日本歴史地名大系 「上別府村」の解説 上別府村かみべつぷむら 宮崎県:宮崎市上別府村[現在地名]宮崎市橘通東(たちばなどおりひがし)一―五丁目・丸島町(まるしまちよう)・高千穂通(たかちほどおり)一―二丁目・錦本町(にしきほんまち)・広島(ひろしま)一―二丁目・宮田町(みやたちよう)・別府町(べつぷちよう)・旭(あさひ)一―二丁目・川原町(かわらまち)・老松(おいまつ)一―二丁目・橘通西(たちばなどおりにし)一―五丁目・中央通(ちゆうおうどおり)・末広(すえひろ)一―二丁目・中津瀬町(なかつせちよう)・浄土江町(じようどえちよう)・柳丸町(やなぎまるちよう)・下原町(しもはらちよう)・原町(はらまち)・上野町(かみのまち)・清水(しみず)一―三丁目・花殿町(はなどのちよう)・元宮町(もとみやちよう)・瀬頭町(せがしらちよう)・西池町(にしいけまち)・高松町(たかまつちよう)・北高松町(きたたかまつちよう)・南高松町(みなみたかまつちよう)・西高松町(にしたかまつちよう)・松橋(まつばし)一―二丁目・千草町(ちぐさちよう)・江平西(えひらにし)一―二丁目・青葉町(あおばちよう)・宮脇町(みやわきちよう)・錦町(にしきまち)宮崎郡に属し、東は那珂郡吉(よし)村、南は大淀川を境に太田(おおた)村・那珂郡恒久(つねひさ)村、北から西は下北方(しもきたかた)村。元禄国絵図にカミノベフと読みが付され、「かみのびゅう」ともよばれた。南北に飫肥(おび)街道が通る。枝町に上野町がある。大永八年(一五二八)二月三〇日の上別府祐子寄進状写(奈古神社文書)によると、大檀那上別府雅楽助祐子は大願主となり、息災延命・子孫繁盛などを祈念して、奈古(なご)八幡宮に「上別府之内大窪」一反を寄進している。天正一六年(一五八八)八月四日の高橋元種宛の日向国知行方目録には「上ノ別府」五〇町とある。慶長一八年(一六一三)高橋氏の改易により翌一九年延岡藩有馬氏領となるが(「国乗遺聞」など)、元禄五年(一六九二)上知され幕府領となる(同年「延岡藩領郷村高帳写」三浦家文書)。 上別府村かみのびゆうむら 宮崎県:日向市上別府村[現在地名]日向市美々津町(みみつちよう)才脇(さいわき)村の南、耳川下流域南岸に位置し、東は日向灘に面する。豊後街道が南北に走り、才脇村との間は渡船を用いた。上之別府とも記した。耳川河口近くは中世から美々津湊として知られ、湊町の美々津町が形成されていた。同町は郷帳類では当村地内に含まれる。児湯(こゆ)郡に属し、江戸時代は高鍋藩領。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえる。同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高二二五石余。天保郷帳では高三六七石余。もと野別府代官川北庄屋の支配であったが、天明二年(一七八二)川北庄屋河辺久兵衛の願出により支配地が三分され、当村は高松名主の支配地になった(続本藩実録)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by