野尻村(読み)のじりむら

日本歴史地名大系 「野尻村」の解説

野尻村
のじりむら

[現在地名]信濃町大字野尻

現信濃町の北部。東は古海ふるみ村、南は柴津しばつ村及び柏原かしわばら村、西は黒姫くろひめ山山麓の入会地、北は熊坂くまさか村及びせき川を境に越後国頸城くびきすぎざわ(現新潟県中頸城郡妙高高原町)に接する。村の南西、野尻湖畔から黒姫山麓にかけて平地が開け、北西は山地となっている。村の中央をほぼ南北に北国脇往還が通じ、その沿道に野尻宿を中心に南からかん六月むつき土橋どばし赤川あかがわ、西北方の黒姫山麓にかけて伝九郎新田でんくろうしんでん三右衛門新田さんうえもんしんでん山桑やまくわ高沢たかざわ、東方の本道ほんどう、南方野尻湖寄りに狐久保きつねくぼ等の集落があった。

この地は、現信濃町地区で最も古く開け、古代から信越国境にのぞむ交通上の要地(→沼辺駅であり、中世は芋川いもかわ庄に属して、野尻とも沼尻ぬじりとも記された(→野尻城跡宇賀神社


野尻村
のじりむら

[現在地名]高森町野尻

高森町の東北部に位置する明治九年(一八七六)成立の村名。東は津留つる村・日向国西臼杵にしうすき郡、西はなか村、北は尾下おくだり村、南は下切したぎり村に接する。大野おおの川の支流大谷おおたに川の上流域にあり、近世には上流の東に向津留むかえつる村、西に蔵地くらじ村、下流の東に野尻村、西に胡桃原くるみわら村が並ぶ。中世には南郷に属した。興国三年(一三四二)六月二〇日の後村上天皇綸旨写(阿蘇家文書)によれば、「南郷内野尻二子石両村」を阿蘇惟時に安堵している。正平三年(一三四八)九月日の恵良惟澄軍忠状(同文書)によると、延元三年(一三三八)一〇月頃に南朝方の惟澄が当地の野尻城を攻撃し落城させた。


野尻村
のじりむら

[現在地名]久万町上野尻かみのじり・下野尻

久万川の右岸、久万町くままち村の南に続く村。久万町村で開けていた川沿いの低地は上野尻でしだいに狭まり、続く下野尻と対岸の菅生すごう村分では川は山裾を縫って流れる。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高弐百石三斗三升、(中略)右之内百六拾七石松平隠岐守分 三拾三石三斗三升加藤出羽守分、野尻村 日損所、野山有」とある。つまり村高の六分の五は松山藩領(上野尻村)、六分の一が大洲藩領(下野尻村)で、江戸時代を通じて二村に分けられていた。このような分村は天正一五年(一五八七)から八年間にわたる戸田勝隆支配の頃始められた。家臣に小田おだ郷で六千石与えるはずが不足のため久万山分で二名にみよう村・父野川ちちのかわ村・露峰つゆのみね村を取り、なお不足分三三石を野尻村のうち馬酔谷あせぶだにで取った(→久万山


野尻村
のじりむら

[現在地名]大桑村大字野尻

現在の大桑村の最南部に位置し、木曾川両岸の段丘上の中山道沿いに、振田ふつたはやし・野尻宿(上町かんまち広小路ひろこうじほん町・よこ町・門前もんぜん新田につた町)・下在郷しもざいごう勝井坂かついざか八人石はちにんいしと野尻宿の宿場町を挟んで、集落が点在し、また木曾川右岸に、野尻向のじりむかい阿寺あてらの集落がある。

観応三年(一三五二)の真壁光幹の相博状(真壁文書)に出てくる「美濃国小木曾庄下保旧田」は野尻の振田ではないかといわれており、当時野尻辺は高山こうざん寺領の「下保しものほ」であったことがうかがわれる。


野尻村
のじりむら

[現在地名]銚子市野尻町・長山町ながやまちよう

猿田さるだ村の北東方、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。江戸時代野尻河岸が置かれた。応安七年(一三七四)の海夫注文(香取文書)に「野志りの津」とみえ、千葉氏一族海上氏の知行分であった。湊津を舞台に活動する商人が早くから在住したと考えられ、千葉胤富は永禄三年(一五六〇)野尻宿商人中に対して「舟木、野尻之宿」に塩荷を下ろすように命じている(一二月一四日「千葉胤富判物」下総旧事)。元亀四年(一五七三)には千葉氏が「たかたのしり商人衆」らの網代をめぐる相論を裁許している(八月一四日「千葉胤富黒印状」同書)。天正一九年(一五九一)九月五日の検地帳(石毛家文書)海上うなかみ三崎みさき庄野尻枝船木台ふなきだい郷とみえ、当時船木台村を枝郷としていたようだが、当村の縄打は九月二八日で、反別三七町四反余・高三六〇石余と打出されたという。


野尻村
のじりむら

[現在地名]八幡市野尻〈一庵いちあんえんもときたくち倉掛くらかけ城究じようぎわ正畑しようはた善角ぜんかく土井どいうち浜代はまだい

八幡の東部、木津きづ川西岸に接する。北は上津屋こうづや村、南は岩田いわた村と境する東西に長い村である。西は内里うちさと村と接している。古代は綴喜郡有智うち(和名抄)に属したとされる。

文明二年(一四七〇)八月一五日付大内政弘寄進状(石清水文書)に「奉寄進 石清水御宝前 山城国綴喜郡野尻郷事」とみえるが、四年後の同六年九月一五日付大内政弘寄進状(同文書)には「奉寄進 石清水八幡宮 山城国久世郡御牧庄内坊池郷事 右件地者為去文明二年寄進同国野尻郷代所、奉寄附者也、仍寄進状如件」とあって、野尻郷は石清水八幡宮領から外されている。

江戸時代の野尻村は元禄二年(一六八九)の山城国高付帳(石田家蔵)によれば高一五四・六石。


野尻村
のじりむら

[現在地名]昭和村野尻

下中津川しもなかつかわ村の北西二九町にあり、美女びじよ峠の麓に開けた野尻川氾濫原の北西端に立地し、端村中向なかむかいは南東端に位置し、いずれも田島たじま街道に沿う街村で、本村は銀山ぎんざん街道をも通す交通の要衝で、早くから伝馬宿として開けた。長享二年(一四八八)八月二三日の兵庫助政輔判物(山内文書)に「奥州会津大沼郡中津河之村之中のしりのむら、かい御めんになし候、たんせんしやうさいともニ、子々孫々におき候て相違あるへからす、仍執達如件」とあり、また永正一一年(一五一四)四月一三日の蘆名盛高判物(同文書)に「大沼中津川之内野尻村、春秋之段銭壱貫七百文宛者、如前々沙汰可申、臨時之段銭之事、永代御免許所也、仍為後日、証文状如件」とある。


野尻村
のじりむら

[現在地名]上勝町生実いくみ

瀬津せづ村の南、福原ふくはら村の西に位置し、勝浦川支流のあさひ川が東流する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「野尻村」と記される。正保国絵図では勝浦山坂本さかもと村のうちと考えられ、「勝浦山の内 野尻村」とみえる。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では勝浦山坂本村の枝村として記載される。貞享三年(一六八六)の検地帳(上勝町誌)では田四町六反余(上々田・上田・上下田が約六割を占める)・高五八石余、畠七町五反余・高三一石余、名請人三四人のうち五石以上の持高百姓は七人、本田畠以外に山畠を所持するのが一六人で、山畑反別は総畠反別の四割強に及ぶ。


野尻村
のじりむら

[現在地名]信楽町宮尻みやじり

下朝宮しもあさみや村の北西にある山村。北は栗太くりた郡に接し、西方は山城国境。信楽川が北流し、集落はこれに沿って形成され、野尻と桶井おけいの二集落からなる。もとは朝宮の出郷ともいう。建武四年(一三三七)四月二五日の山中道俊・同頼俊軍忠状案(山中文書)に野尻とみえるのが早い。応仁元年(一四六七)八月二五日、足利義視は伊勢へ下る途中当地に寄り、多羅尾氏が接待している(応仁別記)


野尻村
のじりむら

[現在地名]下呂町野尻

宮地みやじ村の東、竹原たけはら川流域の南北なんぼく街道(竹原道)沿いにある。南の蛇之尾へびのお村へ通じる道二筋があり、一筋は不動ふどう峠を越え、一筋は濃飛国境の尾根を通り大鹿野おおじかのを経由した。元禄飛騨国検地反歩帳に竹原郷として村名がみえ、高九四石余、田七町六反余・畑六町八反余。竹原郷四ヵ村のうちでは最も成立が遅いとみられる。「飛騨国中案内」によれば免四割八厘、家数三四、うち百姓二九・地借り三・門屋二。


野尻村
のじりむら

[現在地名]亀山市布気ふけ

野村のむらの西に続く東海道沿いの村で、亀山城の西にあたる。「九九五集」は「鈴鹿郡神辺かんべ七ケ村親郷」と記している。忍山おしやまとともに「和名抄」に載せる神戸かんべ郷の中心と推定される。豊受とようけ大神宮の遷座と関係の深い式内布気神社とも切離せない。関氏以来、神戸郷はその所領関谷せきだに二四郷に含まれ、文永年間(一二六四―七五)板淵を称する神の司が住み関氏と拮抗があったが、関実忠の進出により、神戸郷および野尻村もその支配下に入ったと思われる(九九五集)


野尻村
のじりむら

[現在地名]緒方町野尻

大野川と緒方川の合流点西方にあり、北を大野川、南を緒方川が東へ流れる。正保郷帳に村名がみえ、田高一一六石余・畑高一五八石余、緒方郷に属した。「豊後国志」ではまき村とある。旧高旧領取調帳では四五七石余。安永七年(一七七八)には牧組に属し、同組大庄屋源助の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。岡藩小制札場が置かれていた(岡藩御覧帳細注)


野尻村
のじりむら

[現在地名]甲南町野尻

下池田しもいけだ村の西、龍法師りゆうぼし村の東にあり、そま川左岸に位置。龍法師村との境は浅野あさの川。北は杣川を境に寺庄てらしよう村、南は柑子こうじ村。集落北端に野尻城跡があり、堀・土塁が現存。永正七年(一五一〇)二月、細川高国・大内義興らの兵が足利義澄を攻めて同城を囲んだときには、野田のだ深川ふかわ土山つちやま(現土山町)周辺で合戦となり、「野田ノ党」や「望月党」の武士団が集結してこれに対抗したという(関岡家始末)。寛永石高帳では高五八四石余で幕府領。慶安二年書上では田三三一石余・畑屋敷一一三石余・永荒年荒一三九石余で、山口弘隆(のち常陸牛久藩)領。元禄一一年(一六九八)宮川藩領となる。


野尻村
のじりむら

[現在地名]鹿沼市野尻

荒井あらい川の渓口部に位置し、北は下加薗しもかぞの村、東は酒野谷さけのや村、西は上南摩かみなんま村。慶安郷帳では田六九石余・畑七二石余、幕府領。慶安二年(一六四九)から鹿沼藩領。享保九年(一七二四)鹿沼藩主内田氏の移封に伴い下総小見川藩領。天保九年(一八三八)幕府領となり、同一一年吹上藩領となって幕末に至る。天保年間の家数二五(改革組合村)。宝永七年(一七一〇)壬生みぶ通鹿沼宿の定助郷となり、勤高一三三石(「鹿沼町助郷帳」鹿沼市立図書館蔵)


野尻村
のじりむら

[現在地名]堺市野尻町

金田かなた村の南にある。村の西側を西高野街道が通り、街道筋に字しも茶屋ちややがある。古くは須恵器生産の一地であったようで、古墳時代後期の窯跡が残る。河内国八上やかみ郡に属する。慶長一七年(一六一二)水割符帳(田中篤家文書)に村名がみえ、狭山さやま(現南河内郡狭山町)大樋筋から取水していた。水懸高三七七石余。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では石高三七七石余、元文二年(一七三七)の河内国高帳では高三八九石余。


野尻村
のじりむら

[現在地名]鹿児島市野尻町・持木町もちきちよう

桜島の南西部に位置。中央を野尻川が流れ、南にもえ崎がある。北西は赤水あかみず(現桜島町)、東は湯之ゆの村。永享一一年(一四三九)二月一八日の島津用久袖判証状(薩州用久系図)に、「向島野尻村貴久御寄進為義天毎日霊供」とあり、島津用久(持久、薩州家祖)は兄の貴久(忠国)が父島津久豊の菩提を弔うために寄進した当地ほかを、鹿児島福昌寺慧灯えとう院に安堵している。文明七年(一四七五)の桜島爆発は当地から噴出したといい、池田氏年代記(旧記雑録)に「文明七年八月十五日、向島之内野尻村燃出ル」とある。元亀二年(一五七一)島津氏に敵対する日向国都於郡とのこおり(現宮崎県日南市)城主伊東義祐・高山こうやま(現高山町)城主肝付兼亮・下大隅郡司伊地知重興・根占重長の兵船約三〇〇艘が当地を襲撃した。


野尻村
のじりむら

[現在地名]福野町野尻

たび川右岸に位置し、対岸は上津じようづ村。中世の野尻庄・野尻保の遺称地とされ、野尻城跡がある。当村の石武雄いわたけお神社に奉仕した当山派修験宝乗ほうじよう院の由緒によると、往時信濃国水内みのち郡野尻(現長野県信濃町)の河合五郎・六郎兄弟が当地に移住して城を構え、故郷の名にちなんで野尻村と称したという(貞享二年寺社由緒書上)


野尻村
のじりむら

[現在地名]青森市野尻

横内よこうち川に沿い、四ッ石よっいし村の西北にある。建武二年(一三三五)正月二六日の北畠顕家国宣写(新渡戸・岩大文書)に次のようにある。

<資料は省略されています>

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「野尻」とある。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に高一〇三・六石とある。同四年の検地帳には、田方六一町七反四畝二五歩、畑方一九町八反五畝二一歩、田畑屋敷合せて八一町六反一六歩、村高六七三・八二石とある。田地が多く六一町余のうち、上田一六町余・中田一九町余・下田二四町余とあり生産力は高い。元禄三年(一六九〇)には横内組に属し、村位は中である(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、天明八年(一七八八)に二一二石、寛政八年(一七九六)に一一五・二石の新田高が書上げられている。


野尻村
のじりむら

[現在地名]和良村野尻

鹿倉かくら川中流にあり、南下流は宮地みやじ村。西の貢間ぐま(現八幡町)とを結ぶ宇山うやま峠を経る山道は、郡上八幡ぐじようはちまん(現八幡町)と和良筋を結ぶ主要な道筋であった。宮代みやしろ白山神社蔵の薙刀の文禄三年(一五九四)八月二二日の柄墨書銘に、「寄進願主野尻かちノ弥七郎」とある。正保郷帳に村名があり、郡上藩領で、田方七六石余・畑方四八石余。元禄六年(一六九三)旗本井上正長領となり、正徳二年(一七一二)以後幕府領。文化八年(一八一一)村明細帳によれば、新田分を含め、田一三町四反余・畑七町余、家数四六・人数二二四、馬一〇。


野尻村
のじりむら

[現在地名]海南市野尻

別院べついん村の東北、貴志きし川沿いに位置し、東対岸は下津野しもつの村。那賀なが郡に属し、村の北半は野尻山の南斜面の山地で、西は小池こいけ峠を越えて名草なくさ黒岩くろいわ(現和歌山市)に至るが、同村へは村の北、野尻山の北を回り馬路うまで(一一〇メートル)を越えるのが常道で、この道は野上のかみ谷の村々と和歌山城下を結ぶ道として近世には野上街道とよばれた。

野尻の地名は、石清水いわしみず八幡宮領野上庄のうち下津野村のことを記した宝徳四年(一四五二)三月日付の野上庄下津野村地免注文(中原家文書)に、水田の注記として「野尻ノ道」とみえている。


野尻村
のじりむら

[現在地名]出雲市野尻町

神戸かんど川支流の稗原ひえばら川最上流にあり、北は稗原村、南は飯石いいし根波別所ねばべつしよ(現三刀屋町)、東は同郡里坊さとぼう(現同上)。慶長四年(一五九九)と推定される市川元栄所領注文(閥閲録)に「野尻村百四拾八石七斗四合、同所御再検ニ弐百三拾四石壱斗四升四合」とみえる。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高三三五石余、寛文四年(一六六四)の本田高三二五石余・新田高三石余。「雲陽大数録」では高三三〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡南方万指出帳(比布智神社文書)では田一九町余、御立山一ヵ所、家数七〇・人数三九七、牛一五・馬四、大工二・木挽一・鍛冶屋一・室屋一・綿打一、鉄砲三を記す。松江藩は貞享三年(一六八六)楮栽培を奨励し、当村では二千五一三株を植えた(簸川郡誌)


野尻村
のじりむら

[現在地名]和泉村野尻

九頭竜くずりゆう川上流の右岸に位置し、東は穴間大谷あなまおおたに村、西は長野ながの村。枝村として影路かげろ小野おのがあった。村名は文禄五年(一五九六)一一月二〇日付の長勝ちようしよう(現大野市)手次門徒として帰参するという誓紙(長勝寺文書)にみえる。正保郷帳によれば田方〇・五石余・畠方八石余。天保六年(一八三五)宗門改帳(野尻道場文書)によれば家数三二(庄屋組頭二・本百姓一一・水呑一七・明道場二)、人数は男一四九・女一一七。

九頭竜川沿いにあるため水害が多く、安永三年(一七七四)付の証文によれば、先年の大洪水でほとんどの田畑が流失・土砂入りして川原となっている。


野尻村
のじりむら

[現在地名]朽木村野尻

安曇あど川中流左岸にあり、北東は荒川あらかわ村、北・西・南の三方を市場いちば村に囲まれる。大永二年(一五二二)一二月一八日の米下行帳(朽木文書)によれば、野尻は連判米(出挙米)二石を朽木氏から借用している。享禄三年(一五三〇)二月二一日の御元服付御懸銭帳(朽木文書)に「三百五十文 野尻平七大夫」とある。寛永石高帳では高六五石余。慶安高辻帳では田方一〇石余・畑方五四石余。明治物産誌では家数二三・人数一〇七、馬一・牛七。


野尻村
のじりむら

[現在地名]栗東町野尻

蜂屋はちや村の北西、葉山はやま川右岸平地に立地。慶長検地では蜂屋・野尻阿のじりあ村として一千六〇一石余(正徳三年「郷村高付帳」中村文書)。その後、蜂屋と阿(現守山市)と当村に村切され、寛永石高帳では野尻村として高四三八石余、大坂定番稲垣重綱領。慶安高辻帳では田四三三石余・畑四石余・永荒七斗余。文政石高帳では三上藩領。以後幕末まで同藩領。享保一〇年(一七二五)守山宿に助郷高三四五石で出役(三大寺文書)


野尻村
のじりむら

[現在地名]滑川市野尻

早月はやつき川が形成した隆起扇状地(室山野台地)の北端部に位置し、東は森野新もりのしん村、西は道寺どうじ村、北は大榎おおえのき村。承応三年(一六五四)に成立した森野新村よりやや遅れて村立てされたという(東加積村誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高三八石、免三ツ五歩、明暦二年(一六五六)の新田高三石、小物成は山役一〇匁(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は大浦おおうら村の寄肝煎で、家数四はすべて百姓。


野尻村
のじりむら

[現在地名]上越市野尻

いな諸村の北から東にかけて位置し、ひるこ街道が通る。村の東部を中江なかえ用水が通るが当村で堰分水しており、これが戸野目とのめ川の水源の一つとなっている。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「本庄豊後分野尻村 下」とみえ、本納一八八石七斗二升・縄高一一二石四斗八升六合、家一二軒・八七人。同絵図には当村の南に接して「高梨分八幡村 下」とみえ、本納八〇石一斗二合・縄高八七石二斗一升六合、家一軒・八人とあるが、現在の字八幡はちまんにあたると思われる。


野尻村
のじりむら

[現在地名]大飯町野尻

芝崎しばさき村の南にあり、佐分利さぶり川の支流野尻川に沿って開けた村。「若狭郡県志」に「野尻村属佐分利郷、去小浜四里許也、合志木、野滝、樋、宮脇等而為野尻村」とある。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「野後宮四反 佐分郷」とみえる。正保郷帳によれば田方四九六石余・畠方三〇石余。


野尻村
のじりむら

[現在地名]十津川村大字野尻

十津川本流沿い、山崎やまさき村の上流に立地。十津川郷のうち。天正一五年(一五八七)一〇月一〇日の「十津川和州吉野郡野尻村」とする検地帳(風屋区有文書)があり、字「いわむろ」に畑など一三筆、字「もりかミ」に五筆がみえる。芋・蕎麦・大豆を生産し、うち四反は「いけあな(池穴村)」「山さき(山崎村)」からの入作である。合三五・一五石。寛永郷帳では村高二五・一五石、幕府領。元禄郷帳では村高一五石。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆一二〇本、檜角尺〆四〇本、椴栂松尺〆二〇本、煙草四八〇貫目、割菜一〇〇貫目、楮一〇貫目、茶二〇貫目、樽丸五〇丸とみえる。


野尻村
のじりむら

[現在地名]波賀町野尻

引原ひきはら川流域に位置し、南は飯見いいみ村・皆木みなぎ村。領主の変遷はたに村と同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方二石余・畠方五五石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には家数二二・人数一一二、馬九・牛一四。


野尻村
のじりむら

[現在地名]美並村白山はくさん

長良川左岸、大矢おおや村の北にあり、北の福野ふくの村新田の枝村の一つ。正保郷帳に村名があり、田方一石余・畑方二九石余。寛文四年(一六六四)の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)には、新中間として野尻村孫蔵ら、年明新中間の野尻村喜十郎がみえる。


野尻村
のじりむら

[現在地名]篠山市野尻

西岡屋にしおかや村の北西に位置し、篠山川支流の野尻川が流れる。東部に久古ひさこ池がある。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「野尻村」とみえ、高三二一石余。正保郷帳では田高三〇四石余・畠高一七石。「丹波志」では日置ひおき郷のうちで、高三三〇石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では野尻組で、家数二八・人数一二七。


野尻村
のじりむら

[現在地名]池田町野尻

谷口たにぐち村に隣し、集落は北流する足羽あすわ川東岸の山裾にある。慶長三年(一五九八)の野尻村検地帳(森口内橋家文書)に高一〇七・八九七石と記される。正保郷帳では田方七三石余・畠方三四石余。「越前地理指南」には鷹打山として「高尾山」を記す。享保六年(一七二一)の池田郷中村々明細帳の写(片山家蔵)によれば、反別八町八反余で、上田と上畠が多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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