上八田村(読み)うえはつたむら

日本歴史地名大系 「上八田村」の解説

上八田村
うえはつたむら

[現在地名]白根町上八田

御勅使みだい川扇状地の中央部に位置し、東は徳永とくなが(現八田村)、南は西野にしの村、西は百々どうどう村、北は野牛島やごしま(現八田村)。「一蓮寺過去帳」によれば、文明一三年(一四八一)九月四日供養の前一房に「上波多」と注記され、当地にあたるか。永禄四年(一五六一)の番帳の五四番に「上八田の禰き」が「高尾の禰き」とともにみえ、当地の諏訪神社神職と考えられる。元亀二年(一五七一)四月一九日付の武田家印判状写(「古文書雑集」若尾資料)によれば、上八田郷の小野又次良は春秋の両棟別免除のほか普請役・隠田については軍役衆同前の扱いを受ける特権を与えられ、代りに参陣を求められている。天正一〇年(一五八二)一二月一〇日の徳川家印判状写(御庫本古文書纂)に「上八田之内壱貫六百文」とあり、本給として安堵されているが、宛名を欠いている。


上八田村
かみやたむら

[現在地名]綾部市上八田町

八田川の上流高城たかしろ山の西側の丘陵地に散在する西股にしまた村の小村佐里さざと寺垣てらがき福田ふくだ勢期せいごを併せて上八田村とよぶ。勢期は請郷とも書く。

建武元年(一三三四)四月一三日付の寄進田数目録(岩王寺文書)には「御寄進 岩王寺八田郷上村内田地弐町事」として「貞遠名」「兼里名」がみえるが、これらは後世の佐里・金里かねさとにあたる地域と考えられている。また寛正二年(一四六一)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)に記される「八田上村」にあたる地と思われる。

江戸時代は西股村に含まれたが、俗に上八田村と称された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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