下牟田村(読み)しもむたむら

日本歴史地名大系 「下牟田村」の解説

下牟田村
しもむたむら

[現在地名]筑後市井田せいでん

古島こじま村の西、花宗はなむね川左岸に位置する。中世水田みずた庄のうち。暦応二年(一三三九)四月九日の北水田蓮信和与状(太宰府天満宮文書/南北朝遺文(九州編)二、以下中世史料は断りのない限り同文書)に「下牟田」とみえ、北水田蓮信は建武三年(一三三六)に足利尊氏から与えられた楠木くすのき町と称する北水田庄福島ふくしま村内の当地の田地四町などの引渡しを受ける段になって、大鳥居信高から異議を申立てられ訴訟となった。しかし暦応二年当地内の田四町と蓮信が開発した当地内の田地などを信高が蓮信に譲渡する代り、その他の土地に関して蓮信は介入しないことで和解が成立した。楠木町は折地おりじのうち楠木町に比定される。正平一八年(一三六三)大鳥居信高は当地などに関して征西将軍宮懐良親王に訴えている(同年八月二〇日「征西将軍宮令旨」大鳥居文書/南北朝遺文(九州編)四)。永和三年(一三七七)には当地に応安の半済令が適用されそうになり、安楽寺(太宰府天満宮)側は当地が社家一円知行地であることを理由に適用除外を訴えた(一〇月二八日「今川了俊書状」南五)。しかし領家が高辻家であったため安楽寺の主張は認められなかったようで、当村などからの京進物が領家に納入されなくなった。


下牟田村
しもむたむら

[現在地名]熊本市画図えず下無田しもむた

東と南は加勢かせ川、西は重富しげとみ村・所島ところじま村、北は上牟田かみむた村である。慶長一一年(一六〇六)検地帳では「新牟田下村」と記され、田方九一町四反一畝余・畠方一四町八反三畝余、分米一千二六〇石二斗余である。田迎手永に属し、宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳では「下無田村」と記され、惣畝数一一三町二反三畝余、うち御蔵納は田畑一一〇町八反二畝余、高一千四〇一石四斗余で、他は新地請藪などである。安政二年(一八五五)田迎手永略反別御手鑑では上掛うわがかり庄屋下掛しもがかり庄屋が置かれ、そのほかに上掛庄屋管轄の中掛なかがかりと、下掛庄屋管轄の中掛があったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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