上増田村(読み)かみますだむら

日本歴史地名大系 「上増田村」の解説

上増田村
かみますだむら

[現在地名]深谷市上増田

小山こやま川と丈方じようほう(福川)に挟まれた沖積低地に位置し、西は明戸あけと村、南はみや谷戸やと村。領名は未詳(風土記稿)。慶長三年(一五九八)九月の円蔵坊霞郷付書立(黒田家文書)に「ますた」とみえる。なお文明年間(一四六九―八七)頃に増田四郎重富が当地を拠点として深谷上杉氏に対し抵抗したといわれ、地内諏訪山すわやま辺りが増田氏館跡とされ、現在も土塁・堀の一部が残る。


上増田村
かみますだむら

[現在地名]松井田町上増田

下増田村の北西、増田川中流から上流域に展開する村で、ほとんどの自然集落は増田川に流入する小河川が開いた谷地沿いにある。東から西に大笹おおざさ道が通り、地蔵じぞう峠を越えて川浦かわうら(現群馬郡倉淵村)に向かう。南部の細野原ほそのはらは天正一八年(一五九〇)前田利家が大道寺政繁と戦った地という。碓氷郡に属し、元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)に村名がみえる。高崎藩総社領で高二五石、反別は田方七反余・畑方一町二反余。「寛文朱印留」では安中藩領。寛文郷帳では田方一三〇石余・畑方九九石余。江戸後期の御改革組合村高帳では家数二〇五、安中藩領。


上増田村
かみますだむら

[現在地名]前橋市上増田町

北西は笂井うつぼい村、北は今井いまい村、東は二之宮にのみや村、南は下増田村、西は桃木もものき川対岸の小屋原こやはら村。寛文郷帳に増田村とあり、田方八〇六石五斗余・畑方六八六石六斗余とある。その後延宝年間(一六七三―八一)上下に分村し(郡村誌)元禄郷帳では高七四六石六斗とまったく同高である。天明二年(一七八二)の前橋藩領村々明細(井田文書)では田方三五町八反余・畑方七〇町一反余、家数一七六、男三七九・女三五二、馬六七。明治一〇年(一八七七)頃の田反別五四町八反余・畑反別七六町二反余、民業は「農業スルモノ百三十六戸、女農業ヲスルモノ七十五人、養蚕ヲ業トスル者五人、縫織ヲ業トスル者二人」で、牡馬四〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android