日本歴史地名大系 「白根町」の解説 白根町しらねまち 山梨県:中巨摩郡白根町面積:三九・一一平方キロ(境界未定)郡の中部にあり、北は韮崎市・八田(はつた)村、東は南流する釜無川を隔てて竜王(りゆうおう)町・昭和(しようわ)町、南は若草(わかくさ)町・櫛形(くしがた)町、西は芦安(あしやす)村。中央部を国道五二号が南北に貫通する。西半分は西(にし)山とよばれる山地で、西山山中から流れ出る御勅使(みだい)川の扇状地が東部に広がる。御勅使川北側には甘利(あまり)山・千頭星(せんとうぼし)山があり、甘利山直下の椹(さわら)池に源をもつ塩(しお)沢、千頭星山中から流れ出る御庵(ごあん)沢が御勅使川に注ぐ。御勅使川南側は八田山から続く長峯(ながみね)山がある。原始・古代の遺跡には縄文時代中期の築山(つくやま)遺跡のほか上今諏訪(かみいますわ)のおつき穴(あな)古墳がある。律令時代の当町域は巨麻(こま)郡に属したが、比定される郷はなく、八田村域も含めて承和二年(八三五)四月二日に葛原親王に与えられた馬相野(まあいの)空閑地五〇〇町(続日本後紀)に相当するとされる。この時期の資料は町内にほとんど残らないが、大嵐の善応(おおあらしのぜんのう)寺には藤原期の千手観音や鎌倉期の宝篋印塔があり、境内地から平安期の経筒が出土するなど古寺の面影を伝える。鎌倉初期の在地領主は不明だが、地理的にみて甲斐源氏加賀美遠光の勢力下にあったのであろう。観応元年(一三五〇)足利尊氏・直義が対立した観応の擾乱が勃発すると、尊氏派の高師冬が武蔵国から逃れて須沢(すさわ)城に立籠り、翌年一月一七日諏訪祝部らに攻められて敗死している(「太平記」巻二九)。大嵐の城跡は現在痕跡を残さないが、師冬とともに須沢城に立籠った逸見孫六入道(同年三月日「市河経助軍忠状」市河文書)は城主とみられるから、一時期逸見氏の支配が及んでいたと考えられる。御勅使川は暴れ川として知られ、しばしば氾濫を繰返したため、戦国期に渓口右岸に石積出が設けられ、河道を北東流に変更するとともに将棋(しようぎ)頭・堤を築く治水工事が武田信玄によってなされたと伝える。永正一七年(一五二〇)六月一〇日武田信虎は、連合して甲府を去り敵対した国人逸見氏・大井氏らを今諏訪(いますわ)の地で破っている(高白斎記)。近世には上今諏訪村・下今諏訪村・西野(にしの)村・上八田(うえはつた)村・百々(どうどう)村・在家塚(ざいけつか)村・飯野(いいの)村・築山(つくやま)村・有野(ありの)村・駒場(こまば)村・塩前(しおのまえ)村・大嵐村・須沢村の一三ヵ村があり、ほかに飯野新田・曲輪田(くるわだ)新田があった。塩前村・大嵐村・須沢村の三ヵ村は巨摩郡武川(むかわ)筋に、他の村々は同郡西郡筋に属した。慶長古高帳では一三ヵ村とも幕府領、のち甲府家領を経て宝永元年(一七〇四)甲府藩領、享保九年(一七二四)以降は幕府領。元禄郷帳で甲府家領であることが確認できるのは上今諏訪村・下今諏訪村・上八田村・飯野村の四ヵ村で、西野村は承応三年(一六五四)の徳川綱重家臣遠藤久兵衛の年貢免状(白根町所蔵文書)から、在家塚村は寛文二年(一六六二)の在家塚若宮八幡領出入ニ付下知願(大城寺所蔵文書)に徳川綱重家老諏訪若狭守知行所在家塚村と記されていることから、慶安四年(一六五一)から甲府家領となったと推測される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by