三門村(読み)みかどむら

日本歴史地名大系 「三門村」の解説

三門村
みかどむら

[現在地名]岬町三門

井沢いざわ村の南東に位置し、北部をしん川が流れる。臼井うすい郷の一村。延宝五年(一六七七)の中滝領分知帳(中村家文書)臼井郷内として村名がみえ、高五四〇石余。領主変遷長者ちようじや町に同じ。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では臼井郷三所の一つとしてみえる。天保郷帳には古くは臼井村のうちと注記された一村としてみえ、高五四〇石余。元禄七年(一六九四)長者町と福原ふくはら村の馬継ぎ争論に伴い、臼井郷の領主が代わるという噂が立ち、井沢村惣百姓とともに所替がないよう運動することを名主らに求め、その費用は村方で負担するとしている(関家文書)


三門村
みかどむら

[現在地名]東金市御門みかど

殿廻とのまわり村の南東に位置する。元禄郷帳御門村とある。天保郷帳では三門村とあり、古くは御門村と肩書される。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に御門村とみえ、高二三二石。元和五年(一六一九)から高二三五石余が北町奉行組与力給知となり、幕末まで同じ(「地頭所取扱村々記」小倉家文書など)。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では御門組に属し、高二三〇石。貞享四年(一六八七)の書上(東金市史)では田方二一一石・畑方三七石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二六二石余、家数四二。


三門村
みかどむら

[現在地名]銚子市三門町

中島なかじま村の東にある。延宝二年(一六七四)裁許状(島田家文書)に村名がみえ、正明寺しようみようじ村などと野論を起こしている。同六年当時は旗本小川領(宮内家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二二七石余で幕府領と小川領。旧高旧領取調帳では小川領。三門村堰は野尻のじり高田たかだ芦崎あしさき船木台ふなきだい・中島の五村とともに利用されていたが、正保二年(一六四五)野尻村は水上筋の村々が新規に水筒を設けるなどしたため水不足になったとして国廻奉行に訴えている(滑川家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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