改訂新版 世界大百科事典 「三日平氏の乱」の意味・わかりやすい解説
三日平氏の乱 (みっかへいしのらん)
1204年(元久1)の春に起こった伊勢平氏最後の反乱。乱の鎮圧に当たった平賀朝雅の報告書に,〈およそ狼唳両国(伊賀,伊勢)を靡(なび)かすといえども,蜂起三日を軼(す)ぎず〉とあるように,4月10日より12日までの戦いで雌雄が決せられたのでこの名称がある。《平家物語》諸本の一部や《源平盛衰記》などに1184年(元暦1)の蜂起を指していうのは誤り。すでに1203年(建仁3)暮れ,伊勢平氏の若菜五郎が同国守護所に夜討をかけた事件があったが,翌年2,3月になると反乱の規模は伊賀・伊勢地方の平氏一族全体に及んだ。その勢1000人と伝えられる叛徒は鈴鹿関,八峯山を固めて両国を制圧,守護人山内首藤経俊を敗走させた。幕府,朝廷から追討を命じられた京都守護平賀朝雅は,3月22日京を進発,美濃国を迂回して伊勢に入り,4月の決戦で鎮圧した。乱後,経俊の伊賀・伊勢守護職は解任され,追討の賞として朝雅に与えられた。
執筆者:杉橋 隆夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報