銅鐸(読み)ドウタク

デジタル大辞泉 「銅鐸」の意味・読み・例文・類語

どう‐たく【銅×鐸】

弥生時代青銅器の一。扁円へんえん形の釣鐘形をしたベルで、高さ20~150センチ、上部に半円形のつまみと両側にひれをもつ。中に吊り下げた棒(ぜつ)と触れ合って実際に鳴るベルから、装飾過多の見るベルに変質。表面に原始絵画や文様を施す。近畿を中心に四国・中国・中部地方にかけて出土。農耕祭器であったと考えられている。

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共同通信ニュース用語解説 「銅鐸」の解説

銅鐸

銅鐸どうたく 弥生時代、近畿圏を中心として農耕祭祀さいしに使われたとされる青銅器。これまで500個以上見つかっている。多くが集落から離れた山や谷に埋められたが、その理由はよく分かっていない。2015年に見つかった松帆まつほ銅鐸には、加茂岩倉かもいわくら遺跡(島根県雲南市)の銅鐸と同じ鋳型から作った「兄弟銅鐸」が含まれる。荒神谷こうじんだに遺跡(同県出雲市)の銅鐸と兄弟関係のものもあり、銅鐸ネットワークの解明が期待されている。

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精選版 日本国語大辞典 「銅鐸」の意味・読み・例文・類語

どう‐たく【銅鐸】

  1. 〘 名詞 〙 彌生時代の青銅製儀器。ベル状で、舌(ぜつ)をもつ少数例があるので、楽器としての機能もあったと考えられるが、宗教的儀器・宝器として用いられたものが主。身は鐘を扁平にしたような形で薄く、曲線・直線の幾何学文を付し、人物・動物・家屋などが鋳出されているものがある。多く畿内を中心として発掘される。
    1. 銅鐸〈静岡県細江町出土〉
      銅鐸〈静岡県細江町出土〉
    2. [初出の実例]「村君東人得銅鐸於長岡野地而献之」(出典:続日本紀‐和銅六年(713)七月丁卯)

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改訂新版 世界大百科事典 「銅鐸」の意味・わかりやすい解説

銅鐸 (どうたく)

弥生時代に祭りに使われたとみられる青銅製のカネ()。中国古代の(たく)とは性格を異にし,むしろ鈴(れい)の系譜を引く((すず))。近畿地方を中心として,西は島根,香川,高知,東は福井,岐阜,長野,静岡の各県にいたる範囲で,土中に埋納した状況で400個ほど見いだされている。銅鐸の鋳型は,大阪,奈良,兵庫県下で約20個体分見いだされているほか,福岡,佐賀県下でも各1個ずつ見いだされており,銅鐸を使用する祭り自体も,近畿地方を中心とする地帯だけでなく,九州地方でも行われたに違いない。

銅鐸は本来,吊(つ)り下げて,中空の身(み)(鐸身(たくしん),カネの本体)の内部に吊(つる)した舌(ぜつ)と呼ぶ棒と触れあって音を発するものであった。身の平面はレンズ形ないし円形で,上端は閉じて終わり(上面を舞(まい)と呼ぶ),しだいに裾開きになって下端は開いたまま終わる。身の上面には,鈕(ちゆう)すなわち吊り手が直立する。鈕からは身の相対する2方に,連続して下端もしくは下端近くまで,鰭(ひれ)と呼ぶ扁平な装飾部分がのびており,これによって身は二つの面に分かたれる。身の下端に近い内面には,内面突帯が,1条ときには2~3条めぐらされている。

 銅鐸には高さ十数cm,重さ百数十gのものから,134.5cm,46kgのものまであり,形や文様にもさまざまなバラエティがある。これを製作年代順に分ける仕事が銅鐸研究の基礎となる。銅鐸の分類案のうち,鈕の形状を基準として最古・古・中・新の4段階に分ける案をかかげておく。最古段階の銅鐸は,吊り下げる機能にふさわしい断面菱(ひし)形の鈕をもつ。古段階の銅鐸では,この断面菱形の部分の外側に,吊り下げるには不必要な扁平な装飾部分(外縁)が加わっている。中段階の銅鐸の鈕は,外縁をそなえるほか,断面菱形の部分の内側にも扁平な装飾部分としての内縁が付加されている。新段階の銅鐸の鈕は,中段階のそれと基本的に変わらない。しかし,鈕の輪郭や文様帯の境に,突線,つまり,普通の線よりも太く高く突出した線を用いており,また鈕を平面的に拡張する新しい方法として,鈕を馬蹄形に長く作るようになる。銅鐸は,この4段階の順にしだいに大型化,装飾のにぎやかさの傾向を強め,実用性を失ってゆく。最古・古段階の銅鐸と中段階の銅鐸の一部とには,舌との接触による磨滅を内面突帯にとどめるものがある。しかし新段階にはそれはまれである。最古~中段階を〈聞く銅鐸〉,新段階を〈見る銅鐸〉と呼び分けることによって両者の性格の違いは明瞭となる。

鋳造には,外型2,内型(中型(なかご))1の計3個の鋳型を必要とする。まず鰭の部分を境とする半面ずつの外型を2個作り,二つを合わせた中に土をつめ,銅鐸の形状のものを起こし,その身の部分の表面を一定幅(でき上がる銅鐸の身の厚さ)削り取って内型とする。外型二つを合わせて内型をはめこみ,内・外の鋳型の間隔を正しく保つため,両者間に型持(かたもち)/(かたもたせ)と呼ぶ支えを置く。鈕の側を下に,裾の側を上に置いた状態で溶けた銅(湯(ゆ))を注ぐ。大多数の銅鐸では,身の各面について上半左右,下端左右の各4個,上面2個,計10個の小穴をとどめているが,これは高温にも溶融しない材料で作った型持を置いたあとである。

 銅鐸をはじめとする弥生時代の日本製青銅器の原料が,大陸からもたらされたものか日本産かについては定説はない。しかし,銅鐸の成分として含まれる鉛についての同位体比の研究が進み,大陸産説が有力となり,しかも,最古・古段階の銅鐸に限って朝鮮半島の原料を用いたものがあり,それ以降は,もっぱら中国の原料によっている,と説明されている。

 銅鐸の鋳型は,1遺跡で1個体分見いだされる場合が多い。しかし,大阪府茨木市の東奈良遺跡では,古~中段階の9個体分以上が見つかっており,銅鐸鋳造のセンターの一つがここにあったことがわかる。京都府向日市鶏冠井(かいで)遺跡では,最古段階か古段階初めの鋳型が,Ⅰ期(前期),Ⅱ期(中期初め)の弥生土器と伴出し,銅鐸鋳造の年代がおそくもⅡ期にさかのぼる可能性を示している。最古・古段階の鋳型は石製であって,古段階の銅鐸には同一の鋳型から最高5個までの兄弟銅鐸(同笵(どうはん)銅鐸)が鋳造されたことが知られている。中段階には石製鋳型に加えて土製鋳型が出現普及し,新段階はもっぱら土製鋳型が使われた。

銅鐸のほぼ全面は文様で飾られている。斜格(斜格子)文,綾杉文,各種の渦文(渦巻文),斜めの平行線を三角形のなかにみたした鋸歯文,平行線のS字状曲折をくりかえした流水文などである。古段階を経て中段階にいたると部分部分によって飾る文様がかなり定まっている。身を飾る文様は銅鐸の文様を代表するものとしてとらえられ,身を横帯2帯以上によって区画したものを横帯文銅鐸(最古・古・新段階),横帯と縦帯とを交差させて田字形の4区(最古~中段階),用字形の6区(中~新段階)に身を分けたものを袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸,流水文を満たしたものを流水文銅鐸(古~新段階前半)と呼んでいる。なお,ほとんどすべての銅鐸の身の文様は,鋸歯文と3線以上の直線文とから成る下辺横帯によって下限を画されている。鰭には鋸歯文を飾ることが多い。鈕の文様は,外周を鋸歯文帯とし,断面菱形の部分を綾杉文帯とすることが多い。連続渦文もしばしばみられる。新段階では突線を用い始め,複雑に他の文様と組み合わせるようになる。

 銅鐸の文様が,鋳造の際の不手際によって不鮮明に仕上がった場合は,鏨(たがね)で補刻して文様を完成させていることが多い。文様が完全で,はじめて銅鐸はその役割を完全に果たし得ると考えられたものらしい。銅鐸の文様と絵画の一部とは,弥生土器のそれと共通しており,弥生土器を使った人びとが銅鐸の使用者だったことを示している。彼らは両者の文様,絵画の意味,働きをよく理解していたに違いない。これは中国殷・周の青銅祭器が,社会の上層の人びとのみによって使われ,それを飾る文様も彼らに独占され,彼らのみによって理解されていたことと対照的である。銅鐸は弥生土器に共通する文様・絵画とによって,そして墓に副葬されていない事実によって,個人に所有されたものではなく,地域社会の人びとによって共有され,共同の祭りに使われたものと理解される。

 銅鐸には絵画をもつものが40個ほどある。銅鐸全体の1割ほどにしか絵画がみられない事実は,それが銅鐸にとって不可欠ではなかったことを意味する。鋳損じなどによって絵画が不鮮明に仕上がった場合,文様の場合とは違って,鏨による補刻がみられない事実も,絵画自体がもつ二義的性格を示したもの。しかし銅鐸の働きに邪魔な画題が選ばれるはずはないから,銅鐸絵画の研究は,銅鐸の用途の追究には意義をもつことになろう。銅鐸絵画には,農耕賛歌を順を追って語る内容とみられるものもある(図参照)。

銅鐸を鳴らす場としては,稲作技術と一体となって到来した稲作儀礼にかかわる祭りほどふさわしいところはあるまい。大陸では家畜の頸(くび)に鈴を下げることは一般的であった。漢の馬鈴は朝鮮半島から日本の九州に及び,朝鮮半島独自の鈴,朝鮮式小銅鐸も九州に達している。しかし稲作伝来に際して,牛,豚,羊,ヤギ,馬などの家畜は日本に渡ってこなかったため,鈴は日本では祭りのカネとして発達し,大型化・装飾化して〈見る銅鐸〉に化した。

 銅鐸は,山,丘の傾斜面の頂上近くなどに穴を掘り,ここに横たえて埋めた状況で見いだされる。壁を石で築いたり天井石をかぶせた例はない。ただし岩の陰に隠したとみられる例はある。1個のみを埋納する場合が多いが,複数のこともあり,最高14個(神戸市桜ヶ丘遺跡)の埋納例がある。また,剣形祭器,戈(か)形祭器とともに埋納した実例があり,朝鮮製の多鈕細文鏡(たちゆうさいもんきよう)とともに埋納した1例もある。埋納の目的・意義こそ,銅鐸をめぐる最大の謎である。社会の変革,危急に際して埋め隠したとか,ヨーロッパ青銅器時代の〈商人のデポ〉のように,配布にそなえて埋め隠したとか,領域の境界に埋め,悪霊や敵対者の侵入を防いだとか多くの解釈がある。常日ごろは聖域に埋納し,祭りに際し取り出して使ったというのも一説であって,これについては土の神霊が銅鐸に宿り,これを取り出すことは土霊を地上に迎えることであり,埋めることは霊を土に戻すことである,という解釈も加えられている。いずれにせよ,一個人の死に際して人工の丘の墓,すなわち古墳を築造する社会になると,その頂上に立つ人にとって,個人の権威を高め守る神こそ必要であり,共同の祭り,共有の祭器は不要となる。銅鐸の祭りが終りを告げたゆえんである。

 近畿地方を中心にみられる銅鐸の分布範囲,九州地方を中心として中国・四国地方にのびる矛形祭器,剣形祭器,戈形祭器の分布範囲は,かつて,〈銅鐸文化圏〉〈銅矛銅剣文化圏〉として対峙する政治圏として理解され,後者が前者を征服し,畿内地方を中心として統一国家を樹立したと説明された。しかし,現在では,九州地方で銅鐸が鋳造されたこと,近畿地方においても剣形祭器,戈形祭器が鋳造され,前者は中国・四国地方,あるいは九州地方にまでおよび,後者は大阪湾沿岸に分布することが判明し,両分布圏をかつてほど明瞭に区分することは不可能になった。さらに,弥生時代の九州地方と近畿地方とを比較・評価するには,銅鐸や武器形祭器のみで行っても無意味であって,各種の遺物・遺跡を総合的に比較検討しなければならない。現状では,〈銅矛銅剣文化圏〉による〈銅鐸文化圏〉征服を積極的に示す証拠はなく,逆に,方形周溝墓とよぶ近畿地方に成立した墓が九州地方に及んでいるなど,反対の材料ともなりうる事実もある。なお,銅鐸をかたどった銅鐸形土製品や,銅鐸の形を小型化したような〈小銅鐸〉が九州から関東に至る範囲で見いだされている。
銅戈(どうか) →銅剣 →銅矛
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「銅鐸」の意味・わかりやすい解説

銅鐸
どうたく

弥生(やよい)時代に祭礼に用いた青銅製のベル。半環状の吊(つ)り手(鈕(ちゅう))を紐(ひも)にかけて下げ、中空の身(み)(鐸身(たくしん))の内側に棒(舌(ぜつ))を吊るして揺り鳴らすのが本来の鳴らし方である。銅鐸は近畿地方を中心として、西は島根・広島・香川・高知県、東は福井・岐阜・長野・静岡県に至る範囲内で、丘陵の斜面などに穴を掘って埋納、すなわち意識的に1個あるいは複数個を埋め納めた状況下でみいだされており、その総数は400個を超えている。

[佐原 真]

形・鋳造

銅鐸の身は筒状を呈し、平面は銀杏(ぎんなん)形ないしは円形、上端は閉じて終わり下端は開いたまま終わっている。身の両側には扁平(へんぺい)な装飾部分である鰭(ひれ)が突出している。身の内面の下端近くには突出した帯(内面突帯)が一、二条巡って舌と接触して発音する。多くの銅鐸には、身の各面ごとに上半の左右、下端の左右にそれぞれ2個ずつ、上面に2個、計10個の小孔が開いている。この型持(かたもたせ)(かたもち)の孔(あな)に関連して、銅鐸の鋳造の方法をみておこう。銅鐸をつくるための鋳型には、外型、内型との2種を必要とする。すなわち銅鐸の形の半面ずつ、計二枚の外型をまず用意し、これをあわせた中に別作りの内型を差し入れ、外型・内型のすきまに融(と)かした青銅を流し込む。この場合、外型・内型の間を正しく保つために用いる支えが型持であって、これが石か粘土か融けない材料でできているため、それを置いた場所が孔として残ることになる。

[佐原 真]

文様と絵画

銅鐸は、ほぼ全面を各種の文様で飾っている。身の文様を代表するのは横帯文、袈裟襷(けさだすき)文、流水文である。これらの文様は銅鐸にとって必要なものだったらしく、鋳造段階で不鮮明になったものは、あとから鏨(たがね)で補刻してある。銅鐸には絵画をもつものもある。シカ、イノシシ、水鳥、カメ、トカゲ、トンボ、クモ、カマキリなどの動物、狩りする人、魚をとる人、脱穀する人、舟に乗る人、争う人などの人物、そして米倉とみられる高床建物などの絵がそれである。これらから導かれるもっとも合理的な解釈は、農耕をたたえる物語と読み取る説である。銅鐸の文様・絵画は基本的に弥生土器のそれに共通しており、弥生社会のだれもがそれを理解できたことは明らかである。これは、銅鐸を墓に副葬しない事実とともにそれが特定の個人に所属したものではなく、社会の人々共有の祭器であったことを物語っている。

[佐原 真]

変遷・分布

銅鐸変遷の順は、鈕の形状を基準として四段階に大別でき、吊り下げるための機能を果たすにふさわしい実質的な鈕から、装飾過剰の鈕までを追うことができる。銅鐸は、中国の鈴(れい)の系統を引き、おそらく朝鮮半島独特の朝鮮式小銅鐸を祖形とするベルであって、最古・古段階の銅鐸の内面突帯は、舌と触れ合った結果、磨滅して低くなっている。

 銅鐸が近畿地方を中心として分布するのに対して、朝鮮半島製の3種類の青銅武器、銅矛(どうほこ)、銅剣(どうけん)、銅戈(どうか)は、もっぱら北部九州で死者に添えて埋めてあり(副葬品)、また、それを祖形とする日本製品の多くは、祭器として銅鐸と同様、埋納した状況で、九州地方を中心として、中国、四国から近畿地方に至る範囲でみいだされている。この分布を「銅鐸文化圏」「銅矛銅剣文化圏」ととらえて政治圏の対立とみる和辻(わつじ)哲郎の解釈が、これまで広く認められてきた。しかし、現在では、北部九州の二か所で銅鐸の鋳型が、近畿地方の三か所で銅剣や銅戈の鋳型がみつかっており、明確な「文化圏」の対立を説くことはむずかしい。銅鐸がなぜ埋納されたかをめぐってはいろいろの解釈がある。常時土中に保管し、祭りの際のみに取り出して使ったものが、祭りの終焉(しゅうえん)によって埋まったままになったとみるのも一解である。なお、最終的にどうして土中に埋めっぱなしになったかについては、人々共同の祭りが終わりを告げ、壮大な人工の丘に葬られるべき有力な個人が出現したことによってその個人の権威を正統づける祭りが到来したため、とも説明できよう。

[佐原 真]

『佐原真「銅鐸の鋳造」(『世界考古学大系2 日本2』所収・1960・平凡社)』


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「銅鐸」の解説

銅鐸
どうたく

弥生時代に盛行した日本特有の青銅製の鐸。農耕祭祀に用いられたとみられる。20cm前後のものから135cmの大型品まである。吊り下げるための半環状の鈕(ちゅう)と断面杏仁(きょうにん)形の身からなり,その内面端部近くには突帯がめぐる。鐸身の側面に,鰭(ひれ)とよぶ扁平な装飾部をもつ。内部に舌(ぜつ)を下げ,それが身にふれて音を発する鳴り物で,朝鮮式小銅鐸が祖型とされる。身を飾る主文様の違いによって横帯文銅鐸・袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸・流水文銅鐸などとよぶが,菱環鈕(りょうかんちゅう)式・外縁付鈕式・扁平鈕式・突線(とっせん)鈕式という鈕の構造変化に主眼をおいた型式分類が一般に用いられ,この順で銅鐸は大型化をたどる。その過程で鳴り物としての機能は変質し,徐々に祭器的・儀器的色彩を強める。これまでに約500個体が知られ,近畿地方を中心に西は島根・広島・香川・高知,東は福井・岐阜・長野・静岡まで分布する。また佐賀県吉野ケ里遺跡で横帯文銅鐸が発見され,九州でも一時期銅鐸の祭祀があったことが明らかとなった。集落から離れた山の中腹や谷間の傾斜地などから発見されることが多いが,集落からの発見例も増加している。銅鐸埋納(まいのう)の意義には宝器隠匿(いんとく)説・祭器埋納説・地中保管説・境界埋納説などがあるが,まだ定説をみない。製作開始時期も弥生前期末とする説と中期以降とする説がある。

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百科事典マイペディア 「銅鐸」の意味・わかりやすい解説

銅鐸【どうたく】

弥生(やよい)時代の青銅器。筒状で裾(すそ)の広がった身と鈕(ちゅう)と鰭からなる。大陸から伝えられた鐸が変形して日本独特のものに発達した。初期のものは鳴らした痕跡があるが,後期のものはその機能を失っている。いずれにしても宗教的儀式に関連するものであったことは確実とされる。外面に施される文様は,基本的に袈裟襷(けさだすき)文と流水文に類別されるが,人物・動物・建物などを絵画的に表現したものもある。分布は,近畿を中心として本州西部,四国に集中する。九州北部からは鋳型が出土しており,この地でも製作されていたことは確かである。
→関連項目青銅器鋳金流水文

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「銅鐸」の意味・わかりやすい解説

銅鐸
どうたく

弥生時代の青銅器の一種。扁円形の中空の身と,それを吊下げるための鈕とから成る。鐸身に流水文や袈裟襷文などの文様がある。本来は内部に舌をもち,鐸身を揺り動かして音を出す一種の楽器であったが,のちに次第に大型化し,祭器へと転化していったと思われる。おもに,広島県から静岡県にかけて分布するが,九州や関東からは小型のものが出土する。朝鮮半島に小銅鐸と呼ばれるものがあって,銅鐸の祖形とされている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「銅鐸」の解説

銅鐸
どうたく

弥生時代,偏平 (へんぺい) な釣鐘 (つりがね) 状の青銅製祭器
高さは20㎝前後から150㎝。装飾文様は,縦横に交叉する帯を用いて身を6または4区に区画した袈裟襷 (けさだすき) 文・流水文などがある。共同体の祭器らしい。近畿地方を中心に分布し,北九州中心の銅剣・銅鉾文化圏と対照的である。

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防府市歴史用語集 「銅鐸」の解説

銅鐸

 弥生時代の銅製品で、お祭りのときに使っていました。もともとは鐘[かね]のような楽器でしたが、次第に形が大きくなり、見るためのものになっていきます。

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デジタル大辞泉プラス 「銅鐸」の解説

銅鐸

藤森栄一による著作。1964年刊行。同年、第18回毎日出版文化賞受賞。

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世界大百科事典(旧版)内の銅鐸の言及

【太田黒田遺跡】より

…遺構には竪穴住居,溝,井戸,土壙墓などがあり,出土遺物も土器,石器をはじめ多種・多量におよんでいる。なかでも石の舌をもった銅鐸は,平野の集落から出土した前例の少ないもので,銅鐸の使用と埋納場所の関係を知るうえで貴重である。ほかに小型内行花文鏡も出ている。…

【小銅鐸】より

…弥生時代の銅鐸を小さくした形状の青銅製品。性質の異なるさまざまなものが,この名で呼ばれている。…

※「銅鐸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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