上竹田村
かみたけだむら
[現在地名]市島町上竹田・矢代
東を竹田川、西を前山川が流れ、南は岡本村、東は高谷山(四四三・四メートル)を隔てて天田郡田野村・長田村(現京都府福知山市)。丹後への道が通る。十市・段・宿・宮ノ下・今中・十方寺・八日市・片瀬、倉崎などからなる。寛永一一年(一六三四)亀山藩領となり、正保郷帳に村名がみえ田高九七八石余・畠高二二五石余、芝山あり、日損所。寛文四年(一六六四)幕府領となり(鶴牧藩大概帳など)、天和二年(一六八二)から幕府と旗本本多氏との相給(「寛政重修諸家譜」など)、元禄一一年(一六九八)より幕府・旗本藤堂氏・旗本松野氏の相給となる(同書など)。
上竹田村
かみたけだむら
[現在地名]神辺町上竹田
下竹田村の東、竹田川の上流域を占める。東は備中国。室町時代には三吉鼓氏の支配下にあり高富庄に含まれた。江戸初期に竹田が上下に分れて上竹田村が成立。元和五年(一六一九)の備後国知行帳によれば高六二四石余、元禄一三年(一七〇〇)の上竹田村御検地水帳(広島大学蔵)では反別七九町余・高九三七石余。福山藩水野家断絶後幕府領、元禄一三年福山藩領に復帰。
「備後郡村誌」に「山六合田畑四合村ニ御座候、但四歩旱損所、六歩水損所」とあり、草山二九ヵ所・一二町余、野山三ヵ所・四〇町余、池一七、宮社一五、堂九があり、宝永八年(一七一一)の家数七一・人数四五五、馬七・牛二一、郷蔵一。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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