東海道伊勢国に置かれ,古代とくに重視された三関の一つ。三重県亀山市の旧関町にあったが遺跡は不明。国司の1人が常駐,兵器が備わり,天皇の没時や戦乱に固関(こげん)の儀があって閉鎖,平常も通過には国司発行の過所を要し,不法に越えると徒1年から1年半の罰を課すと規定された。伊賀,伊勢の国境と伊勢国府があった鈴鹿市国府町の間にあるから,東方に備えるのではなく,西方の在京する貴族官人の脱出,農民の逃亡流入を防ぎ,京の動揺が外部へ波及するのを防ぐ目的の関と考えられる。設置の時期については天智朝,天武朝の2説があり,前者は《日本書紀》672年(天武1)の壬申の乱に鈴鹿関司があることを理由とするが,動乱中臨時の関とも解され,ここを東に通過して勝利を得た天武天皇により整備されたとする後説が有力。789年(延暦8)に停廃されたが,その後も固関の儀は永く続くので,固関が形式化し実質的に廃絶した時期は不明である。
執筆者:水野 柳太郎
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伊勢(いせ)国(三重県亀山市関町付近)に置かれた古代の関所。美濃(みの)国(岐阜県)不破(ふわ)関、越前(えちぜん)国(福井県)愛発(あらち)関とともに三関(さんかん)の一つ。646年(大化2)の大化改新の詔(みことのり)に「関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人(さきもり)を置け」とあるのによって置かれたものであろう。672年(天武天皇1)鈴鹿関司の使が奏言したことがある。709年(和銅2)藤原房前(ふささき)が東海、東山両道の関所を検察したとき、伊勢守(かみ)が賞揚されている。元明(げんめい)天皇の崩御をはじめ、国家の大事には固関使(こげんし)が派遣された。789年(延暦8)7月、三関は廃止されたが、固関使の派遣は儀礼的に行われた。鎌倉時代にも関所が置かれていたことは『吾妻鏡(あづまかがみ)』などによって知られる。江戸時代は東海道五十三次の一宿であった。
[田名網宏]
古代,伊勢国に設置された関。三関(さんげん)の一つ。「日本書紀」の壬申の乱の記事に「鈴鹿関司」とあるのが史料的初見で,天智朝の設置と考えられる。「続日本紀」によると,内城・外城にわかれ,あるいは東城・西城の区分があったらしい。関跡は現在の三重県亀山市関町に比定され,2006年(平成18)から発掘調査が行われている。三関は789年(延暦8)に廃止されるが,その後も固関(こげん)の対象となった。
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