日本大百科全書(ニッポニカ) 「七口関」の意味・わかりやすい解説
七口関
ななくちのせき
中世に京都に流入する商品に通行税を課すために、諸入口に立てられた関所の総称。かならずしも入口が七つあったということではなく、五畿(き)七道に対して七口と数を調えたらしい。実際の入口には、鳥羽(とば)口、東寺(とうじ)口、竹田(たけだ)口、伏見(ふしみ)口、粟田(あわた)口、北白川(きたしらかわ)口、大原(おおはら)口、鞍馬(くらま)口、長坂(ながさか)口などがある。京都の諸口には、すでに徳治(とくじ)年間(1306~08)を初見として、禁裏料所(きんりりょうしょ)の関所が設置され、内蔵寮(くらりょう)、御厨子所(みずしどころ)、主殿(とのも)寮、左右衛門府(さうえもんふ)などに関料徴収権が与えられている。1459年(長禄3)9月、足利(あしかが)幕府は京都七口の諸関を停廃、伊勢(いせ)神宮造替のため一口に一関のみを置いた。また1478年(文明10)ごろから内裏(だいり)修造料所として、幕府の実権を握った日野富子(ひのとみこ)が七口に新関を立て、土一揆(つちいっき)に破られたことは有名。七口の諸関は織田信長によって一時停廃、まもなく復活したが、1582年(天正10)豊臣(とよとみ)秀吉によって廃止され、消滅した。
[脇田晴子]