日本歴史地名大系 「上大岡村」の解説
上大岡村
かみおおかむら
近世は元禄一〇年(一六九七)まで幕府直轄領、以後は旗本荒川・倉橋領の二給となる。田園簿は大岡村一村扱いで、日損場として高七二六石余、うち田四五七石余・畑二六九石弱と記す。正保四年(一六四七)年貢割付状(県史六)では高二九五石余、反別は田二六町四反余、畑一七町四反余。寛文五年(一六六五)年貢割付状(同書)では高三一九石余、田二七町四反余、畑二二町六反余と増すが、明治三年(一八七〇)村明細帳(横浜開港資料館蔵)でも三二二石余、田二五町五反余、畑三六町七反余と高においてはあまり変わらない。津出しは
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報