書かせたと思われる初の創作《靴ふたつさん》を送り出した。しかし18世紀を支配したJ.J.ルソーの教育説はたくさんの心酔者を出して,児童文学は型にはまり,C.ラムは姉メアリーとともにこの風潮に反抗して,《シェークスピア物語》(1807)などを書いたが,児童文学が自由な固有の世界となるには,ペローやグリム,アンデルセンの翻訳をまたなければならなかった。…

【ユートピア】より

… 第2には,反ユートピア(ディストピア)論の登場である。J.ロンドン《鉄のかかと》(1907),E.I.ザミャーチン《われら》(1924),A.L.ハクスリー《すばらしい新世界》(1932),G.オーウェル《1984年》(1949)などの代表例が挙げられる。これらは,理想国家として建設されたはずのユートピアが,かえってその強大な支配力によって人間を不自由化する,というモティーフにもとづいており,社会主義計画経済やケインズ主義政策などの定着の反面であらわになった矛盾に,敏感に反応した文学的表現といえる。…

※「ロンドン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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