仁多郡
にたぐん
面積:三六七・九九平方キロ
仁多町・横田町
県の南東部に位置し、周囲を山に囲まれ、ほぼ中央部を斐伊川が大馬木川・阿井川などを合せながら西流する。近世の郡域は現在の仁多・横田両町および大原郡木次町の一部を含む地域で、北を能義郡・大原郡、西を飯石郡、南を備後国、東を伯耆国に囲まれる。
〔古代〕
「出雲国風土記」の仁多郡の郡名伝承に大穴持命が「爾多志枳小国なりと詔りたまひき、故、仁多と云ふ」とあり、「和名抄」東急本国郡部は「尓以多」と訓ずるが、「にた」とよんだと推定される。風土記は三処・布勢・三沢・横田の四郷を載せる。郡家は三処郷内の現仁多町郡村の大領原に比定される。仁多郡郡司として大領外従八位下蝮部臣・少領外従八位下出雲臣・主帳外大初位下品治部が知られる(同書)。「和名抄」では風土記の四郷に加え、漆仁・阿位の二郷を載せる。二郷ともに三沢郷から分れたと推定されている。大原郡家から辛谷村(現大東町)を経て仁多郡家に入り、阿志
縁山(現鳥取県日南町)を越え伯耆国日野郡への通道と、郡家から遊託山(現烏帽子山)を経て備後国恵宗郡への通道があり、国境には常に
があった(風土記)。「延喜式」神名帳の仁多郡に記載される伊我多気神社(風土記では伊我多気社)は現横田町の伊賀多気神社に、三沢神社(風土記では三沢社)は現仁多町の三沢神社に比定される。「出雲国風土記」には仁多郡の「諸の郷より出す所の鉄、堅くして、尤も雑具を造るに堪ふ」とあり、種々の鉄器の製造が行われていた。仁寿元年(八五一)一二月一五日仁多郡の百姓は復一年を与えられており(文徳実録)、貞観六年(八六四)一〇月一日農蚕よろしからざるにより当郡百姓は課役復二年を賜っている(三代実録)。
〔中世〕
文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳によると、仁多郡を構成する基本的な所領として横田庄(現横田町)のほか、阿井郷・布施(布勢)郷・三処(三所)郷・三沢郷(現仁多町)・馬木郷(現横田町)の五つの国衙領の存在が確認ができる。横田庄は出雲八所八幡の一つとして一一世紀末頃成立したとみられる山城石清水八幡宮の末社横田別宮が庄園に転化したもので、源平合戦の際平家方として活躍した横田兵衛尉維之(源平盛衰記)は、成立期の横田庄の庄官であったと推測される。同庄の庄園領主権はその後鎌倉・南北朝期に皇室領(仙洞御所御料所)・石清水八幡宮領、泉涌寺(現京都市東山区)領に三分され、それぞれ戦国末期まで継承された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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