下田中村(読み)しもたなかむら

日本歴史地名大系 「下田中村」の解説

下田中村
しもたなかむら

[現在地名]倉吉市下田中町・上灘町うわなだちよう南昭和町みなみしようわまち東昭和町ひがししようわまち昭和町しようわまち二丁目

少林寺しようりんじ村の北、竹田たけだ川の西岸に位置する。倉吉往来が通り、同往来の一里塚が設けられていた。拝領高は四二三石余、本免は四ツ八分。倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。寛政年間(一七八九―一八〇一)久米郡御通筋厘付帳(県立博物館蔵)では本田高四六二石余(うち畑高二七石余)、永荒九石余を引いた残高に古開高一五石余を加え今高四六八石余、物成二二四石余。家数五五、男一二九・女一一七、牛二八。産土神は梶宿大明神(現勝宿祢神社)幕末の六郡郷村生高竈付では生高五三〇石余、竈数六八。藪役銀三匁一分が課されていた(藩史)。慶長一九年(一六一四)倉吉に配流となった前安房館山藩主里見忠義は、元和三年(一六一七)池田光政の鳥取入部により倉吉から移され、同五年ほり(現関金町)に再び移されるまでの間当村に住した(「倉吉町誌」など)

下田中村
しもたなかむら

[現在地名]新田町下田中・早川はやかわ

大間々おおまま扇状地南方の沖積地にあり、東境を石田いしだ川、南西境を早川が南流する。北は上田中村、東は上江田かみえだ村・高尾たこう村、南は小角田こずみだ(現尾島町)、西は花香塚はなかづか村。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に空閑郷々一九ヵ郷の一つとして「たなか」とある(→田中郷近世は寛永三年(一六二六)阿部忠秋領となり、阿部氏の転封・加増に伴い同一六年武蔵忍藩領となる。寛文四年(一六六四)の同藩領知目録(寛文朱印留)に下田中村とみえる。寛文郷帳では田方七〇四石九斗余・畑方二一五石余。元禄郷帳では旗本山岡・中根・神谷・鈴木・山本領の五給。天保三年(一八三二)の山岡十兵衛知行所村々高帳(赤石文書)では旗本中根・山岡・本間・桑山大岡・小笠原・稲生領の七給となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android