小県郡(読み)ちいさがたぐん

日本歴史地名大系 「小県郡」の解説

小県郡
ちいさがたぐん

面積:七〇六・二九平方キロ
東部とうぶ町・真田さなだ町・青木あおき村・丸子まるこ町・長門ながと町・和田わだ村・武石たけし

県東部、千曲川中流域にあり、旧郡内の中央にある上田うえだ盆地(現在はおおむね上田市域)を馬蹄形に囲む形をなす。千曲川右岸は東部は地蔵じぞう峠により、東北部は鳥居とりい峠によって群馬県と続き、菅平すがだいら高原を源流とするかん川が南流、また烏帽子えぼし岳の火山流出物が千曲川に向かって緩傾斜地をつくる。左岸は南から西にかけて大門だいもん峠・和田わだ峠・とびら峠・美ヶ原うつくしがはら武石たけし峠・三才山みさやま峠・保福寺ほうふくじ峠・青木あおき峠・修那羅しゆなら峠・安坂あざか峠が諏訪・松本・東筑摩ひがしちくま地方と境し、依田よだ川・浦野うらの川とその支流が北ないし東流して千曲川に入る。

「延喜式」神名及び民部に「小県郡」と記し、「和名抄」に「知比佐加多」と訓じる。郡名は正倉院蔵の麻布紐心の墨書「信濃国小県郡戸主爪工はたくみ部□調」(正倉院古裂銘文集成)を初見とし、並存する麻布に「天平十年」(七三八)とあるので、同時期と察せられる。正倉院蔵の白布芥子袋に「信濃国少県郡芥子壱斗、天平十三年十月」と小の字のみ異記される。「小県」という地名については小さなあがたの意とし、小県に対する大県おおあがたが「和名抄」所載の埴科はにしな郡「英多郷」(現長野市松代まつしろ町・更埴こうしよく市一帯)に置かれ、千曲川をさかのぼって小県が置かれたとする説があり、そのほかに信濃国造とされるおお(意富氏)の祖神八井耳命の子孫に小子部ちいさこべ連があり、国造所在地は小県郡に比定されていることから、小県は小子部の県であろうとする説とがある。小県の範囲は現在の小県郡・上田市域とほぼ同域と考えられる。

〔原始〕

諏訪郡境の和田村男女倉おめぐらに先土器遺跡があり、近くの和田峠頂上付近は無土器時代から縄文時代にかけて石器材料として用いられた黒曜石の大原産地である。また真田町北部の菅平高原・長門町大門だいもん・和田村南部などの山地に縄文早期の土器が多くみられ、真田町本原もとはら・長門町長久保ながくぼ、上田市には縄文盛期の遺跡がある。更に上田市東部の平坦部に弥生時代の遺跡が散在し、稲作がこの辺りに広がっていたと推定される。

旧小県地域の古墳やその遺跡はおよそ三〇〇あり、そのうち上田市域には二子ふたご塚・王子おうじ塚・秋和あきわ古墳、現東部町曾根の丸山親王そねのまるやましんのう塚のほか若干が中期と考えられる程度で、他はそれ以降である。

〔古代〕

東山道を進んで大和政権の勢力が信濃に入ったと考えられる五―六世紀の国造所在地や、奈良時代の国府は上田市にあったとする説が有力で、国分僧寺・尼寺跡も上田市にある。これらの所在は古代の一時期、小県地方が信濃の政治・文化の中心地であったことを示すが、しかし、「和名抄」では既に「国府在筑摩郡」とあるので、平安時代に入って国府が筑摩郡に移ったことは明らかである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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