河合村(読み)かわいむら

日本歴史地名大系 「河合村」の解説

河合村
かわいむら

[現在地名]木之本町川合かわい・アットリ

木之本村の北東、高時たかとき川が支流杉野すぎの川と合流する地の両岸の段丘・山地に立地。北東部杉野川左岸に枝郷音羽おとわ村がある。川合とも書く。杉野川沿いに北へは金居原かねいはら村を経て八草はつそう峠越(久加越)広瀬ひろせ(現岐阜県揖斐郡坂内村)へ至り、南は溢取あつとり峠越で木之本村へ出る道が通じていた。西部山地の川合遺跡から縄文式土器や切目石錘などが出土、寺山てらやま横谷よこたに栗谷くりたに下方しもがたなどに古墳が認められる。康暦二年(一三八〇)一〇月二三日、直仁親王は令旨を長福ちようふく(現京都市右京区)に下し、河合郷を同寺別伝べつでん院に寄進している(長福寺文書)


河合村
かわいむら

[現在地名]阿山町川合かわい大江おおえ

馬場ばば村・波敷野はじきの村の南。河合川に沿って北上し馬場村に至る道と、分れて西進し大江を通り波敷野村に至る道がある。大江は枝郷であり「伊水温故」に大江村とある。波敷野道の西側に野木のぎ古墳・馬塚うまつか古墳があり、村の中央部南割尾わりお周辺には羽広はびろ一号・二号墳や割尾山わりおやま古墳があり、大江の現上野市境界近くに樋口谷ひぐちだに一号・二号墳があり、いずれも円墳で横穴式石室の確認できるものが多い。河合川に沿って条里制の遺構が確認され、川の東部ではとくに顕著である。古代川合郷に属する。永久三年(一一一五)五月二五日付の伊賀国東大寺領北杣出作田注進状(東南院文書)の「川合郷山内出作廿丁五反六十歩」は当村辺りであろうと想像できる。


河合村
かわいむら

[現在地名]岸和田市河合町・上白原かみしらはら

土生滝はぶたき阿間河滝あまがたき両村の南、津田つだ川上流の盆地、神於こうの山の南麓に位置する。神於村からの三昧さんまい川を村内で合流する津田川は、村の東部から北西流し、これに沿って塔原とのはら街道が村の西を走る。中世には川井・河井とも書き、観応元年(一三五〇)八月日の淡輪助重軍忠状(淡輪文書)によれば、畠山国清に属する助重は神於寺の敵を攻め、「河井口一坂」で合戦している。下って天文一九年(一五五〇)六月二一日の九頭神衛門屋敷地売券(中家文書)に「南郡木島郷之内河合村カミノカ井ト」と村名がみえ、当地が木島きのしま郷に含まれていたことが知られる。


河合村
かわいむら

面積:一八七・一九平方キロ

四方を山に囲まれ、昔から当地区は上山中かみさんちゆうとよばれた。北東は宮川みやがわ村、北西は富山県婦負ねい八尾やつお町・東礪波ひがしとなみ利賀とが村、西は大野郡白川しらかわ村、南は同郡清見きよみ村、東は古川ふるかわ町に接する。小鳥おどり川が中央部を北東流し、村境近くで稲越いなごえ川を合せ、宮川に合流する。多くの支流はいずれも深い谷をなし、壮年期の地形を形成している。国道三六〇号が宮川に架かる河合橋を渡り、ほぼ小鳥川に沿って西に走り、天生あもう峠を経て白川村に至る。当地方の山中紙は中世から知られており、領主向家熙は京都での進物に紙を多用している。


河合村
かわいむら

[現在地名]松原市河合一―六丁目・南新みなみしん町二―三丁目

八上やかみ郡に属し、丹北郡松原村の北西、西除にしよけ川左岸にある。南は野遠のとお(現堺市)、西はなか(現同上)。村域南東部古墓山こぼやま河合南かわいみなみ遺跡から一〇〇余個の弥生時代の石鏃が出土した。

天正一一年(一五八三)八月一日に豊臣秀吉が福島市松(正則)に与えた知行の一所に「河州八上郡内河合郷」三一七・八七石があった(福島文書)。文禄三年(一五九四)の検地帳(岡田家文書)の表紙には「八上郡内河合村御検地帳」とあり、反別四〇町四反余・分米五二一石、反別のうち八町七反余(村高の二二パーセントに相当)更池さらいけ村民が保有していた。


河合村
かわいむら

[現在地名]鳥越村河合

瀬木野せぎの村の南西に位置し、集落は手取川左岸の河岸段丘上にある。村の南東端で同川に大日だいにち川が合流する。貞和三年(一三四七)七月二五日の藤原重宗寄進状案と同日付の藤原重宗売券(ともに祇陀寺文書)に「河合村」および「河合一村」とみえ、河内こうち庄地頭藤原(結城)重宗が祇陀ぎだ(現吉野谷村)に売寄進した広瀬ひろせ村瀬切野の田畠について、重宗の子孫が違乱を行った場合、その代償として河合村を同寺領とする旨を約している。長享二年(一四八八)の加賀一向一揆を詳述した「官知論」に現れる河合藤左衛門尉宣久は、当地に関係する土豪と考えられ、現在の集落中央に残る藤平屋敷とうべいやしきの地名はその館跡と伝えられる(鳥越村史)


河合村
かわいむら

[現在地名]三和町字梅原うめはら・字台頭だいと・字上川合かみかわい・字大原おおばら・字ゆり・字下川合・字加用かよう

天田郡の東北部を占める。北は現綾部市、西は現福知山市、東から南は現船井郡と境する。土師はぜ川の支流川合川に沿い、合流点からほぼ東北の方向に延びる約一二キロの細長い谷に集落が点在する。

高一五三四・四石、民家四〇五戸、綾部藩領(丹波志)

河合村は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳、天保郷帳には一村として高付されているが、実態としてはほぼ独立した六村に分れていたと思われ、「丹波志」には

<資料は省略されています>

と記され、佐藤信淵の「巡察記」も「川合ノ郷七村」として河合谷の南にあたる大身おおみ村を含む七ヵ村をあげる。


河合村
かわいむら

[現在地名]春日村川合かわい

香六こうろく村・小宮神こみかみ村の西にあり、集落の東でかす川と長谷ながたに川が合流する。川合とも書く。長谷川の水源となっている伊吹山東麓には枝郷の古屋ふるや笹又ささまたがある。大永二年(一五二二)一〇月吉日の年紀をもつ当地光明こうみよう寺蔵の鰐口陰刻銘に小島おじま庄河合光明寺とある。正保郷帳に河合村とみえ、畑五四石余・山年貢五石余・紙桑木高一石余のほか、小物成に綿二貫八三〇匁・米六石・ひそ木四一九本・入木七七九束があった。元禄一三年(一七〇〇)の西山村諸色差出帳(所文書)では家数六六・人数三五八。明治五年(一八七二)村明細帳によれば畑一二六石余・一二町四反余、新田高六六石、家数七六・人数三九五。神社は六社ろくしや神社・八幡神社白山神社津島つしま神社など、寺は光明寺(現浄土宗)・西光寺(のち廃寺)


河合村
かわいむら

[現在地名]和泉村川合かわい

石徹白いとしろ川の左岸、九頭竜くずりゆう川との合流部近くに位置。石徹白川上流は貝皿かいざら村、下流は朝日あさひ村。川合村とも書かれた。村名は、天正一二年(一五八四)四月一五日付の長勝ちようしよう(現大野市)への帰参連判状(長勝寺文書)に「河合村」とみえる。

正保郷帳によれば田方九石・畠方三石余。「越前地理指南」は枝村として「小原」をあげる。


河合村
かわいむら

[現在地名]恵那市笠置町河合かさぎちようかわい

中野方なかのほう川が木曾川に合流するあたりの平坦地と、その背後の山地からなる。東は姫栗ひめぐり村、北は中野方村、西は加茂郡飯地いいじ村に接する。郡境に位置するため時代により加茂郡であったり、恵那郡だったりしたが、原則的には加茂郡に属したと思われる。関ヶ原の合戦後遠山友政(苗木藩)領となり、以後幕末まで同藩領。慶長郷帳に恵那郡川井村とあり、高二一八石余。


河合村
かわいむら

[現在地名]藤原町川合かわい

西野尻にしのじり村の東、員弁川とその支流相場あいば川との合流点右岸に位置する。「神鳳鈔」に中世の伊勢神宮領として「川嶋御厨上分田三丁、各一石五斗、六九十二月」を載せるが、「員弁雑志」はこの川嶋を河合に比定している。江戸時代の郷帳などには河合村と記されるが、かつて和田村とよばれたこともあったという(員弁郡郷土資料)

江戸時代を通じて桑名藩領。


河合村
かわいむら

[現在地名]土岐市泉町河合いずみちようかわい

肥田ひだ川と合流して西流する土岐川の北岸にあり、東は月吉つきよし村・山野内やまのうち(現瑞浪市)、西は定林寺じようりんじ村。中央をした街道が東西に通る。河井・川井とも書く。康永三年(一三四四)一一月一九日の足利直義下知状案(臨川寺重書案文)に「高田郷内河井村」とあり、京都臨川りんせん寺三会院領高田たかた勅旨田のうち。同下知状によれば同年六月五日地頭源氏(土岐頼貞女)と三会院雑掌行心との間で和与が行われ、村内の四名が三会院方へ去渡された(多治見市の→高田勅旨田。慶長郷帳では高四八一石余、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では松平乗寿(岩村藩)領。


河合村
かわいむら

[現在地名]桜井市大字川合かわい

寺川と粟原おうはら川の合流点東に所在。西は戒重かいじゆう村。南北朝時代には南朝方の戒重西阿が当地に河合城を築き(渡辺源四郎実軍忠状)、明治中頃まで堀跡が残っていたが市街化により消滅。暦応四年(一三四一)三月の西阿対細川顕氏の河合城合戦の記事が田代文書・天野文書などにみえる。

慶長郷帳の村高二一〇・二石。慶長五年(一六〇〇)織田有楽(長益)領。元和七年(一六二一)幕府領(代官中坊秀祐)。明暦元年(一六五五)津藩(藤堂高次)領に編入され、廃藩置県に及んだ。


河合村
かわいむら

[現在地名]美山町大字つるおか 川合かわい

鶴ヶ岡一九ヵ村の一。由良川の支流棚野たなの川に西にし川が合流する地点に開けた山間集落。北は棚野川を挟んで殿との村、川を下ると棚村がある。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属する地。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村ののむら庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)、確証はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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