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上杉斉憲 うえすぎ なりのり

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美術人名辞典の解説

上杉斉憲

幕末・明治の大名。米沢藩主。上杉斉定の子。幼名鶴千代・喜平次のち斉定、通称弾正大弼、号は曦山。嘉永6年(1853)洋式製錬法によって大砲を鋳造、安政4年(1857)藩士に洋式小銃を採用して洋式操練を行った。文久3年(1863)京師の警固にあたる。明治元年(1867)朝廷に松平容保の赦免を嘆願するが失敗、官位を奪われ隠居、嫡子茂憲に家督を譲った。明治22年(1889)歿、70才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

上杉斉憲 うえすぎ-なりのり

1820-1889 江戸時代後期の大名。
文政3年5月10日生まれ。上杉斉定の子。天保(てんぽう)10年出羽(でわ)米沢藩(山形県)藩主上杉家12代となる。戊辰(ぼしん)戦争の際,奥羽鎮撫総督府に陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)への寛大な処置をのぞんだが拒否され,陸奥仙台藩主伊達慶邦(よしくに)と奥羽越列藩同盟を組織。敗れて隠居を命じられた。明治22年5月20日死去。70歳。通称は喜平次。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

上杉斉憲

没年:明治22.5.20(1889)
生年:文政3.5.10(1820.6.20)
幕末の米沢(山形県)藩主。父は上杉斉定。幼名は鶴千代,号は曦山。天保10(1839)年襲封した。藩政においては軍制改革に努め,文久3(1863)年京警衛を幕府より命じられた際に観兵式で西洋式操練を見せた。同年,攘夷親征の猶予を奏請する一方,8月18日の政変後の長州藩を弁護した。鳥羽・伏見の戦(1868)が勃発すると,秋田・盛岡・仙台諸藩と共に会津藩征討を命じられたが,諸藩代表と白石城に集合,協議して同藩赦免を奥羽鎮撫総督に嘆願した。それが却下されたため奥羽越列藩同盟を結ぶに至る。明治1(1868)年9月いち早く降伏し,子の茂憲が会津征討に参加したため寛典に処せられ,12月に命じられて隠居した。<参考文献>『米沢市史』

(長井純市)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の上杉斉憲の言及

【奥羽越列藩同盟】より

…6月に,盟主は,輪王寺宮に変えられて,諸藩の平等な連合の性格が打ち出され,公議府を白石城に置いた。総督に仙台藩主伊達慶邦(よしくに)と米沢藩主上杉斉憲(なりのり),参謀に旧幕臣の小笠原長行(ながみち),板倉勝静(かつきよ)を任じて指導部とし,全国的な反新政府の戦略を構想し,新政権樹立を意図する動きもあった。同盟軍は,一部で勝利を収めたものの,北陸では,かなめとなる長岡藩が7月に敗北し,東北でも,同じく7月に秋田藩が同盟を脱退して苦境に陥った。…

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