七百町新地
ななひやくちようしんち
鏡町のうち旧文政村の大半を占める当新地は、藩主細川斉
が家臣の手取米の増加を図るために、宇土・益城・八代三郡の海辺に新地築造計画を命じたことに始まる。文政二年(一八一九)九月奉行小山門喜は御郡吟味役・野津手永惣庄屋鹿子木量平の子謙之助をよび、三郡の海辺二千六〇〇町歩に及ぶ大干拓の積立を命じた。謙之助は御郡吟味役間部忠右衛門と図り、「積帳一巻」を提出した。藩では翌三年八月二八日に、八代郡代杉浦仁一郎・宇野騏八郎、下益城郡代奥村仙蔵・米良四助、および鹿子木量平父子を「海辺新地しらへ方」に命じた。これよりさきの八月二一日、家老沢村宇右衛門友好は、宇野・奥村・米良をよんで藩主の意向を次のように伝えた。「御家中之面々難渋之儀ハ、御苦悩ニ被 思召上(中略)此上者宇土之弐本松より、八代氷川迄一ケ所、右氷川を除、猶氷川の向より、先達而築立候新地(注、四百町新地)之辺まで、大開ニ而茂御築立ニ相成候ハヽ、是を以御家中取救申度段被申上候処、夫ハ幸之御事、天之賜と被 思召上候、加様之儀者、集説ニ可被遊 御懸候得共、左候而者、色々之説起り、却而惑を生ずるものニ付、御開御築立ニ被遊 御心決候間、屹度築立候様」。次いで河江手永惣庄屋犬塚安太・高田手永惣庄屋小田藤右衛門・種山手永惣庄屋平野角次・宇土郡松山手永惣庄屋松山(三隅)丈八、小田藤右衛門子小田七郎右衛門の五名が御用懸に任命され、郡方奉行から「此節之儀者、至而大造之事ニ候得者、衆心一致いたし、精力を尽候儀専要之事ニ候」と申渡された。
当初の計画では、宇土郡の二本松(現不知火町)から、文化一四年―文政二年(一八一七―一九)にかけて完成した四百町新地(大牟田御開)に至る広大な新地を築造するもので、新地の養水には球磨川から取水し、氷川・砂川は大底樋を通し、久具(現下益城郡松橋町)の大野川まで引くというものであった。この計画の一部が七百町新地で、のちに一部が変更され、天保一〇年(一八三九)に鹿島尻新地(現竜北町)が、嘉永五年(一八五二)に砂川尻新地が築造されて、予定どおりの新地が完成したと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の七百町新地の言及
【八代海】より
…1805年(文化2)の百町新地,19年(文政2)の四百町新地がそれである。21年の七百町新地は藩の指導のもと郷内の資金と労力を得てなされた。この地先に明治以後の干拓地が造成された。…
【八代平野】より
…この平野は,九州山地から八代海に注ぐ球磨川をはじめ氷川,砂川,大野川などのつくる南北に細長い扇状地性の複合三角州と干拓地からなる。平野の約55%は近世初頭以来の干拓地で,なかでも八代郡鏡町の七百町新地(1821完成)は藩政時代の干拓地としては最大である。また1904年に八代郡が独力で完成した郡築(ぐんちく)新地は1047haに及ぶ。…
※「七百町新地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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