関村
せきむら
[現在地名]関市本町・栄町・伊勢町・末広町・住吉町・相生町・上利町・新町・富本町・常盤町・金屋町・鍛冶町・十軒町・貴船町・河合町・森西町・千年町・美和町・吾妻町・兼永町・前町・小柳町・白川町・吐月町・春日町・日ノ出町・山ノ手・孫六町・東日吉町・西日吉町・元重町・坂下町・平和通・西木戸町・東桜町・桜本町・若宮町・川間町・辻井戸町・緑町一―二丁目・朝倉町・月見町・いろは町・桜木町・南春日町・豊川町・梅ヶ枝町・一ッ山町・梅竜寺山・西欠ノ下・神明町一―四丁目・明生町一―五丁目・稲河町・稲河・寿町一―二丁目・南町・新堀町・古屋敷町・寺内町・一本木町・赤渕・片倉町・柳町・東居敷・中居敷・西居敷・十六所・力山・春里町一―三丁目・馬場出・段下・巾・東仙房・南仙房・西仙房・北仙房・向西仙房・東貸上・西貸上・南貸上・竪切北・竪切南・山ノ後・西本郷通一―三丁目・大坪・安桜山・安桜台・居敷町・宝山町・貸上町・緑ヶ丘一―二丁目など
現関市の中央部、津保川北岸に位置し、北部に安桜山があり、その南麓を津保街道が通る。刀剣・打刃物の産地、物資の集散地として栄え、町場を形成した大村。武儀郡に属し、北東は吉田村、西は小瀬村、北は下有知村、南は津保川を隔てて稲口村・倉知村。「新撰美濃志」に「景行天皇美濃に行幸し給ひし時、非常まもりのため関を置かれし地なり」とあり、これを地名の由来とし、一ッ山の麓に関所旧跡の碑が建つ。律令制下に小関が設置されていたとも伝え、字小瀬木の名が残る。
〔中世〕
建武三年(一三三六)八月一〇日の鷲見忠保軍忠状写(長善寺文書)に「関迫北野」とみえ、この日忠保は、北朝方の東常顕や土岐頼春の代官らと当地、迫(迫間)、北野(現岐阜市)を転戦し、南朝方の尾崎宮(尾張宮、高倉院の玄孫)と合戦に及んでいる。鎌倉期より刀鍛冶の活動が顕著となる。刀匠の諸系図によれば、弘長年間(一二六一―六四)九州から当地へ来住した元重は刀の鍛錬を始め、刀祖として崇拝されている。正元元年(一二五九)大和から兼永(一説には兼光)が、また越前から金重が来住し、刀鍛冶の祖となったともいう。享保五年(一七二〇)に書かれた関鍛冶七流之事(三宅文書)によると、関鍛冶元重と子金重は建武年間に相模国五郎入道正宗と師弟関係にあり、その子金行は奈良手掻郷(現奈良市)の住人包永忠治郎の三男包光を婿にとり、兼光と名乗らせた。兼光の子孫は、至徳―応永年間(一三八四―一四二八)に善定(兼吉)・三阿弥(兼則)・奈良(兼常)・得印(兼安)・徳永(兼弘)・良賢(兼宗)・室屋(兼在)に分れ、「関七流」の派が成立。
関村
せきむら
[現在地名]佐賀関町関 田尻・上浦・鮮浜・黒砂・真砂・御幸・福水・大黒・小黒・幸之浦・田中・神山・迫・古屋敷・西町・辻・西脇・小浜
佐賀関半島の先端部に位置し、速吸瀬戸(豊予海峡)を挟んで伊予国佐田岬(現愛媛県三崎町)と対峙する。東北東に突出する半島の地頸部は天然の良港で、北に上浦湊(現佐賀関港)、南に下浦湊がある。また半島の東海岸には白ヶ浜・黒ヶ浜とよぶ景勝地があって、前者は白石、後者は黒石のみの海浜となっている。速吸瀬戸に浮ぶ高島・牛島、半島南方の蔦島も当村領。中世には佐賀郷に含まれ、佐賀関とよばれることが多かった。近世には郷帳類では関村で、村内の上浦・下浦・東町・西町の町筋を通称して佐賀関町といったようである(大分県史)。上浦・下浦には船番所が置かれ、肥後熊本藩の浦奉行が支配した。府内城下とは伊予街道(関往還)で結ばれ、ここから海路で佐田岬へ向かった。
〔中世〕
中世の佐賀関は現在の大字関・白木の全域と、大字志生木・一尺屋の一部に及んでいたと考えられる。内閣文庫本豊後国弘安田代注進状には「佐賀関十一町 関権現御神領、地頭兵庫助殿」とみえるが、豊後国弘安田代注進状には「佐賀関拾壱町 関宮殿、地頭大友兵庫頭入道殿」ともある。豊後国弘安図田帳にはこの記載は欠落している。「関権現」あるいは「関宮」とあるのは早吸日女神社のことで、兵庫助は守護大友頼泰のこと。頼泰が地頭職を帯しているのは、従来国衙が免田を給し、造営・祭礼等に関与していたことから、その管掌権が守護に継承されたものであろう。元徳二年(一三三〇)三月一七日、幕府は宇佐宮の遷宮ごとに庭石を佐賀関より調進することを命じている(「関東御教書写」益永文書)。貞治三年(一三六四)二月日の大友氏時所領所職等注進状案(大友文書)には「佐賀関付臼杵・佐伯両庄 内関宮」と「佐賀郷」とは別の所領単位として記されているが、永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)では「佐賀郷付佐賀関并一尺屋」と一本化されている。天文二二年(一五五三)九月二〇日の佐賀郷関公領地検帳(早吸日女神社文書)に「大さかい之事」として「ひかしハたかしま・せき崎・つたしまをかきり」「きたハたかとうかミをかきり、うししまより小しうきまて也」とあり、牛島・高島・蔦島から小志生木までを領域内と考えていたようである。
関村
せきむら
[現在地名]深浦町関
北は日本海に面し、道路が海岸沿いにほぼ東西に発達し、西は金井ヶ沢村、東は島村に接する。
天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「西船関」とみえる。元和五年(一六一九)に関村(津軽一統志)、正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳に西之関村とあるが、貞享四年(一六八七)の検地帳は関村で、その後は関村とよばれたと思われる。村名はこの地の関門に由来するという(西津軽郡史)。津軽の豪族安東氏の内紛は元亨二年(一三二二)から嘉暦三年(一三二八)にかけて続き、津軽大乱・津軽騒動ともよばれ、鎌倉幕府滅亡の要因になったという。「諏訪大明神絵詞」によれば、「外浜内末郡西浜折曾関城郭を構て相争ふ。両の城嶮岨によりて洪河を隔て雌雄互に決しかたし」とあり、季久と季長の軍が外ヶ浜内末部(現青森市)・西浜折曾関(打差関とも)に城郭を構えて争い、洪河を隔てて戦ったが、容易に雌雄を決しなかった。折曾関・洪河がどの地をさすかについて諸説がある。元徳二年(一三三〇)六月一四日の安藤宗季譲状(新渡戸文書)に「みちのくにつかるにしのはませきあつまゑをのそく事」とあり、建武二年(一三三五)閏一〇月二九日の安藤高季宛の北畠顕家国宣(新渡戸文書)にも「同西浜除安藤次郎太郎後家賢戎知行分開(関カ)阿曾米等村地頭職事」とあり、「あつまゑ」は「阿曾米」が正しいともされるが、折曾関を関村付近に比定する点では諸説はほぼ一致する。
関村
せきむら
[現在地名]白子町関
現町域の西部中央に位置し、西方に沼地が広がる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五〇九石。正保国絵図でも同高。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では関組に属し、大多喜藩領二〇〇石のほか旗本土屋領三〇〇石・同中川領三〇石・同加藤領四五石余。天和三年(一六八三)頃観音寺村を分村したという(上総国町村誌)。元禄郷帳では高五九九石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一千一二石余で家数一四八、幕府領と館山藩領・旗本浅野領。天保郷帳では高一千五七石余。旧高旧領取調帳では館山藩領三七九石余・鶴牧藩領三九四石余・旗本神谷領一四五石余・浅野領一二七石余と幕府領九石余。改革組合村の寄場。享和二年(一八〇二)の村明細帳(大多和家文書)によれば、砂悪地で溜井があっても保水力がなく、川付の田畑は潮が押上げ被害を受けた。
関村
せきむら
[現在地名]港南区笹下一―三丁目
東は山を境に森公田村(現磯子区)、西は雑色村・吉原村、南は田中村(現磯子区)、北は松本村に続く。新川(笹下川)は大岡川の上流で、田中村から松本村に流れる。幅二間。村内に金沢道・日野道・森道の三筋が通る。中世は松本・雑色とともに杉田郷のうちにあり、昔は下郷三村を下笹下と称したという(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)四月日豊臣秀吉禁制(県史三)に「武蔵国久良岐十二郷内杉田三ケ村」と出る。正保国絵図には下郷村、元禄国絵図で下郷関村となる。
近世は寛文二年(一六六二)から九年の久世(のち下総関宿藩)領、元禄五年(一六九二)から七年の柳沢(のち大和郡山藩)領を除き幕府直轄領。
関村
せきむら
[現在地名]塩沢町関
関山村の北。東の魚野川対岸は姥島新田、北は上一日市村、西は上野村。三国街道の宿場で、塩沢村へ二里八町、湯沢村(現湯沢町)へ一里二八町。集落は三国街道沿いと、同街道を分岐する十二峠越の道沿いにある。石神・小黒川・関谷新田の支集落がある。一五世紀末頃の北野社社領目録写(北野神社文書)に「一、越後国上田庄関郷」とみえ、京都北野天満宮領であった。年不詳の上葺萱注文(雲洞庵文書)に雲洞庵の上葺萱を供出する地に「□□四百把 関郷 長尾肥前守」とある。年不詳九月一八日付の上村尚秀書状(上杉家文書)には「関之江」とある。
関村
せきむら
[現在地名]米沢市関・関町
立石村の南東に位置し、大樽川の上流沿いの狭小な河岸段丘上と後背山地に立地。村の北端を米沢城下に発する会津街道が通り、関所が設けられていたことからの村名とされる。関宿は立石村の船坂峠と綱木村の綱木峠の間に位置する重要な宿場で、江戸時代末までには街道沿いの宿場機能をおもに担当する地を関町として分離していた。なお地内の大樽川沿いに白布温泉を経て檜原村(現福島県耶麻郡北塩原村)に至る間道があった。天正一四年(一五八六)と推定される三月一六日の伊達政宗書状写(政宗君治家記録引証記所収文書)によれば、檜原城塞(現北塩原村)普請のため当村から人足を出させている。
天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録によれば、中野常陸介に関のうち小原掃部分「二間并切田五百かり」などが与えられ、下関など五ヵ郷は棟役・田銭・諸公事が免除された。
関村
せきむら
[現在地名]象潟町関
奈曾川河口左岸にあり、東は小滝村、南は中野沢村に接する。
慶長一七年(一六一二)の由利郡御検地帳(本荘市立図書館蔵)に「仁賀保上浜之内関村」として四〇石余が記される。また「塩竈仁筒 六貫六百六十二文」とあり、「山手・横岡山手・ぼんしほ・かと松しほ」の貢租が記される。領主の変遷は、川袋村と同様。
高は元和九年(一六二三)に九九石九斗三升二合で(「仁賀保総高改」渡辺文書)、元禄一〇年(一六九七)には一六〇石六斗三升四合八勺と増加し、六〇石七斗二合八勺が新田(出羽国由利郡村付帳)。天明八年(一七八八)には一八八石余、一三町九段三畝六分、免四ツ七分五厘とある(庄内御預所由利郡拾壱ケ村御案内帳)。
関村
せきむら
[現在地名]南関町関村
東境から南境を関川が西流し、西部を南流する筑後川と南西で合する。東は関下村・北関村、西は筑後国三池郡(現大牟田市)と接する。「一統志」に「関町・本村・東村・外目・下村」の五所を南関というとあり、四村は本村である当村からの分村である。村名は大津山関に由来し、「南関紀聞」などによれば同関の南を「関の南」、北を「関ノ北」と称してきたのが、のちに南関・北関になったという。
「和名抄」の大水郷は南関一帯に比定され、「延喜式」(兵部省)に記す駅馬五・伝馬五を置いた大水駅があり、同駅は大字関町に一説では比定される。南関は元亨元年(一三二一)の阿蘇社進納物注文写(阿蘇家文書)の初米進納所々注文に「ミなミのせき」とあり、権大宮司請取分として田作祭料に充てられている。
関村
せきむら
[現在地名]相川町関
南は関崎の禿の高を越えて矢柄村、北は境島を境に五十浦村、東は大佐渡山地の尾根で北松ヶ崎村(現両津市)。集落は山の崖下から海岸低地にあり、関崎の陰になる入江の北側に、弘法大師修行の伝説がある(佐渡相川の歴史)禅棚岩の巨岩が海に突出る。北の寒戸崎は背後の知行山が中世に岩崩れを起こし、浜を埋めてできた岬で、貉伝説をもつ寒戸神社がある。南の関崎は、大佐渡山系の山塊が断崖となって海に落ちる巨大な岩山で、禿の高とよばれ、標高は一〇〇メートルを超す。海浜の歩行はまったく不能で、矢柄村からは急勾配の岩肌を登らねばならず、途中に橋掛難所という岩の間に丸木を渡した危険な橋が二ヵ所あるなど、交通の大難所として知られた。
関村
せきむら
[現在地名]練馬区関町北一―五丁目・関町東一―二丁目・関町南一―四丁目・立野町など
上石神井村の西に位置。石神井川が流れ、青梅街道が中央を東西に通る。南部を千川上水が東流する。西は新座郡上保谷村(現西東京市)、北は同郡小榑村、南は多摩郡吉祥寺村・西久保村(現武蔵野市)。豊島郡に属し、多摩・新座両郡境に位置する。村名は豊島氏が石神井城に拠点を置いた頃、関を構えたことに由来するという(風土記稿)。寛永一六年(一六三九)の検地帳(井口家文書)によると田四町二反余・畑一六町二反余。
関村
せきむら
[現在地名]美里町関
山崎山丘陵の西麓から志戸川流域の水田地帯にまたがり、微高地上に芝原・沖屋敷・八幡関・小関・大関・倉柱・川輪などの集落がある。東は山崎山丘陵の尾根通りを境に榛沢郡今泉村・山崎村(現岡部町)、南と北は阿那志村に挟まれ、西は根木村。北と西では複雑に入組む条里区画が境界となっていたが、圃場整備により消滅。川輪は猪俣党川勾氏の名字の地とされ、猪俣党系図(諸家系図纂)によると猪俣忠基の子政基が川勾野五郎を称している。
関村
せきむら
[現在地名]富津市関
大田和村の南、湊川上流域に位置する。村名は戦国期に関所が置かれていたことに由来するとされ、湊村から松節村の木ノ根峠を越えて安房方面に向かう往還が通る。往還継立場で、鹿野山へ通じる往還と三差路になっていた。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二二五石。寛文四年(一六六四)の松平忠勝領知目録(寛文朱印留)に記され、佐貫藩領。支配領主の変遷は田原村と同様。元禄郷帳では高二七二石余で、幕末も同様。嘉永二年(一八四九)の下総小金原の鹿狩では当村市左衛門が生きた猪九疋を高柳村(現沼南町)まで運ぶ人足一行の大宰領を勤めている(三浦家文書)。
関村
せきむら
[現在地名]七ヶ宿町 関・横川・長老
七ヶ宿街道滑津宿の南東にある宿場町。東流する白石川の右岸、同川には刈田岳などを水源とする横川が注ぐ。村名は往古置かれた関所に由来すると伝え、その跡が宿場内にあったというが不明。天文七年(一五三八)の段銭古帳の苅田のうちに「十貫五百文 関中山」とあり、当村に比定される。同二二年集成の晴宗公采地下賜録には「関」とみえ、伊達家宿老の中野常陸介に与えられている。これより先、南北朝期末に出羽国置賜郡(現山形県)の長井氏攻略に向かう伊達家九代政宗を道案内した渡部尾張は賞旗と歌を受け、「安永風土記」に一七代相続の代数有之百姓として記され、また近世を通じて肝入検断役を勤めた。
関村
せきむら
[現在地名]日田市夜明 夜明関町
祝原村の北西方、三隈川右岸、日田郡最西端に位置する。寿永二年(一一八三)大宰府からの平家方の侵入を大蔵永秀が防いだという櫛崎城は字城の付近とされる。日田郡司職次第(東京大学史料編纂所謄写本)の永秀の条に櫛崎・小城の城郭とあり、永秀は櫛崎城に引籠り待機していたところ両三度にわたって原田種直が押寄せたが、これを防ぎ、追返したという。
慶長豊後国絵図に村名がみえ、高五〇石余。
関村
せきむら
[現在地名]落合町関
山地を境に日野上村の西に位置し、南は一色村、北は月田村(現勝山町)。南部は関川(別所川)流域の平坦地、北部は月田村境の高千里山(五六九・五メートル)南麓にあたり、関川支流初摩谷川が南東流する。西方清水山にある高野山真言宗清水寺の応永一一年(一四〇四)一一月一五日銘の鰐口に「美作国関郷」とある。正保郷帳では田高二五七石・畑高三五一石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によると村位は下、改出高一九一石余・開高五七石余。
関村
せきむら
[現在地名]田子町関
熊原川の上流左岸の山間地に位置し、鹿角街道に沿う。東は山口村、西は夏坂村に接する。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に関村、一二九石とあり、同年の郷村帳によれば一二九・八二六石のうち八九・六三九石が田であった。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に高九七・〇八一石とあり、七ヵ年平均の免は一ツ一分一厘九毛。同書に関村新田、高二八・七四石とみえ、新田開発が行われている。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には蔵分一〇五・一石余、給分六石余とあり、家数は四六、うち支村川原沢二、合内一で、馬七六疋を飼養。
関村
せきむら
[現在地名]酒田市関
横代村の北、庄内平野の東辺近くの新井田川上流右岸に位置する。平安時代を主体とした集落跡の北田遺跡・関B遺跡があり、正平二年(一三四七)の年紀を有する板碑がある。
元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高五三九石余と九七石余で六三六石余。寛永元年庄内高辻帳の高八七五石余。正保郷帳によると田方八三四石余・畑方五〇石余。
関村
せきむら
[現在地名]久美浜町字関
佐濃谷川の支流三原川の下流部、谷の北側山麓に長く続く。村の上から三原川の水を引き、集落の中を東西に水路をつくっている。集落の裏山や三原村に至る三原川沿いの谷に古墳が分布する。
中世末の丹後国御檀家帳に「二ふんかた たむらせきのとう 家百五十斗」とあり、関弥三郎ほか二名の名が記される。現在集落の上に「せきのとう」という地名があり、「二ふんかた」は関村付近をさすと思われる。
関村
せきむら
[現在地名]いわき市常磐関船町
湯本川下流に位置し、北は湯本村、東は水野谷村、南は上船尾村。磐前郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛文一〇年(一六七〇)以降湯長谷藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録にせきの村とあり、高二四一石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)には関之村とみえ、高三九〇石余。正保郷帳でも関之村とあり、田方二九四石余・畑方九五石余。元禄郷帳では高三〇五石余。天保九年(一八三八)の御巡見様御案内覚帳(福島県史)では高三〇五石余、免は田五ツ八分・畑六ツ九分、家数一九・人数八四、馬一一で、湯本村との境界をなす川に架かる橋は両村寄合で架けるという。
関村
せきむら
[現在地名]浦和市関一―二丁目・田島四丁目・新開三丁目・鹿手袋一丁目・同七丁目・関
鹿手袋村の北にある。荒川の沖積低地に立地し、一部洪積台地(大宮台地与野支台)の先端がかかっている。平野原の新開地に入会の新田がある。古くは鹿手袋村の内であったという(風土記稿)。田園簿では田四一石余・畑一八石余で、旗本水野領。承応(一六五二―五五)の頃上知となったとされ(郡村誌)、国立史料館本元禄郷帳では幕府領で、同領のまま幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」・改革組合取調書など)。
関村
せきむら
[現在地名]佐原市関
下総台地北端部、大須賀川右岸に位置し、北は上小川村。同川東方の丘陵に集落が形成され、丘陵周囲の低地や谷に耕地が広がる。慶長四年(一五九九)の矢作領検地では検地高三五一石余(「部冊帳」伊能家文書)。村高は幕末までほぼ同じ(旧高旧領取調帳など)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では江戸町奉行松前嘉広領。享保四年(一七一九)当時は江戸町奉行の与力給知となっており(前掲部冊帳)、幕末まで同給知であったとみられる(前掲取調帳)。
関村
せきむら
[現在地名]敦賀市関
金山村の西、若狭街道の最西端に位置する。集落より四、五町西に関峠があり、越前・若狭の国境をなす。国境石より敦賀町まで二里三四町、若狭小浜まで九里。応永二九年(一四二二)三月一七日付斯波義淳西福寺々領安堵状(西福寺文書)に「金山郷内関」「関村」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図および正保郷帳でも金山村に含まれ、元禄郷帳で「金山村枝郷関村」と出、高四四七石余となる。享保一二年(一七二七)の敦賀郷方覚書には「金山村之内関」とあり、庄屋市左衛門(持高一二石余)、夫役一ツ二分、夫米九俵二斗余、馬足二五疋、牝馬九、牛六、家数四二(うち高持二二・無高一八)、人数一九八。
関村
せきむら
[現在地名]君津市加名盛
小櫃川左岸にあり、西対岸は切畑村。集落は同川と沢との合流地点に展開する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳(荻野本)に村名がみえ、高八八石。元禄郷帳では高五一石余。村高の減少は、文禄の村高帳にみえない上関村・下関村が元禄郷帳では別に記されていることによると思われ、天保郷帳では高五二石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は向郷村に同じ。
関村
せきむら
[現在地名]前沢町古城
前沢村の北に位置し、奥州街道が通る。寛永期(一六二四―四四)当村の給人は石川大和で、寿庵堰を開いたキリシタン後藤寿庵が逃亡したあと、当村肝入千田左馬が目呂木村の遠藤大学とともにその業を引継ぎ、下流の開堰を計画、同二年石川大和の許可を受け、左馬堰といわれる関係八ヵ村の大工事を完成させた(水沢市史)。正保郷帳によると田方七三貫七九七文・畑方六貫五九九文、ほかに新田高一四貫九四四文。「安永風土記」では田八九貫四六〇文・畑七貫一八文(うち茶畑一〇文)、うち蔵入五一貫三七八文・給所四五貫一〇〇文。
関村
せきむら
[現在地名]新里村関
山上村の北に位置し、北東は高泉村、北は板橋村。赤城山南麓の緩斜面で標高二五〇―二七〇メートル。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳によると田方九〇石余・畑方六七石余。近世後期の御改革組合村高帳では家数二七、下野佐野藩領。安政七年(一八六〇)の御用炭調書上帳(小池文書)によれば、同四年に伊勢崎へ一千四六〇俵余、寺井(現太田市)へ二一〇俵、平塚(現佐波郡境町)へ七七〇俵余の薪炭を出荷。明治五年(一八七二)の書上帳(同文書)によれば、万延元年(一八六〇)から明治四年までの年平均として、繭三石余・生糸一千六九五石余の生産が知れる。
関村
せきむら
[現在地名]大江町字関
河守町の北東部、宮津街道と河守街道の交差地点にあたり、かつて関所が置かれていたと伝える。
慶長検地郷村帳に高六七七・二六石「河守庄関共」と記されるが、延宝三年郷村帳には河守町に続いて「同関村分」高一〇四・二石とあり、河守町の枝村であった。延宝九年(一六八一)の延高で一三〇・四一四石となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領。
現河守町境の坂を上りきったところの溝に橋が架かり、幣こけ橋という。
関村
せきむら
[現在地名]石井町高原 関
平島村の西に位置し、西は牛島村(現鴨島町)、南は上浦村・諏訪村。北部を吉野川が東流する。地名の関が示すように往時の吉野川やその支流の跡に立地する。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「せき」とみえる。慶長二年の分限帳によると長谷川兵庫助が二五八石余を知行。正保国絵図では高二五一石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方九石余・畠方二四二石余。
関村
せきむら
[現在地名]富山市関
鼬川左岸に位置する富山藩領の村。南東は中屋村、対岸は加賀藩領新名村。成立の経緯は中屋村と同じ。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)に村名がみえ、高五二四石。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高五二四石余・定免二ツ八歩、新田高四一石余・平均免一ツ二歩七厘、定小物成先野役一四匁余・鮎川役一三匁・月岡新野役三六匁余。
関村
せきむら
[現在地名]吉川町関・吉川団地
吉川村の北に位置し、村の西を古利根川、東を二郷半領用水が流れる。元禄年間(一六八八―一七〇四)に関新田を分村したという(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高二四四石余・畑高四〇石余で、幕府領。
関村
せきむら
[現在地名]岡山市関
赤田村の東にあり、山陽道が通る。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の幡郷に村名があり、寛永備前国絵図では高七〇六石余、正保郷帳には水損所と注記がある。「備前記」によると平場の集落で、山陽道の茶屋があった。「備陽記」では田畑四五町一反余、家数四九・人数二九三。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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