三分村
さんぶむら
[現在地名]久美浜町字三分
佐濃谷川下流域の東山麓の丘を中心にして集落をつくる。佐濃谷川を挟んで西の平田村と向い合い、北に日本海の砂丘を望む。かつて桜尾峠山麓付近に居住していたが、しだいに現地に移住したと伝える(熊野郡誌)。東山麓付近には古墳が散在する。
中世末の丹後国御檀家帳に
<資料は省略されています>
とある。近世に入ると慶長検地郷村帳に高四二一・四三石「三分村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で五八〇石余となった(天和元年宮津領村高帳)。
三分村
みぶんむら
[現在地名]臼田町大字三分
雨川扇状地の末端南部に位置し、南東部には関東山系支脈の裾が東から迫っている。西と北は一帯に平野が開けている。東は田野口村、西は下越村に、南は入沢村、北は田野口村・上中込村にそれぞれ境を接する。
村の南方岩崎山には佐久三十三番札所の第一三番岩崎観音の廃堂跡があるが、その麓の字仏の下には、自然の二大岩の壁面に高さ一メートルくらいの五輪塔二基と宝塔二基が刻まれている。
三分村
みわけむら
[現在地名]東部町大字和
小県郡東部、姫子沢の山中に源を発する千曲川支流三分川中流の東岸にある。東は新屋村、西は海善寺村、南は棗田村、北は東上田村に境を接す。
永仁四年(一二九六)三月の尼道しやう譲状に「うんの志やうみけのてういまいむら」と、三分条としてみえる(臼田文書)。この頃の三分は、数ヵ村を含む地域であったものと考えられる。
村名の由来は大和朝廷の直轄地である「屯倉」の名が残ったものと推定される。寛永元年(一六二四)より、禰津旗本領となり廃藩置県に至る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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