日本大百科全書(ニッポニカ) 「上原浩治」の意味・わかりやすい解説
上原浩治
うえはらこうじ
(1975― )
プロ野球選手(投手:右投右打)。4月3日、大阪府生まれ。東海大学付属仰星(ぎょうせい)高時代はまったく無名の存在であった。大阪体育大学に進んでから頭角を現し、1997年(平成9)夏の日米大学選手権で大会タイ記録となる1試合14奪三振をマークした。アメリカ大リーグのニューヨーク・メッツからの勧誘もあったが、逆指名してドラフト1位で1999年に読売ジャイアンツ(巨人)へ入団。1年目から20勝、防御率2.09、奪三振179で投手三冠王となり、新人王、沢村賞とタイトルを独占した。テンポよくストライクを先行させる小気味のよいピッチングにより、たちまちエースの座に上り詰めた。翌2000年は9勝、01年も10勝にとどまったが、02年には17勝でふたたび最多勝を獲得、原辰徳(たつのり)監督に就任1年目での日本一を贈る原動力となり、2回目の沢村賞に選ばれた。同年秋に行われた日米野球では第1戦に先発して、大リーグの強打者バリー・ボンズにまっこうから勝負を挑み、3打数3三振に抑え込んでみせた。2003年は最多奪三振、04年は2.60の数字で最優秀防御率とそれぞれ2回目のタイトルを手にしている。2004年はシーズン途中で日本代表の一員としてオリンピック・アテネ大会に参加し、銅メダル獲得に貢献し、シーズンでも13勝をあげた。2005年は初めて負け越す苦しいシーズンとなり、前年に続き、シーズン終了後にポスティング(入札)による大リーグ移籍を球団に訴えたが、認められなかった。2006年はワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に日本代表として出場、優勝の立役者の一人となる。しかし、シーズンは不調で、2年連続で2桁勝利に届かなかった。
[出村義和]
2007年以降
2007年は故障で出遅れ、チーム事情もあって抑え投手として55試合に登板。32セーブ、防御率1.74の好成績でチームの5年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
2007年までの通算成績は、登板試合250、投球回1459と3分の1、106勝57敗、防御率2.96、奪三振1304、完投54、完封9。獲得したおもなタイトルは、新人王、最多勝利2回、最優秀投手2回、最優秀防御率2回、最多奪三振2回、沢村賞2回、ベストナイン2回、ゴールデン・グラブ賞2回。
[編集部]
『上原浩治著『我慢』(2005・ぴあ)』