日本大百科全書(ニッポニカ) 「高鍋藩」の意味・わかりやすい解説
高鍋藩
たかなべはん
日向(ひゅうが)国児湯(こゆ)郡高鍋(宮崎県高鍋町)に藩庁を置いた外様(とざま)藩。秋月(あきづき)藩ともいう。秋月種長(たねなが)(在位1587~1614)が関ヶ原の戦い後、本領財部(たからべ)以下3万石を徳川家康より安堵(あんど)され、1604年(慶長9)本拠を那珂(なか)郡櫛間(くしま)より財部(のち高鍋と改称)に移したのが、実質的な藩の始まりである。2代種春(在位1614~59)の代までは門閥譜代(もんばつふだい)層の抗争がやまず、藩政は動揺を極めたが、3代種信(在位1659~89)は民衆支配と家臣団統制に一定の実をあげ、藩政を固めた。4代種政(在位1689~1710)も民政に力を入れる一方で、殖産奨励による財政安定化を図った。しかし18世紀に入ると、藩財政は悪化の一途をたどったため、7代種茂(在位1760~88)は流通統制の強化、藩校明倫(めいりん)堂の創設による士風の作興など、藩政改革に着手、以後その推進が歴代藩主の大きな課題となった。戊辰(ぼしん)戦争に際しては、10代種殷(たねとみ)(在位1843~71)が討幕の意志を明らかにし、藩兵は東北地方にも転戦。1871年(明治4)の廃藩置県でいったん美々津(みみつ)県管に入ったのち、73年に宮崎県となる。
[上原兼善]
『喜田貞吉・日高重孝著『日向国史 下巻』(1930・史誌出版社)』▽『日高次吉著『宮崎県の歴史』(1970・山川出版社)』