熊本県中部、宇土半島の基部にある市。1958年(昭和33)宇土町が網田(おうだ)村を編入して市制施行。北東半は緑川のつくりだした沖積低地、南西半は火山岩(新生代新第三紀)からなる低山地。南北に国道3号、JR鹿児島本線が走り、それぞれから分岐した国道57号、三角(みすみ)線が宇土半島の北海岸を西走する。キリシタン大名小西行長(ゆきなが)の築城(1588)を機に城下町形成が行われ、18世紀には特権都市として認められた「肥後(ひご)五ヶ町」に準ずる扱いを受け、天草(あまくさ)地方を後背地にした物資の集散地として栄えた。しかし、熊本を中心に、八代(やつしろ)および三角(宇城(うき)市)に鉄道が敷設(1890年代後半)されて以降は、しだいに集散地機能も衰えていった。
これとは対照的に、島原湾沿岸のノリ、アサリ養殖、沖積低地の水田裏作としての野菜栽培(トマト、メロン類)、丘陵地のミカン栽培は順調に伸びている。また、1940年代初めからは工場進出もみられ、国道3号と57号の交差する地域には、工場街の景観がみられる。このように多様な性格を有する都市であるが、県都熊本市に接し、同市中心街から十数キロメートルの位置にあることから、最近では衛星都市的性格も強まっている。市街地には、宇土城跡、船場橋(せんばばし)のほか、裏通りには武家屋敷など古い町並みが残っている。また、獅子(しし)舞(西岡神社例祭)、鳥居くぐり(粟島(あわしま)神社例祭)などの民俗行事もある。そのほか、轟用水(とどろきようすい)は、17世紀に敷設されたわが国現存最古の水道で、一部はいまも利用されている。面積74.30平方キロメートル、人口3万6122(2020)。
[山口守人]
〔2016年熊本地震〕2016年の熊本地震では、4月16日1時25分の地震で市内浦田町で震度6強を観測、市庁舎が損壊するなどの被害に見舞われた。この地震による市内の被害は、関連死を含め死者10名(うち、警察の検視によって確認された死者はなし。ただし、同年6月に発生した豪雨被害における地震関連死者は除く)、重傷者24名、住家全壊116棟、公共建物の損壊7棟にのぼり、罹災世帯数は1867を数えている(平成30年5月11日『平成28(2016)年熊本地震等に係る被害状況について【第272報】』熊本県危機管理防災課ほか)。
[編集部]
『『宇土市史』(1960・宇土市)』
熊本県の中央,宇土半島の付け根から中部に位置する市。1954年宇土町と花園,轟,緑川,網津の4村が合体し,58年市制。人口3万7727(2010)。古くから肥後の一中心で,縄文時代の曾畑貝塚,轟貝塚,火君(肥君)にまつわる向野田(むこうのだ)古墳がある。中世には宇土氏,名和氏が居城し,16世紀後半には小西行長24万石の城下町,17世紀半ば以降は細川支藩3万石の陣屋が置かれた館町となった。17世紀末には轟泉(ごうせん)水道が敷かれ,今も利用されている。明治後期鹿児島本線,その後三角線が開通して分岐点となり,道路網も発達した。現在は化学工場のほか20余の工場が立地し,熊本市への通勤者も多い。背後の農村地帯ではミカン栽培,メロン,野菜の施設園芸が行われ,網田ではネーブル,有明海ではノリ,貝類の養殖が盛ん。宇土城跡(史),如来寺の仏像(県文化財),網田焼窯跡(県史跡),安産の神の粟島神社,赤瀬海水浴場がある。
執筆者:岩本 政教
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