日本歴史地名大系 「野尻村」の解説
野尻村
のじりむら
現信濃町の北部。東は
この地は、現信濃町地区で最も古く開け、古代から信越国境にのぞむ交通上の要地(→沼辺駅)であり、中世は
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
久万川の右岸、
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高弐百石三斗三升、(中略)右之内百六拾七石松平隠岐守分 三拾三石三斗三升加藤出羽守分、野尻村 日損所、野山有」とある。つまり村高の六分の五は松山藩領(上野尻村)、六分の一が大洲藩領(下野尻村)で、江戸時代を通じて二村に分けられていた。このような分村は天正一五年(一五八七)から八年間にわたる戸田勝隆支配の頃始められた。家臣に
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
- 千葉県:銚子市
- 野尻村
野尻村
のじりむら
- 京都府:八幡市
- 野尻村
八幡の東部、
文明二年(一四七〇)八月一五日付大内政弘寄進状(石清水文書)に「奉寄進 石清水御宝前 山城国綴喜郡野尻郷事」とみえるが、四年後の同六年九月一五日付大内政弘寄進状(同文書)には「奉寄進 石清水八幡宮 山城国久世郡御牧庄内坊池郷事 右件地者為去文明二年寄進同国野尻郷代所、奉寄附者也、仍寄進状如件」とあって、野尻郷は石清水八幡宮領から外されている。
江戸時代の野尻村は元禄二年(一六八九)の山城国高付帳(石田家蔵)によれば高一五四・六石。
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
- 三重県:亀山市
- 野尻村
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
- 栃木県:鹿沼市
- 野尻村
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
桜島の南西部に位置。中央を野尻川が流れ、南に
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
- 青森県:青森市
- 野尻村
天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「野尻」とある。
貞享元年(一六八四)の郷村帳に高一〇三・六石とある。同四年の検地帳には、田方六一町七反四畝二五歩、畑方一九町八反五畝二一歩、田畑屋敷合せて八一町六反一六歩、村高六七三・八二石とある。田地が多く六一町余のうち、上田一六町余・中田一九町余・下田二四町余とあり生産力は高い。元禄三年(一六九〇)には横内組に属し、村位は中である(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、天明八年(一七八八)に二一二石、寛政八年(一七九六)に一一五・二石の新田高が書上げられている。
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
- 和歌山県:海南市
- 野尻村
野尻の地名は、
野尻村
のじりむら
- 島根県:出雲市
- 野尻村
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
野尻村
のじりむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報