日本歴史地名大系 「関村」の解説
関村
せきむら
- 岐阜県:関市
- 関村
現関市の中央部、
〔中世〕
建武三年(一三三六)八月一〇日の鷲見忠保軍忠状写(長善寺文書)に「関迫北野」とみえ、この日忠保は、北朝方の東常顕や土岐頼春の代官らと当地、
関村
せきむら
佐賀関半島の先端部に位置し、
〔中世〕
中世の佐賀関は現在の大字関・
関村
せきむら
北は日本海に面し、道路が海岸沿いにほぼ東西に発達し、西は
天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「
関村
せきむら
現町域の西部中央に位置し、西方に沼地が広がる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五〇九石。正保国絵図でも同高。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では関組に属し、大多喜藩領二〇〇石のほか旗本土屋領三〇〇石・同中川領三〇石・同加藤領四五石余。天和三年(一六八三)頃
関村
せきむら
東は山を境に
近世は寛文二年(一六六二)から九年の久世(のち下総関宿藩)領、元禄五年(一六九二)から七年の柳沢(のち大和郡山藩)領を除き幕府直轄領。
関村
せきむら
関村
せきむら
- 山形県:米沢市
- 関村
天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録によれば、中野常陸介に関のうち小原掃部分「二間并切田五百かり」などが与えられ、下関など五ヵ郷は棟役・田銭・諸公事が免除された。
関村
せきむら
慶長一七年(一六一二)の由利郡御検地帳(本荘市立図書館蔵)に「仁賀保上浜之内関村」として四〇石余が記される。また「塩竈仁筒 六貫六百六十二文」とあり、「山手・横岡山手・ぼんしほ・かと松しほ」の貢租が記される。領主の変遷は、
高は元和九年(一六二三)に九九石九斗三升二合で(「仁賀保総高改」渡辺文書)、元禄一〇年(一六九七)には一六〇石六斗三升四合八勺と増加し、六〇石七斗二合八勺が新田(出羽国由利郡村付帳)。天明八年(一七八八)には一八八石余、一三町九段三畝六分、免四ツ七分五厘とある(庄内御預所由利郡拾壱ケ村御案内帳)。
関村
せきむら
東境から南境を関川が西流し、西部を南流する筑後川と南西で合する。東は
「和名抄」の
関村
せきむら
南は関崎の
関村
せきむら
- 東京都:練馬区
- 関村
関村
せきむら
関村
せきむら
- 千葉県:富津市
- 関村
関村
せきむら
七ヶ宿街道
関村
せきむら
- 大分県:日田市
- 関村
慶長豊後国絵図に村名がみえ、高五〇石余。
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
- 千葉県:佐原市
- 関村
下総台地北端部、
関村
せきむら
- 福井県:敦賀市
- 関村
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
関村
せきむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報