上野町(読み)かみのまち

日本歴史地名大系 「上野町」の解説

上野町
かみのまち

[現在地名]宮崎市上野町・橘通西たちばなどおりにし一―二丁目

東流する大淀川の左岸、飫肥おび街道沿いに位置する。上別府かみべつぷ村の枝町。延享四年(一七四七)上別府村明細帳(中村家文書)によると、延岡藩有馬氏時代(慶長一九年―元禄四年)には那珂郡下別府村に町立てしていたが、寛文二年(一六六二)の大地震で町屋敷が潮入したため居住できず、上別府村へ引移り上野町と改名したという。延享四年の竈数八四(部当一・年寄二・筆者小触一・本百姓七六、小百姓・水呑二、寺二)・人数五〇三、馬三五。有馬氏時代から下北方しもきたかた村へ出作しており、高一八石余。当町は往還筋のため旅人宿が置かれていた(同年「演説覚書」内藤家文書)

上野町
うえのまち

[現在地名]久留米市大善寺町宮本だいぜんじまちみやもと

ひろ川下流左岸および久留米柳川往還に沿う在郷町。南は早津崎はやつざき(現三潴町)、西は夜明よあけ村。古くから大善寺玉垂たまたれ宮の門前町、久留米柳川往還および若津わかつ(現大川市)に至る街道の宿場町として栄え、筑後八宿の一(校訂筑後志)。「寛文朱印留」に「(野)町村」とみえる。元禄国絵図では上野町馬次として高一八石余。「在方諸覚書」によると古高四〇石・役高一四石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一三石。

上野町
うえのちよう

[現在地名]檜山郡江差町字上野町など

近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。上ノ町とも記される。佐平次さへいじ町の北、阿弥陀堂あみだどう町の北東に位置する。「江差」によると近世後期から明治初期の源太夫げんたゆう町・六軒ろつけん町は当町に含まれた。「蝦夷日誌」(二編)に横巷十九町の一として上野町がみえるが、町についての記述はない。源太夫町にはもと妓楼があったが、弘化二年(一八四五)新地しんち町に移され、あとに小商人ばかりが居住とある。

上野町
うえのまち

[現在地名]松前郡松前町字東山ひがしやま

近世から明治初年まで存続した町。近世は松前城下の一町で、明治初年山之上やまのうえ町と改称。化政期以降寅向どらめき町の北に隣接した地域が家臣・職人などの居住地として開け、人口が増加した。文政一〇年(一八二七)一二月に百姓五四人が寅向町上野拝借願を出し、許可された。同一三年七月には上野に妙見町・恵美須町・大福町・肴町・見上ケ町・小舩町・鍛冶町・俵町・米町・木挽町・大工町・地蔵町・馬喰町の一三町が成立。このとき建家は四八軒であった。

上野町
うえのまち

[現在地名]金沢市小立野こだつの三丁目

小立野新町の南に続く両側町で地子町。もと上野村地で、寛文五年(一六六五)家数が多くなったため上野村百姓から町方裁許の願出があり(改作所旧記)、貞享四年(一六八七)町奉行の裁許となった(金沢古蹟志)

上野町
うえのちよう

[現在地名]函館市上野町

昭和一一年(一九三六)から続く町。同年六月に亀田かめだ郡湯川村が湯川町となった時、旧大字下湯川村の字上野の一部を字上野町とした(湯川町字地番改正調書)。同年の字上野町の戸数一一(湯川沿革史)。同一四年に湯川町は函館市と合併し、函館市字上野町となり、翌年同市上野町となった。昭和三〇年の国勢調査では世帯数二七・人口一一九、農業関係者が就業人口比で五五パーセントを占めていた。

上野町
うえのまち

[現在地名]台東区上野二―四丁目など

しのぶヶ岡にあった上野村(二羽村とも)の集落が寛永年間(一六二四―四四)の寛永寺創建に伴って山麓南方に代地を与えられて移転し、上野町となったと伝える(文政町方書上・「御府内備考」など)。田園簿に上野町とあり、高一五石余は皆畑、幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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