日本歴史地名大系 「田中郷」の解説 田中郷たなかごう 滋賀県:高島郡安曇川町田中郷鴨(かも)川支流の八田(はつた)川下流左岸、現安曇川町中南部付近に比定される。江戸期の南市(みなみいち)村・鍛冶屋(かじや)村・請所(うけじよ)村・下(しも)ノ城(しろ)村・馬場(ばば)村・仁和寺(にわじ)村・産所(さんじよ)村・三田(みた)村・佐賀(さが)村・上寺(うえでら)村は田中郷一〇ヵ村と称された。「吾妻鏡」嘉禎元年(一二三五)七月二九日条に「高島郡田中郷」とみえ、当時の地頭は佐々木高信(近江守護佐々木信綱の子)であった。同年六月、高信は勢多(せた)橋(現大津市)行事として当郷の坂本日吉社新神人に所役を課したが、これを拒否されたため地頭代の田(田中か)右兵衛尉重盛と日吉社宮仕法師との間に喧嘩が起き、宮仕が殺傷される事件に発展、高信らは流罪となっている(同書同年七月二七日・二九日条、「天台座主記」)。 田中郷たなかごう 静岡県:田方郡大仁町田中郷天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉掟書(渡辺文書)など五通の掟書によると、長岡(ながおか)村(現伊豆長岡町)、「ミ福村」・「大ひと村」、「かのまき村」(現修善寺町牧之郷か)、「わふミ村」(比定地不明)が田中郷内とみえ、現大仁町の田中山を中心に、伊豆長岡(いずながおか)町・修善寺(しゆぜんじ)町の一部にかかる地域に比定される。狩野(かの)庄に含まれた。正平一四年(一三五九)一〇月二日の石塔範茂書下(伊東文書)に「狩野庄之内田中郷」とみえ、南朝方石塔範茂が伊東祐茂に当郷政所職を安堵している。天文七年(一五三八)には田中の革作職人一人が長岡の九郎衛門の統率の下にあった(同年三月九日「北条家朱印状」宮本文書)。 田中郷たなかごう 群馬県:新田郡新田町田中郷新田庄に属する郷で、近世の上田中村・下田中村一帯。室町時代には四ヵ村からなっていた。仁安三年(一一六八)六月二〇日、新田氏の祖義重が庶子らいわう(義季)の母に譲与した一九ヵ郷中に「たなか」とみえる(「新田義重置文」長楽寺文書)。その後本宗家の所領に戻り、元久二年(一二〇五)八月に義季の兄義兼に安堵され(「源実朝下文写」正木文書)、さらに義兼妻新田尼を経て、岩松氏系の田中を名乗る時明(義兼孫)に伝えられた(建保三年三月二二日「将軍家政所下文写」正木文書)。 田中郷たなかごう 山梨県:東八代郡一宮町南田中村田中郷現一宮町田中と現山梨市一町田中(いつちようたなか)一帯に比定される。文明五年(一四七三)一二月七日の栗原信重代官寄進状(大善寺文書)に「田中郷」とみえ、郷内の年貢一貫文が大善(だいぜん)寺(現勝沼町)に寄進されており、栗原(くりばら)郷(現山梨市)の国人栗原氏の所領であったと思われるが、この寄進状は検討の余地がある。永禄四年(一五六一)の番帳に五番「田中之禰宜」がみえ、勤番社は一町田中の白山権現にあたると考えられる。 田中郷たなかごう 岡山県:美作国苫西郡田中郷「和名抄」諸本に訓はない。吉井川左岸の河岸段丘を中心とする現津山市小田中(おだなか)一帯が郷域と考えられる。「大日本地名辞書」「日本地理志料」などは当郷を宮(みや)川以西の旧津山城下を中心とする地とする。平城宮跡から「美作国苫田郡田中郷庸米五斗」の木簡が出土した。旧城下に含まれる椿高下(つばきこうげ)の段丘上に椿高下遺跡がある。 田中郷たなかごう 香川県:讃岐国山田郡田中郷「和名抄」の諸本ともに訓を欠く。「全讃史」には田井(たい)郷とあり、「大日本地名辞書」「新修香川県史」は田井の誤りとする。 田中郷たなかごう 香川県:讃岐国三木郡田中郷「和名抄」東急本には「多奈加」と訓を付す。「日本霊異記」にみえる三木郡大領の妻田中真人広虫女は、あるいは当地の出身か。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by