日本歴史地名大系 「磐井郡」の解説 磐井郡いわいぐん 岩手県:陸奥国磐井郡「和名抄」東急本国郡部の訓注に「伊波井」とある。史料上の初見は「延喜式」とされ、中世には岩井と記されることが多い。近世の郡域は、東は気仙(けせん)郡、西は出羽国雄勝(おかち)郡(現秋田県)に接し、南は西から栗原(くりはら)郡・登米(とめ)郡・本吉(もとよし)郡(現宮城県)、北は西から胆沢(いさわ)郡・江刺郡に接する。郡域中央を北上川が南流する。〔古代〕郡名の初見は前記の「延喜式」とされるが、当郡以北の胆沢・江刺・気仙・和賀・稗貫(ひえぬき)・紫波(しわ)の諸郡は六国史に所見がある。南の栗原郡は神護景雲元年(七六七)の建郡とされ(続日本紀)、北の胆沢郡は延暦二一年(八〇二)の胆沢城(現水沢市)造営とともに置かれていることから、当郡は同年かそれ以前に建郡されたとする説がある。また胆沢郡が建郡された際には、当郡および江刺郡域も広くは胆沢郡に含まれており、胆沢城経営の進展によって、のち建郡されたとも考えられる。古代・中世の胆沢郡との境は衣(ころも)川と思われるが、流路の変化などによって明瞭ではない。なお北上川東岸の胆沢郡田河津(たこうづ)・赤生津(あこうづ)・母体(もたい)三村(現前沢町)は、天正一九年(一五九一)の豊臣秀吉の奥郡仕置に伴う郡の再編によって当郡となったといわれるが、同一五年三月一一日の葛西晴信知行宛行状写(赤荻阿部文書)に「岩井郡之内赤生津村」とある。「和名抄」には七郷がみえ、丈部(はせつかべ)・山田(やまだ)・沙沢(ますざわ)の三郷は現東磐井郡域など、仲村(なかむら)郷は西磐井郡花泉(はないずみ)町付近、磐井・磐本(いわもと)・駅家(うまや)の三郷は一関市域などに比定されるがいずれも未詳。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by