増田村(読み)ますだむら

日本歴史地名大系 「増田村」の解説

増田村
ますだむら

[現在地名]増田町増田

雄物川の支流皆瀬みなせ川へ東から流れる成瀬なるせ川が合流して扇状地を形成し、その中央部に位置する。両河川の谷口集落として発達した。

天正一八年(一五九〇)九月秀吉の奥羽検地に際し、六郷ろくごう(現仙北郡六郷町)に次いで当地方にも検地反対の一揆が起こり、その様子を「益田川、山田、川津良と云古塁に二万四、五千人の人数を催し」(上杉景勝年譜)と伝える。

貞治四年(一三六五)三又みつまた(増田城)主小笠原義冬は金沢山かねざわやま八幡神社(現横手市金沢字安本館)に大般若波羅蜜多経六〇〇巻を奉納した(「金沢八幡社写経」金沢山八幡神社蔵)。義冬の子孫とされる信濃次郎光冬について「増田城主長禄三年楢岡城に移る。角館戸沢氏と親交を結ぶ」(「新庄楢岡氏家譜抄」増田町郷土史)とあり、南北朝期には豪族が居住したといえる。また現増田小学校校庭から貞治二年六月の板碑が発見され(県有形文化財)、そのほかこの地方に一四基の板碑が確認される。元亨二年(一三二二)から永和元年(一三七五)の間に集中する。

慶長七年(一六〇二)佐竹氏が入部し「東将監義堅を置かしむ。


増田村
ますだむら

[現在地名]名取市増田・増田一―五丁目・大手町おおてまち一―二丁目

南東へ流れる増田川(青熊川)の中流自然堤防上にあり、東は下増田村、西は手倉田てくらだ村、南は飯野坂いいのざか村に接する。村央を奥州街道が南北に貫く。村名は新田開発にちなむともされる。古くは「ましだ」ともよばれたらしい。

観応三年(一三五二)四月二九日の吉良貞家軍勢催促状(名取熊野堂文書)に「於名取郡□□□田宿居関所」とあり、欠字部分は「南方益」もしくは「北方益」と考えられている。同状では、熊野堂別当御房に「益田宿」に関所を設け凶徒らの尋究など警固をするよう命じられており、当地一帯が北朝方の勢力下にあったと推定される。至徳三年(一三八六)一二月二日の石橋棟義預ケ状(相馬文書)によれば、名取南方「増田郷内下村大内新左衛門尉知行分」が兵粮料所として相馬胤頼に預けられている。


増田村
ますだむら

[現在地名]掛川市葛川くずかわ青葉台あおばだい葵町あおいちよう

さか川の流域にあり、東海道に沿う町並を大鋸おおが町という。南は道脇どうわき村・杉谷すぎたに村。戦国期には益田とみえ、升田とも書く(「掛川誌稿」など)。「家忠日記」天正六年(一五七八)一一月一四日条によると、松平家忠は「懸河益田」で敵の武田方が大井川を越えたとの牧野まきの(現金谷町)からの注進を受けている。同一七年七月七日、徳川家は「益田村」に七ヵ条の条規を出している(「徳川家七ヵ条定書写」御庫本古文書纂)


増田村
ますだむら

[現在地名]福島市飯坂町東湯野いいざかまちひがしゆの

塩野目しおのめ村の東に位置し、伊達郡に属する。北から南に緩やかな傾斜をなし、北は松原まつばら(現桑折町)、東は長倉ながくら(現伊達町)、南は板谷内いたやうち村など。摺上すりかみ川に注いだ古い河跡が水田の間に残る。天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達西根だてにしねの内として「ます田」とみえ、段銭は一二貫四二五文。同二二年の晴宗公采地下賜録では、大塚将監に「増田の郷」の「しはた在家」「くろす在家」などが与えられており、両在家名は小字として残る。


増田村
ますだむら

[現在地名]中種子町増田

野間のま村の北東に位置する。西は納官のうかん村、北は古田ふるた村、東は海(太平洋)に面していた。村域は東西一里七町・南北一里一七町三〇間。仮屋元の中之町なかのちようのほかにむかい岩屋口いわやぐち郡原こおりばろ古房ふるぼうなどの里があり、川原という所から流れ出し、向里で海に注ぐ浦之うらの(向井川)が流れていた(種子島記)。元禄二年(一六八九)の「懐中島記」では高四七一石余、男女四三三、うち給人一一〇。牛馬八七。延享(一七四四―四八)頃の高五〇七石余(三州御治世要覧)、化政期の高五四四石余、竈数九九、総人躰七〇〇、うち郷士一五九・足軽二四一・在郷二五六・塩屋一四・水手三〇(種子島記)


増田村
ましだむら

[現在地名]日野町増田

小谷こだに村の西にあり、南部を日野川が流れる。益田とも記した。地名は三十坪みそつ村の出郷として日野川流域の開墾により成立したことに由来すると伝え、同村の八千鉾やちほこ神社を鎮守とする。真宗大谷派明性みようしよう寺は戦国時代、一向一揆や石山本願寺合戦に活躍した日野牧五ヵ寺の一で、天正五年(一五七七)三月には同寺の賢了が増田村・石原いしはら村、鋳物師いもじ(現蒲生町)の門徒を率いて紀州雑賀さいが(現和歌山市)へ出陣、織田信長軍との戦いで戦死している。同月七日の子息に宛てた賢了書状(同寺蔵)には「信長大敵に而当城難防、我等最後も近く候と覚候。其の方成人も見届度候へ共、為法命を捨候事本望之至。


増田村
ましたむら

[現在地名]稲沢市増田町・増田〈きた町・西にし町・ひがし町・みなみ町〉

村の西境を東源寺とうげんじ(現福田川)が流れ、北は奥田おくだ村・日下部くさかべ村に接する。南境を八神やがみ街道が通り、街道の北に人家が建並ぶ(天保村絵図)。妙興寺文書によると中世では益田ました保とみえる。天正一一年(一五八三)織田信雄が上洛のときに尾張国の手置として書置いた判物(生駒家文書)に「ました」とみえ、同年代末に信雄が幅三間の道路築造を命じた判物(酒井家文書)に増田とみえ、家臣二宮与右衛門の知行地であった(織田信雄分限帳)

概高七一四石余で、六七〇石余は藩士一四人の給知。


増田村
ましたむら

[現在地名]婦中町増田

神通川中流左岸と井田いだ川中流右岸の間に位置し、集落の東西両側に神通川分流の御門みかど川が流れる。北東は上轡田かみくつわだ村、南西は板倉いたくら村。上轡田村の枝村で、開拓前は神通川の川原跡で、川原を開いて田を増したので村名がついたという(婦負郡志)新川にいかわ郡に属した。寛政二年(一七九〇)の新田高八五石余で、平均免三歩七厘余、銀納畑三三五歩・代銀三匁三分五厘があり、小物成は柳差役一三匁六分三厘(高物成品々手鏡)。享和年間(一八〇一―〇四)の古高一四〇石余・免五ツ六歩、新田高二三石余・免一ツ九歩、小物成は銀納畑四〇〇歩・代銀五匁一分二厘・柳差役三匁・鮭川役一〇匁・鮎川役三匁。神通川の氾濫による水害を受けることが多く、寛文一一年(一六七一)から宝暦一三年(一七六三)にかけて六回、計二六石の永引が行われている(「富山藩高物成帳」斎藤家文書)


増田村
ましだむら

[現在地名]御殿場市増田

中丸なかまる村の北西にあり、村の北辺を東へ流れるつつじ川を挟んで古沢ふるさわ村、大胡田おおごだ(現小山町)。地内の古刹青龍せいりゆう寺の強い影響下に発達した村で、近世初期までは青龍寺せいりゆうじ村とよばれた。寛永改高附帳では「清龍寺村」とみえ、田高九一石余・畑高三四石余。正保四年(一六四七)検地帳(増田区有文書)でも青龍寺村とあり、高一二六石余、反別は田方一〇町六反余・畑方四町四反余、名請人数二四(うち屋敷持一五)。その後青龍寺は村に対する影響力を弱めた。


増田村
ますだむら

[現在地名]桑名市増田・まつ

現桑名市の西部にあり、糠田ぬかた村の東に位置する。南は町屋まちや川に臨む。古くは隣接の糠田村と一体で、宇野木うのきと称した。のち糠田村と増田村とに分離した。「五鈴遺響」によれば「属邑ウノキアリ、旧名益田庄ナリ、後世増田ト記ス、(中略)嘉禎四年二月、隠岐守行村入道此庄ヲ領セシ旧案アリ、今ノウノキニ住セリト云、一本云鵜野木ニ作ル」とある。なお真宗大谷派の源流げんりゆう寺があり寛文一〇年(一六七〇)四月に寺号を与えられて開基したが、その前身は道場であり、織田信長の兵火によって焼かれたといわれる(桑名市史)


増田村
ますだむら

[現在地名]姶良町増田

南東流する蒲生かもう川の右岸沿いに位置し、東は中津野なかつの村。益田とも記される。永享六年(一四三四)二月一日の平田氏宗寄進状(旧記雑録)によると、「帖佐浜益田村内御供田六段」と蒲生米丸よねまる(現蒲生町)内の四段が正八幡宮(現鹿児島神宮)宝前に寄進されている。弘治四年(一五五八)二月吉日の島津氏老臣連署坪付(旧記雑録)からは、小城こじよう権現(現鹿児島市)に帖佐内の「益田門之内市ノ坪」の一段の地が寄進されたことが知られる。


増田村
ますたむら

[現在地名]平内町増田

明神みようじん川の上流に位置し、東は高地こうち山を隔てて田茂木たもぎ村、南は野内のない(現青森市)、西は浅虫あさむし(現青森市)、北は山口やまぐち村に接する。山口村の支村で、享保六年(一七二一)頃の弘前勘定奉行所の領内新古村名帳(平内志)に村名がみえる。


増田村
ますだむら

[現在地名]佐賀市鍋島町なべしままち大字鍋島字増田

益田村とも記す。北を嘉瀬かせ川に接し、西を鍋島なべしま村、東を岸川きしかわ村・蠣久かきひさ村・津留つる村、南を木角きのつの村に接する南北に細長い村。集落は水害を考慮して嘉瀬川の堤防近くに立地している。近世、佐賀本藩の蔵入地で正保絵図に村名がみえる。村内に南小路・北小路・江口分・中村の地名があり、天保九年(一八三八)の地米(年貢)高は四八四石八斗六升四合。


増田村
ますだむら

[現在地名]三木市細川町増田ほそかわちようますだ

大柿おおがき村の東、美嚢みの川の支流小川おがわ川の下流域に位置する。慶長国絵図に「いけ田升田村」とみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる。正保郷帳でも明石藩領で、田方一六六石余・畑方三二石余。「寛文朱印留」では升田村と記され、明石藩領。


増田村
ましたむら

[現在地名]小見川町増田

下小堀しもこぼり村の西に位置する同村の枝郷。寛文四年(一六六四)の内田正衆領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、下野鹿沼藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一〇〇石で同藩領。寛文三年の年貢米は三二石余、宝永七年(一七一〇)には四八石余(小見川町史)。宝暦一三年(一七六三)の取米三八石余で小物成永八七四文、家数二三・人数一二六(高野家文書)


増田村
ますだむら

[現在地名]佐賀市北川副町きたかわそえまち大字光法みつのり字増田

蓮池はすのいけ往還にある江上えがみ村から南下して早津江はやつえに至る途中、光法村との中間の街村である増田宿と、その東の水田の中にある集村の増田村に分れる。正保絵図に村名がみえる。

寛政元年(一七八九)の巡見録によれば石高二五七石余、人数一二〇人余、家数二〇軒余とあって当時は比較的小さな村であり、地成じなり(段当年貢米)は九斗二升。


増田村
ますだむら

[現在地名]夷隅町増田

行川なめがわ村の西、夷隅川左岸に位置し、大多喜おおたき往還が通る。益田とも記した(天保郷帳)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一七二石。寛文四年(一六六四)の堀直景領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、苅谷藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

大臣政務官

各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...

大臣政務官の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android