一関城下(読み)いちのせきじようか

日本歴史地名大系 「一関城下」の解説

一関城下
いちのせきじようか

[現在地名]一関市釣山つりやま高崎町たかさきちよう台町だいまち旭町あさひちよう宮坂町みやさかちよう八幡町はちまんちよう城内じようない大手町おおてまち田村町たむらちよう地主町じしゆうまち新大町しんおおまち深町ふかまち南新町みなみしんまち広街ひろこうじ機織山はたおりやま西沢にしざわ相去あいさり新山にいやま柄貝からかい散田さんだ宇南うなん二本木にほんぎ久保くぼ沼田ぬまた鳴神なるがみ樋渡ひわたし要害ようがい反町そりまち柳町やなぎまち東花王町ひがしかおうまち桜木町さくらぎちよう磐井町いわいちよう大町おおまち五十人町ごじゆうにんまち豊町ゆたかまち桜街さくらこうじみなみほうりようきたほうりよう南十軒街みなみじつけんこうじ北十軒街きたじつけんこうじ東地主町ひがしじしゆうまち上大槻街かみおおつきこうじ下大槻街しもおおつきこうじ駅前えきまえ吸川街すいがわこうじ南町みなみまち千代田町ちよだちよう

磐井川の東岸、一関城の置かれた釣山の北東から東に広がる。東部をすい(清井)川が北東流し、城下の大部分は磐井川・吸川の内側になる。南東から奥州街道が北へ向かい、途中で鉤の手に西へ折れて磐井川を渡る。近世の郷帳類では一関村二関にのせき村として扱われ、鬼死骸おにしがい村の一部も城下に含まれる。

城下の形成は天正一六年(一五八八)宿駅が置かれ地主町が成立したと伝えることから、戦国末期高崎館(一関城)の城下にさかのぼるとも考えられるが未詳。慶長九年(一六〇四)磐井郡に二千貫文の知行地をもつ伊達一門留守(伊達)政景が清水しず(現西磐井郡花泉町)から一関城に入った。慶長年間には仙台藩による奥州街道の整備が行われているから、当地でも釣山東麓願成がんじよう寺前を通って大町に続き、同町北端で西に鉤の手に折れて地主町となる奥州街道の道筋がほぼでき上ったのであろう。政景は奥州街道筋に大町・地主町を設け、悪水堀(五間堀)で家中屋敷と町家を分離、菩提寺大安だいあん寺と祈祷寺吉祥きつしよう寺を建てたと伝えるから(「一関村安永風土記」など)、城下形成の端緒は元和元年(一六一五)までの政景とその子伊達宗利の時代に行われたといえよう。寛永一八年(一六四一)頃から一関一帯を知行した伊達宗勝(のちの一関藩主)により、菩提寺豊国ほうこく(谷)寺、薬師沢やくしざわの薬師堂の創建、総鎮守八幡社、祈願寺般若はんにや寺の移転が行われたという(同風土記)。町割や家臣の屋敷地割も実施され、城下の形態がある程度整えられたとみられるが詳細は不明。

天和元年(一六八一)磐井郡内など三万石を与えられた田村建顕は一関城を居城とし、以後当地は幕末まで一関藩城下となった。城下としての本格的な建設も建顕の代に行われた。建顕は天和二年五月二日一関に入部後、誠極流軍師生田孫惣を招き城下町建設に着手したと伝える。入部直後は居館の普請が間に合わないため、地主町に仮館を設けたという。同三年には陸奥岩沼から家中を移住させているから、家中屋敷の建築はほぼ終わっていたと推定される(「近世田村家略系譜」一関市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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