日本歴史地名大系 「深谷市」の解説 深谷市ふかやし 面積:六九・四〇平方キロ埼玉県北端部、利根川右岸に位置し、東は熊谷市・大里郡妻沼(めぬま)町、西は同郡寄居(よりい)町・岡部(おかべ)町、本庄市、南は大里郡川本(かわもと)町・花園(はなぞの)町、北はほぼ利根川を挟んで群馬県佐波(さわ)郡境(さかい)町・同新田(につた)郡尾島(おじま)町と接している。境町地内の利根川右岸に当市の飛地がある。江原(えばら)地先で利根川に小山(こやま)川が合流し、両河川が形成した沖積低地が市域の北部に広がる。南部は荒川の洪積扇状地である櫛挽(くしびき)台地で、ほぼ中央に第三紀層の残丘の仙元(せんげん)山(九八メートル、浅間山・人見山ともいう)がある。台地を刻んで唐沢(からさわ)川が北流し、台地末端は比高数メートルの崖が連なり、これに沿って北側の低地部を福(ふく)川が流れる。気候はやや内陸的で寒暖の差が大きく、冬季には関東地方独特の空っ風が吹く。標高は市街地中心部で三六・六メートル。南へいくにつれてやや高まり、五〇―七〇メートル前後。市街地を国道一七号と旧中山道が、その南側をJR高崎線が貫き、北部を国道一七号の深谷バイパスと上武道路(上武バイパス)、南方の台地上を上越新幹線が通過する。ほかに市中心部から寄居・岡部・東松山・妻沼・伊勢崎方面へそれぞれ通じる県道や、これと交差する幹線道路が整備されている。市内には西島(にしじま)・大塚島(おおつかじま)・内(うち)ヶ島(しま)・矢島(やじま)・血洗島(ちあらいじま)・伊勢島(いせじま)・高島(たかしま)といった島のつく地名が多いが、これは利根川や小山川の洪水によって生じた微高地(島)、すなわち避難場所となったあちこちの高台を意味し、八島(やしま)(多くの島の意)と称されて地名の由来となったという。〔原始・古代〕上野台(うわのだい)の小台(こだい)遺跡では縄文時代中期後半の土器破片が多数出土し、炉跡・貯蔵穴も認められる。桜(さくら)ヶ丘(おか)組石遺跡は荒川系の河原石を円形・方形に配列したもので、縄文時代中期以降に属する墓跡あるいは祭祀跡と推定されている。弥生遺跡としては台坂東(だいさかひがし)遺跡・上敷免(じようしきめん)遺跡などがあり、再葬墓から多量の弥生時代中期の土器が出土、ほかに竪穴住居跡も検出されている。古墳時代の集落跡は福川流域に分布している。古墳は古墳時代後期末に属するものがほとんどで、その多くが木の本(きのもと)古墳群に代表される旧幡羅(はら)郡地区に分布する。明治中期頃から畑地化や煉瓦・瓦の原土使用のため古墳が各所で取壊され、第二次世界大戦中の食糧増産などがこれに拍車をかけた。現存一三基の古墳のうち完全なものは三基にすぎず、他は半壊あるいは一部残存か痕跡のみである。埴輪は上敷免から馬形埴輪・武人埴輪、冠をかぶった男子埴輪などほぼ完形なもの八点が出土(東京国立博物館蔵)。 深谷市ふかやし 2006年1月1日:深谷市と大里郡岡部町・川本町・花園町が合併⇒【川本町】埼玉県:大里郡⇒【花園町】埼玉県:大里郡⇒【岡部町】埼玉県:大里郡⇒【深谷市】埼玉県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「深谷市」の意味・わかりやすい解説 深谷〔市〕ふかや 埼玉県北部,利根川の中流部右岸にある市。南部を荒川が東西に流れる。北で群馬県と接する。 1955年深谷町と明戸村,幡羅村,大寄村,藤沢村の4村が合体して市制。 1973年豊里村を編入。 2006年岡部町,川本町,花園町と合体。北部は利根川の沖積低地,南部は荒川の河岸段丘が占める。古代の遺跡が多く,居住の歴史は古い。中心市街地の深谷は中世に深谷城が築かれ,江戸時代は中山道の宿場町,市場町として繁栄。また利根川沖積地の粘土を使用した瓦を特産する。 1962年北東部に深谷工業団地が造成されて電機,アルミ関係の大工場が立地し,工業都市の性格を加えている。農村部ではネギを中心とした野菜栽培が行なわれ,深谷ネギは特産物。渋沢栄一の生地で,喜寿を祝って建てられた誠之堂 (せいしどう) は国の重要文化財。上敷免にある日本煉瓦製造の旧煉瓦製造施設,榛沢の西浦北遺跡から出土した緑釉手附瓶 (りょくゆうてつきへい) は灰釉瓶 (はいゆうびん) とともにそれぞれ国の重要文化財に指定されている。 JR高崎線,秩父鉄道,国道 17号線,140号線,254号線が通り,関越自動車道の花園インターチェンジがある。面積 138.37km2。人口 14万1268(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by