江戸幕府第4代将軍。3代将軍家光(いえみつ)の長男。母は増山氏で於楽之方(おらくのかた)という。寛永(かんえい)18年8月3日誕生。幼名は竹千代。1644年(正保1)家綱と命名。翌1645年従三位権大納言(じゅさんみごんだいなごん)となる。1650年(慶安3)世子(せいし)となって西の丸に移り、翌1651年家光の死去に伴い、わずか11歳で将軍となった。家綱は徳川氏初の幼将軍であり、かつ長じても病弱であったため、自ら政治を行うことは少なく、保科正之(ほしなまさゆき)、酒井忠勝(ただかつ)、松平信綱(のぶつな)ら徳川一門、元老および老中による集団指導のもとで、文治政治が行われ、幕政機構の整備とともに、この期に幕藩体制が確立された。世継ぎ問題を残したまま延宝(えんぽう)8年5月8日没。40歳。東叡山(とうえいざん)に葬る。法号は厳有院(げんゆういん)。正室は伏見宮(ふしみのみや)貞清親王の女(むすめ)(浅宮)。
[藤野 保]
江戸幕府4代将軍。3代将軍家光の長男。母は於楽之方(宝樹院)増山氏。幼名竹千代。1651年(慶安4)8月18日将軍宣下をうけ,11歳で将軍となる。このとき正二位内大臣に叙任。生来病弱で,家光の死の直後には慶安事件が起こるなど政情不安を招くが,保科正之や前代からの大老酒井忠勝,老中松平信綱,阿部忠秋らに補佐され,在職29年の間には幕府諸制度が整備された。63年(寛文3)家光の13回忌にあたって日光へ社参するが,前3代の将軍とは異なり一度も上洛しなかった。家綱の後年は明暦の大火を契機として幕府財政が悪化し,〈下馬将軍〉と呼ばれた酒井忠清の専断がみられるなど,幕政に緩みが見えはじめた。子がなく,弟の綱吉を嗣子とした。法号は厳有院殿。墓所は上野寛永寺。
執筆者:藤井 譲治
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(大森映子)
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1641.8.3~80.5.8
江戸幕府4代将軍(在職1651.8.18~80.5.8)。3代将軍家光の長男。母は側室宝樹院(お楽の方)。幼名竹千代。法号厳有院。11歳で将軍職を継ぐが,就任当初,由比正雪らの慶安事件が生じた。前代の遺老酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋や叔父の保科正之が補佐。殉死の禁止,末期(まつご)養子の禁緩和,証人(人質)制廃止などの牢人対策,寛文印知,度量衡の統一,全国的商品流通政策などの諸制度の整備,キリシタン統制のため宗門改の全国制度化など,大老・老中の合議制の下で幕藩制の安定化が進められた。保科正之らが引退してからは,大老酒井忠清に権力が集中した。
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…江戸幕府の4代将軍徳川家綱の領知判物(はんもつ)・朱印状が1664年(寛文4)諸大名に,翌65年公家・寺社に一斉に発給されたことをいう。家康・秀忠・家光3代にわたり区々に発給されていたものが統一的・同時に発給され,大名領知権が将軍の全国的支配権に完全に包含されたことで,将軍権力の強化・確立をもたらしたといえる。…
…江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…
…江戸前期の大名,会津藩主。徳川秀忠の三男。母は神尾(かんお)氏お静の方。家光の異母弟。信濃国高遠藩主保科正光の継母が家康の異父妹であった縁で,1617年(元和3)正光の養子となる。31年(寛永8)家を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり,従五位下肥後守に叙任。その後,侍従・少将に昇進し,53年(承応2)正四位下中将に叙任。36年出羽山形20万石に移り,43年会津23万石を領した。藩政においては家臣団編成・農政にすぐれた手腕を示し,江戸時代前期の名君の一人に数えられる。…
…本書ははじめ羅山が徳川家光の命で1644年(正保1)から通史の編修に当たり,50年(慶安3)に神武朝から宇多朝までを完成して《本朝編年録》の書名で幕府に提出したが,明暦の大火で焼失した。62年修史継続の命が徳川家綱から羅山の子鵞峰に下り,64年から忍岡林邸内の国史館で作業が開始され,《本朝編年録》の稿本を復元校勘して正編とし,続編を林梅洞,林鳳岡,人見友元,坂井伯元らが分担起草し,鵞峰が統轄して完成し幕府に献上した。中国の《資治通鑑(しじつがん)》を模範にし,《通鑑綱目》を参考とし,事実を直叙して後代の鑑戒とすることを目ざした。…
※「徳川家綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...
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