日本歴史地名大系 「上ノ国村」の解説
上ノ国村
かみのくにむら
現上ノ国町の北部に位置し、中心部は
「津軽一統志」に「上の国イソヤと申所」「上の国はあゐぬま くま石 せき内三ケ所」とあり、「狄蜂起集書」には「上ノ国より下ノ国へ山中通筋」として、嶋小巻(シマコマキ、現島牧村)の手前の瀬田内(セタナイ、現瀬棚町)から下ノ国のクンヌイ(国縫、現長万部町)まで二日ほどとみえる。当時は広域名称として松前城下から東海岸を「下ノ国」と称したのに対し、西海岸を「上ノ国」と称していた。「津軽一統志」によると、狭義の上ノ国は家数一四〇―一五〇、狄(アイヌ)もいるとある。「狄蜂起集書」によると、寛文一〇年(一六七〇)に三百五、六〇から四〇〇人ほどの山師が「上国檜山」に伐採に入ったという。一六世紀末頃から本州諸国で城下町建設に伴う建築用材の需要が高まると、檜材交易は蠣崎氏の主要財源となった。同氏は檜山、山師、交易業務などを取締るため慶長元年(一五九六)檜山山監を上ノ国に置いたという(江差町史)。しかしアッサブ(現厚沢部町)の檜山の伐採が始まると、山監は延宝六年(一六七八)に江差に移されて檜山番所と改称され(福山秘府)、以降政治・経済の中心地は江差に移行する。元禄郷帳には「かみの国村」、享保十二年所附には当地内に比定される「しねこ」「縄六間」「鳥井泊」「水なし」「原歌」「地獄間」「もんじよ」「もよ狩」「すめき石」「上ノ国村」がみえる。天保郷帳に上之国村と
上ノ国村
かみのくにむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報