日本歴史地名大系 「一関城下」の解説
一関城下
いちのせきじようか




磐井川の東岸、一関城の置かれた釣山の北東から東に広がる。東部を
城下の形成は天正一六年(一五八八)宿駅が置かれ地主町が成立したと伝えることから、戦国末期高崎館(一関城)の城下にさかのぼるとも考えられるが未詳。慶長九年(一六〇四)磐井郡に二千貫文の知行地をもつ伊達一門留守(伊達)政景が
天和元年(一六八一)磐井郡内など三万石を与えられた田村建顕は一関城を居城とし、以後当地は幕末まで一関藩城下となった。城下としての本格的な建設も建顕の代に行われた。建顕は天和二年五月二日一関に入部後、誠極流軍師生田孫惣を招き城下町建設に着手したと伝える。入部直後は居館の普請が間に合わないため、地主町に仮館を設けたという。同三年には陸奥岩沼から家中を移住させているから、家中屋敷の建築はほぼ終わっていたと推定される(「近世田村家略系譜」一関市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報