三沢郷
みざわごう
「出雲国風土記」「和名抄」に記載される仁多郡三沢郷の郷名を継承する中世の郷。現三沢・鴨倉・河内・三成・高尾および現木次町平田・北原一帯に比定される。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)の遷宮儀式の流鏑馬一五番のうち第七番に「三沢郷、合巨曾石郷、舎人保、岡本保」とみえ、当郷の地頭らが流鏑馬役を勤めている。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の第一二番に「三沢郷四十四反半」とあり、地頭の飯島太郎が相撲役を勤めていた。
三沢郷
みざわごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、ミザワであろう。「出雲国風土記」によれば仁多郡四郷の一つで、郡家の南西二五里に郷長の家があり、地名の由来は大穴持命の子阿遅須伎高日子命にかかわる。その子は成人するまで昼夜泣続け、聾唖者であったため、船に乗せて八十島を巡って慰めたがなお泣きやまなかった。大神は夢に祈願し、そこで子に言葉が通じるのをみたので、夢から醒めて子に問うと「御沢」と答えたという。その沢に案内させると泉があり、子は沐浴した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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