日本歴史地名大系 「天田郡」の解説
天田郡
あまたぐん
京都府丹波地区の北西部を占めたが、中央部が福知山市として割置されたため、現在は西北端の夜久野町と東南端の三和町のみである。
郡名は天平一九年(七四七)九月二六日付の勅旨(「東大寺要録」所収)に「丹波国天田郡五十戸」とみえるのが早く、「続日本紀」天平神護二年(七六六)七月二六日条には「散位従七位上昆解宮成得似白鑞者以献、言曰、是丹波国天田郡華浪山所出也」という記事がみえる。また「延喜式」(主税上)の「諸国運漕雑物功賃」の山陰道の個所に「丹波国
郡名の読みは「延喜式」武田本の神名帳に「アマタ」、「和名抄」刊本(郡部)に「安万多」と訓じている。
近代以前の郡域は、現天田郡二町および現福知山市から
〔原始〕
かつての天田郡のうち最も早く人が住み着いたのはどの辺りであったか明確でないが、
〔古代〕
天平宝字二年(七五八)一一月丹波国は大嘗会の「由機国」とされるが(続日本紀)、以後たびたび悠紀および主基の斎田が設けられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報