日本歴史地名大系 「下広瀬村」の解説 下広瀬村しもひろせむら 埼玉県:狭山市下広瀬村[現在地名]狭山市下広瀬東から西にかけて上広瀬村に囲まれ、南は北東流する入間(いるま)川を挟んで入間郡入間川(いるまがわ)村と黒須(くろす)村(現入間市)。上広瀬村の北に持添新田がある。高麗(こま)郡加治(かじ)領に属した(風土記稿)。近世前期までは上広瀬村と一括され広瀬村と称されていた。寛文四年(一六六四)の松平輝綱領知目録(大河内家文書)に下広瀬村とみえ、同年の河越領郷村高帳では高二一八石余、反別は田七町三反余・畑二〇町七反余。同帳に加えられた開発分では高三三石余、反別は田一町一反余・畑三町一反余。秋元家時代郷帳によれば高二〇七石余、検地出高三一石余、反別は田八町四反余・畑二四町余。 下広瀬村しもびろせむら 兵庫県:宍粟郡山崎町下広瀬村[現在地名]山崎町下広瀬山田(やまだ)村の南に位置する。古くは中広瀬村とともに広瀬(ひろせ)郷と称された。慶長一二年(一六〇七)姫路藩主池田輝政は「下広瀬村」一三六石余などを家臣の国府内蔵允に与えた(「国府久孝家譜」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は山崎村と同じ。正保郷帳では田方一六三石余・畠方六石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高二六六石余、田七町六反余・畑一町八反余、小物成銀一匁(茶役)・桑役(真綿)二〇匁、家数八・人数五〇、馬六・牛二。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by