日本歴史地名大系 「下瀬山城跡」の解説 下瀬山城跡しもせやまじようあと 島根県:鹿足郡日原町脇本村下瀬山城跡[現在地名]日原町河村高津川左岸の下瀬山(三一六メートル)の山頂にあった下瀬氏の居城。横山(よこやま)城ともいう。下瀬家譜(閥閲録)によると、吉見頼行の次男頼右は、初め三河国八橋(やつはし)(現愛知県設楽町)の下之瀬(しものせ)を領して下瀬氏と称したが、頼行の嫡子頼直が石見国津和野に入部するのに従って下向し、同国横山に住んでこれを下瀬山と改めたという。下瀬氏の居館は下瀬山城の南麓の堀内(ほりのうち)にあり、時には高津川の対岸の三渡(みわたり)八幡宮を中心として屋敷田(やしきだ)・門田(かどた)・木戸口(きどぐち)の地名の残る脇本(わいもと)に移ったこともあったと推定される(日原町史)。下瀬山城は津和野三本松(さんぼんまつ)城の重要な支城で、三畦(みうね)峠・松尾(まつお)谷を経て津和野への尾根伝いの道で両城は結ばれていた。とくに領域を接することで対立することの多かった益田氏との戦闘では吉見側の最前線であった。天文二〇年(一五五一)九月に陶隆房(晴賢)が大内義隆を倒し、大内義長を擁立して実権を掌握すると、吉見正頼はその夫人が義隆の姉でもあるため、陶方と対決する途を選び、天文の役が始まった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by