日本歴史地名大系 「下河合村」の解説 下河合村しもがわいむら 石川県:河北郡津幡町下河合村[現在地名]津幡町下河合(しもかわい)大海(おおみ)川上流谷間の両岸、上河合村の西に位置。能登国羽咋(はくい)郡に属する。上河合村の枝郷という(仮名付帳)。天正一二年(一五八四)九月、佐々成政が越中国沢川(そうごう)村(現富山県福岡町)から当地に至り、休息したという(能登志徴)。同一九年一二月前田利家が織田信長の旧臣不破源六広綱に宛行ったなかに下河合村五九〇俵がある(「不破源六宛文書写」加越能文庫)。正保郷帳には下川合村とみえ、上川合村と並記して高付される。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二五六石、免五ツ四歩、小物成は山役二〇七匁・苦竹役一九匁、鳥役六匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。 下河合村しもかわいむら 京都府:天田郡三和町下河合村[現在地名]三和町字下川合・字梅原近世河合村の一集落であるが、実態としてはほぼ独立した村であったと思われる。佐藤信淵の「巡察記」も「川合ノ郷七村」の一つとして「下川合村」をあげる。民家八四戸(丹波志)。下河合はほぼ南西に流れる川合川が土師(はぜ)川に合流する辺りを占め、上流には岼(ゆり)、南には枝村梅原(うめはら)(丹波志)がある。「丹波志」によると下河合から最上流大原(おおばら)の大原神社までは「五十二町在、大原ノ内奥山ト云所凡五十町ノ谷也。合ノ百町余」で、東の加用(かよう)へは、「下河合南奥ヲフク谷ト云、入口ヨリ左ヘ二町斗行所小倉谷ト云嶺有、越之テ加用ニ出ル凡三十五六町斗、馬ハ不通」であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by