三森村(読み)みつもりむら

日本歴史地名大系 「三森村」の解説

三森村
みつもりむら

[現在地名]仁賀保町三森

白雪しらゆき川河口右岸に位置する。東はすず村・浜杉山はますぎやま村、南は田抓たつかみ村、西は白雪川を挟んで芹田せりた村に接する。

由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に、仁賀保郷の一村として村名がある。

慶長七年(一六〇二)最上氏領、元和八年(一六二二)本多正純領、翌九年仁賀保挙誠領となり、高は四〇三石七斗四升九合(「仁賀保総高改」渡辺文書)。寛永元年(一六二四)仁賀保家の分知に際し、良俊(七千石家)領の二一六石五斗九升二合と誠政(二千石家)領の一八七石一斗四升六合に分割された(仁賀保町史)。同八年良俊が没し、七千石家領は天領となり庄内しようない(現山形県)酒井氏預領となる。


三森村
みもりむら

[現在地名]表郷村三森

やしろ川中流右岸にあり、東は高木たかぎ村、南は(現棚倉町)、東は下羽原しもはばら村、北は河東田かとうだ村。東西に白河関と棚倉たなぐら(現棚倉町)を結ぶせき街道が通る。永禄一三年(一五七〇)六月二三日の小川大蔵丞宛の佐竹義重証状(秋田藩家蔵小川文書)に「赤館落居並上三森・小菅生二ケ所渡置候」とみえあか(現棚倉町)を入手した場合、上三森と小菅生こすごう(現棚倉町)を恩賞として宛行うことを約している。江戸時代は初め会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)以降越後高田藩領。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四七五石余。白河古領村郷高帳では高六五〇石余。


三森村
みつもりむら

[現在地名]安富町三森

南流する安志あんじ(現林田川)の東岸に位置し、西は安志村、南は三坂みさか村。山崎やまさき断層がつくる断層谷に立地する。東に枝村のうすづくがあり、舂峠は飾西しきさい郡との郡境をなす。慶長国絵図に「ミもり」とみえる。領主の変遷は延宝七年(一六七九)まで安志村と同じ。同年幕府領、宝永二年(一七〇五)幕府領林田藩預地、正徳三年(一七一三)幕府領、享保元年(一七一六)安志藩領となり(「宍粟郡領主記」東京大学史料編纂所蔵)、幕末に至る(旧高旧領取調帳など)


三森村
みつもりむら

[現在地名]弘前市富栄とみさかえ

東北は前坂まえさか村、東は独狐とつこ村、南は鶴田つるた村、西は宮館みやだて村に接する。

万治二年(一六五九)七月一日長利甚左衛門昌敏は鶴田・独狐と当村において多数の墾田を開発した功により、弘前藩に召抱えられている(青森県史)寛文七年(一六六七)三月二三日の郡奉行・町奉行宛の覚(津軽家御定書)によれば、三つ森野において「荒畑にたはこ作候儀、無用之事」とある。寛文四年の高辻帳に鼻和はなわ郡新田として村名があり、村高三二〇石。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高一七六・三一一石、うち田方一一四・一〇八石、畑方六二・二〇三石。田位は中田がないが、上田から下々田まであり、斗代は上田が一・一石と低い。


三森村
みつもりむら

[現在地名]大飯町三森

佐分利さぶり川の北岸、安井やすい村の西にある。村名は新鞍あたくら日尻ひじり奥居恵野おくいえのの三つの森があることによるという。「若狭郡県志」は「三森村属佐分利郷、去小浜五里半許也」と記す。

寛永二一年(一六四四)四月一一日付の検地帳(「大飯郡誌」所収)は、町数合計一三町六反四畝三歩、分米一六五石二斗四升七合毛付高とし、そのうち田方九町七反九畝一四歩(分米一四二・八八五石)・畠方三町六反一畝六歩(分米二一・一〇九石)・屋敷二反三畝一一歩(分米二・三三四石)で、ほかに荒畠四畝九歩(分米〇・一二九石)、永川成分米三一・二七四合と記し、惣高一九六・六五石とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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